アーミナの怒り
*
朝の空気はさわやかだった。
ラセミスタは身支度を整えて部屋を出、厳重に防犯装置を仕掛けてから、まず真っ先に郵便受けを覗いた。マリアラの手紙は今日も届いていない。リンからの返事も、もちろん。
ちょっと前にラセミスタは、ついにリンに手紙を書いてしまっていた。マリアラのことが心配でたまらなくなったからだ。忙しい折に手紙を催促するような真似はしたくなかったが、マリアラのあの真面目さと律義さを考えたら、ラセミスタへの手紙を書くのが億劫になってしまったなんてちょっと考えられない。体調を崩しているのではないだろうか。マリアラは本当に真面目だから、頑張りすぎてしまっているのではないだろうか。
リンからの手紙が届いていないのは不思議でも何でもない。ガルシアからエスメラルダまではどんなに急いでも片道五日はかかるのだ。通常郵便ならば一週間ほどは見た方がいい。ラセミスタの手紙は、今頃エスメラルダに着いたかどうかというところだろうから、リンからの返事が来るのは少なくとも一週間は先だ。
そうわかっていても、空っぽの郵便受けを見るときに感じる落胆はどうしようもない。
気を取り直し、次は厩舎に向かう。高等学校には牧場もあるのだ。そこではマティスたちがのびのびと暮らしている。操獣法の試験で捕まえたあの巨大なマティスは遠目からもわかるほどの巨大さで、朝に散歩に来る近所の人たちやジョギング中の高等学校生たちが、一番良く見える場所で足を止めていた。なるほど、こうしてみるとかなり見ごたえのあるマティスだ。あの巨大な角。そして隆々たる体躯。あの獰猛さが嘘のように、マティスは穏やかに草を食んでいる。
グスタフとカルムが元気になったら、あのマティスの今後について話し合いがもたれることになっている。それまでの間、ここで世話をしてもらうことになったのだが、その間にきっと大勢の見物人が来るだろう。そんな予感を覚えながらラセミスタは、マティスに近づかずに踵を返した。もしマティスがラセミスタに気づいたら、喜んでしっぽを振りながら近づいてきてしまうかもしれない。そうしたら見物人たちに騒がれてしまうだろう。
あのマティスを屈服させたのはグスタフだ。マティスはグスタフの命令を聞くようになった。リンリという名だった、あの白い毛むくじゃらの生き物(銀狼の片割れ?)が命じてくれた結果のようだ。銀狼というのがどんな生き物なのかラセミスタは知らないが、伝説上の生き物に近いようなものなのだとしたら、それはマティスを屈服させるくらい簡単だろう。
リンリはどうやらマティスに、ラセミスタのことを頼むか何かしていってくれたらしい。あのマティスはラセミスタの命令も聞いてくれるようになった。いつかフェルドがここに来たら、グスタフに頼まなくても、あのマティスに乗せてあげることができる。フェルドはきっとラセミスタを見直すだろう。
その日のことを思うとちょっと元気が出た。ラセミスタは足を速め、医局へ向かった。今日は忙しくなりそうなのだ。お見舞いに来られる時間は今くらいしかない。カルムは今日も重湯かおかゆくらいしか食べられないだろうが、グスタフは胃腸は大丈夫、の、はずだ。左腕が使えずに難儀するだろうから、朝食のときに手伝ってあげられたらちょうどいい。
そう思って、やってきたのだが――。
医局は、大騒ぎになっていた。
アーミナは普段、とても優しくて穏やかな女性である。しかし今、彼女は恐ろしかった。何人もの白衣の人々を引き連れて、怒濤の勢いで巡回していた。病室の扉を蹴り開け「邪魔するわよ!」宣言して中に入り、少し経ってまた出てきて「邪魔したわね!」次の扉へ向かう。その扉から出てきたアーミナは思わずといった風に叫んだ。
「ここにもいない――全くもうっ、どこ行ったのよあのくそ坊主! 絶対安静だってあれほど――!」
誰か脱走したらしいとラセミスタは悟った。でも、誰だろう?
「ラス!!」
アーミナがラセミスタを見とがめて叫び、返事をする前に目の前に迫っていた。がっと両肩を掴まれて、アーミナの美しい顔が間近で叫ぶ。
「カルムを知らない!? 逃がしてない!? 匿ってない!?」
「え、え、え、」
ぐらぐら揺すられてラセミスタは声が出ない。アーミナの手が肩から離れた瞬間に、何とか頭を振る。
「し、し、知らないです。……カルムが? いないんですか?」
「いないの!! 着替えて、早朝に出てったらしいのよ……信ッじらんないあのくそ坊主!! 〈毒〉よ! 〈毒〉にやられてんのよ――ガルシアの人たちは〈毒〉の恐ろしさを知らないわけ!?」
「はあ、いや、その」
アーミナの後ろをおろおろとついて回っている白衣の男性がおろおろとそう言い、アーミナは憤然と息をつく。
「〈毒〉を舐めてると痛い目に遭うわ。魔女の治療を受けないって決めたんだから、それ相応の対処を取らなきゃいけないってのに――ほらみんな、捜して捜して! 見つけたらベッドに縛り付けてやる!!」
こんなに怒っているアーミナを見るのは初めてだ。魔女は、治療を拒まれるのはとても傷つく人たちだと知っているが、患者に脱走されたアーミナは激昂するということがわかった。ラセミスタは密かに肝に銘じた。ひとたびアーミナの治療を受けることになったなら、最後まで大人しくその指示に従うべきだと。
アーミナは再び捜索を開始し、ラセミスタはなんとなくそのあとをついていった。アーミナがまた一つ病室の扉を蹴り開けた。〈グスタフ〉と書かれたネームプレートをラセミスタが見上げたその時、
「――ちょっとあんたまでなにやってんのよー!!!」
アーミナが悲鳴を上げ、ラセミスタはアーミナの隣から中を覗いた。
青臭い匂いがぷんと鼻をつく。
正面のベッドは布団とシーツをどかされ、広々とした作業台のようになっていた。その上に並べられているのはたくさんのボウル。ボウルの上には細い植物の入ったざるが載っていたり載っていなかったりしている。そのおびただしい数のボウルには、どうやら、全て同じ薬草が入っているらしい。全て何らかの液体(水?)に漬けられている。
グスタフはベッドの脇の椅子に座って、側机の上においたまな板と包丁で、絞った薬草を細かく刻んでいた。左肩を包帯でガチガチに固定されているにもかかわらず、である。
「腕を!!! 動かすなと!!! 言ってるでしょうが!!!」
アーミナが叫ぶ。血管が心配だ。グスタフはこちらに向き直り、「おはようございます」と言った。
「左腕は動かさないようにしています。右手は大丈夫なので、」
「あのねえグスタフ、ベッドの存在意義って知ってる?」
「はい、快適に休ませていただきました。いつも起きている時間になったら目が覚めてしまって。ジョギングにはいけそうもなかったので」
「………………あー」
アーミナは急に投げやりになった。
「いーわもう、わかった……あんたはちゃんと部屋にいたから、脱走してなかったから、それでよしとしてあげるわ……。あのね、これだけは守って。うろうろ動き回っちゃダメよ。薬草絞るのも煎じるのも、そうね、左腕に負担がかからなきゃ何でもいいわ。あたしはカルムを捜さなきゃなんないの……グスタフ、まさかあんた、ベッドの下にカルムを匿ったりしていないわよね?」
「いないです。カルム、脱走したんですか? 〈毒〉が体に入ったのに?」
「左腕を脱臼骨折しておきながらベッドから降りてバイトしてる子がそれ言う……ううん、いい。わかった。邪魔したわね……カルムを見つけたらすぐにあたしに言ってね、逃がしたらあんたも同罪だからね。わかった?」
そう言ってアーミナは、グスタフの返事も聞かずに出て行った。朝からご苦労様です、とラセミスタは思う。
「おはよう、ラス」
グスタフはそう言い、ラセミスタはグスタフに向き直った。
足にも包帯が巻かれているが、顔色も悪くなく、かなり元気そうだった。その言い方には屈託というものが全くなかった。
ラセミスタは一瞬だけ逡巡した。グスタフは、ラセミスタが少女だと、初めから知っていたのだろうか。
操獣法の試験の時に、どうやら、みんなが知るところになったらしい――と言うことは、少なからぬ衝撃だった。まさかその時まで知らなかっただなんて。今まで男の子に間違えられたことなど一度もなかったのに、ガルシアの常識というものは、本当によくわからない。
グスタフはどうだったのだろう。初めから知っていたのか、それとも、操獣法まで知らなかったのか。初めから仲良くなれたように思ったが、それは少年だと思っていたからなのだろうか。
しかしどちらにせよ、今朝になってもグスタフの態度には全く変化がなかった。ラセミスタはまだ少し気後れしながら中に入った。




