カルムのひらめき
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かなり心配したが、結局母親は来なかった。あれは脅しだったということなのだろう。
しかし本当に肝が冷えたということもあり、また気晴らしのものが手に入ったということもあり――カルムは、執事たちやアーミナが気味悪がるほどおとなしかった。アーミナは脱走者に容赦をしないと聞いたことがあるが、その噂はきっと間違いだったのだろう。アーミナは純粋にカルムの体調を案じ、小言も言わずに念入りに診察をしてくれた。こちらが恐縮してしまう。
ベッドに居心地が良いようにくるみこまれ、問診をされ診察をされる間、ずっと考えていた。手に入れたばかりの“日記”を解読するためにはどうすればよいだろうか。辞書を片手に少しずつ訳していくしかないと分かっているが、一刻も早くあの中身を知りたい。ああ、なぜアナカルシスまで行ったあの時に、読み書きの方も習得しておかなかったのだろう。
先ほどグスタフの病室の前を通った時、リーダスタとラセルがいるのが見えた。ラセルを見て、何か思いついたことがあったような気がするのだが……
「この薬、ちゃんと飲みなさいね。わかった? それから、少しでも吐き気がしたらすぐに教えてね。ベッドから降りずに、今日は一日よく眠りなさい」
アーミナはそう言いおいて、白衣の集団を連れて出て行った。パタン、と扉が閉じる。しん、と静寂が落ちる。ありがたさと申し訳なさを感じながら、カルムはゆっくりと身を起こした。
今は病衣を着せられており、先ほどまで着ていた衣類はしわを伸ばされて壁に掛けられていた。あの“日記”はポケットに入っているはずだ。
小さく縮めたケースがちゃんとポケットに入っているか、心配でならなかった。今はめまいと倦怠感があるために無理だが、一眠りして少し元気が出たら、すぐにでも辞書を片手に解読を始めたい。カルムはベッドを降り、できるだけそっと動いて服のところへ移動した。ポケットを確かめると、小さな、しかし確かな硬さが手に触れた。ありがたい。落とさずに済んだようだ。
と、
ばん。
扉が開いてアーミナが顔を出した。
息詰まる沈黙が流れた。
静寂の中、アーミナはにっこり笑った。
「そんなことだろうと思ったわ。今度はどこへ行くつもり」
「……誤解です」
つかつかつか、と歩みよって来た。カルムはその形相に気圧されて、手の中のものをポケットに戻すことすらできなかった。アーミナはカルムの右手をつかんで、出させて、開かせて、書類入れを取り上げた。しかし予想外のものだったらしく、少し形相が和らいだ。
「何これ。今から探しに行くつもりの宝の地図かしら」
「……違います」
万一没収されたらと思うと背筋が冷える。アーミナの気配が戻ってくることにも気づかなかったなんて大失態だ。
アーミナは書類入れを元の大きさに戻して、中を覗いて、あら、と言った。
「アナカルシス語入門? ……ラスは翻訳機を使っているから、会話には不自由はしないでしょう?」
「え、いや、その。ら、ラスは、関係なくて。せっかく休みになったから、勉強でもしておこうかな、と……」
アーミナは呆れたようだった。
「絶対安静って言ってるでしょう? あなたのはただのケガじゃないの。体に入った〈毒〉を追い出さなきゃいけないのよ、脳みそ使うのも控えなきゃ。ほら、寝台に戻りなさい」
「……」
抵抗を試みる。アーミナがまだ書類ケースを持っているのが気がかりでたまらない。アーミナはカルムを睨み、
「……あたしの言うことが聞こえないの?」
「聞こえます……」
しぶしぶ寝台に戻る。まさか没収まではしないだろう。そう願いたい。
アーミナはカルムの後ろからついてきながら、ため息をついた。
「グスタフもだけど、あなたがたはどうしておとなしく療養するということができないのかしら。安静というのはね、寝台から降りたらダメ、ということなのよ。この機会に語学を習得しようという心意気に免じて取り上げまではしないけど、とにかく今は眠りなさい。今から寝て、お昼ごはんを食べて、また一眠りして、目が覚めたらやってもいいわ。一時間だけ」
「えー。……いえなんでもありません」
アーミナはカルムが寝台に戻るまで見守り、『アナカルシス入門』を書類入れに戻し、部屋の隅、寝台から絶対に届かない場所にある棚に乗せた。
「ここに置くわね。今度来た時に書類入れとその中身が全部ここに置いてなかったら、没収します。わかりました?」
「……」
「わかりました?」
「……わかりました」
「いい子ね。すぐ来るわよ。いいわね?」
「はい」
渋々諦めて、カルムは毛布をかぶった。確かに吐き気は胃の中でくすぶっているし、倦怠感はまだまだ根強く、横になれてホッとしたことも確かだった。
扉が閉まった十七秒後にアーミナが戻って来たのはさすがにわかって苦笑したが、三分後の時はもう、ぐっすり眠り込んでいた。
だから午後も遅くなってリーダスタが見舞いに来た時、カルムはついムッとした。ようやくアーミナの許可が下りて、ノートを開こうとした矢先のことだったからだ。
「カルムー。具合はどー…………なんで仏頂面なのさ」
リーダスタは目を丸くしている。ダメだ、とカルムは自分を戒めた。タイミングが悪かったのは確かだが、見舞いに来てくれた人間に不機嫌な顔を見せるのは筋違いだ。
「いや、なんでもないんだ。見舞いに来てくれたのか。ありがとう」
そう言うとリーダスタは中へ入った。
「うん、ちょっと相談があってさ。すぐ話しに来たかったんだけど、アーミナ先生に追い返されて遅くなった。よかった、ちょっと顔色よさそうじゃん。脱走したって聞いたけど、家に帰ってたの?」
「そう」
リーダスタはとことこ歩いてきてぽすんと椅子に座った。
「良くやるよねえ、脱走なんて。なんか持ってこようと思ったんだけど、聞いてからにした方がいいかと思って。なんか食えそう? 食堂から旨そうなものもらってこようか?」
「いや、アーミナ先生から、固形物は許可が下りるまで口にするなって言われたんだ」
今朝、ドリーの心づくしを口に入れた瞬間に吐き気が襲ってきたことを思い出す。今も食欲はぜんぜんない。リーダスタはふうんと言った。心配する様子が全くないところがありがたい。
カルムは訊ねた。
「グスタフは? 大丈夫なのか」
「ああ、カルムよりずっと元気そうだよ。足にひびが入ったのと、左肩の脱臼と、その他全身の打ち身があるってのに、薬草刻むバイトしてた」
「バイト――? 入院患者なのに? そんなことしてて大丈夫なのか?」
「いやーグスタフもカルムには言われたくないだろうけどねえ。大丈夫、めちゃくちゃ元気そうだったよ、医局の食事が物足りなくて飢え死にしそうだって。そんでラスが見舞いに来たときに、山盛り食事持ってってやってた。そーそー、ラスがね、見舞いに来られなくてごめんねって言ってたよ。朝来たときにはカルム、脱走中だったし、帰ってきたらアーミナ先生に面会謝絶って言われちゃったから見舞いもできなくて――めっちゃ忙しいんだって」
「忙しいのか? 休みなのに」
「なんかね、今頃、地図作成の魔法道具作った技術者と会ってるらしいよ。すっげウキウキで出かけてった。今日の午前中は購買の店長と打ち合わせしたらしいし、明日は王立研究院で魔法道具に関する講義やるんだって」
「へえ……」
「王立研究院の特任研究員の身分もあるんだってさ。すっごいよねえ」
まだ学生の身分なのに、大したものだ、と思う。しかし言われてみれば当然だろうという気もした。魔法道具作成試験の時にあの小部屋に詰めかけた研究員たちの熱意を思い出せば、彼女が休みに入ったら講義を頼みたがるであろうことは容易に想像がつく。何しろ彼女はかのエスメラルダ大学校国の――
「――あ。」
カルムはつぶやき、まだ何か話していたリーダスタが聞き返したんだ。「え、なに?」
「……そうだよ。ラセル……そうだよ、ラセルは、エスメラルダ出身じゃないか!」
リーダスタは呆れたようだ。「今さら何言ってんの?」




