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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
ラセミスタの留学
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操獣法(32)

 あの狂乱が嘘のように、マティスは静かに草を食んでいた。こうしてみると、本当に――全く、本当に、巨大なマティスだった。大きいだけではない。来るときに乗ってきた馬車を、三台くらいはまとめて引けそうなほどに隆々とした筋肉だ。校長先生はまじまじとマティスを見、ポルトに訊ねた。

 

「あれを服従させたのは誰だね?」

「グスタフです」ポルトは低い声で言った。「あのマティスを下に引いていく必要がありますか? そうすると、グスタフに動いてもらわねばなりませんが」

「いやいや、高等学校もそこまで鬼ではないよ。君たちの試験はかなりの妨害にあった。それにも関わらず、見事に課題を達成したのだから、これくらいの特例は認めるべきだろう。これ以上の証明は必要ない。しかしこのマティス、ついに……」


 校長先生は喉を鳴らして笑った。


「私が学生だった頃にはすでにこのマティスは山の主だったんだ」

「……そうなのですか?」

「ああ、毎年、新入生たちの前に立ちはだかってきた恐るべき敵だったのだ。それが……ふふふ。まあ、マティスを今後どうするかについてはグスタフとカルムが復活してからみんなで相談しよう。高等学校の厩舎で飼ってもいいだろうし、動物園に置いてもらってもいい。きっと大人気になる。だがもちろん、このまま山にいさせてもいいよ。それは君たち次第だ」


 見回してみても、ライティグ教官やヨルグ少尉の姿は一切見えなかった。

 校長先生に、聞いてみてもいいだろうか。彼らが捕まったのかどうか。しかしあまり踏み込んだことを聞いてはいけないだろうか。逡巡したとき、ウェルチが先に言った。


「先生、ひとつ聞きたいことがあるんですが、いいですか」

「もちろん。どうぞ」

 校長先生はにこやかに頷き、ウェルチは礼を言ってから続けた。

「ラセルなんですけど。なんで俺らと同じ寮なんですか」

「えっ」


 思いがけず自分の話をされてラセミスタは驚いた。「あたしが?」


「そう。お前の話。なんで同じ寮なんですか? 医局の個室にでも住まわせたらいいじゃないですか」

「……なんで同じ寮じゃダメなの?」

「危ないじゃないですか」


 ラセミスタが質問しているのに、ウェルチは校長先生に意見を言う形で答えている。無視されているようで、気分のいいものではない。

 校長先生はニコニコとウェルチの抗議を聞いていたが、穏やかな声で言った。


「危ない、というのは。一体どういう意味かね」

「え?」

「確かに初日は危なかった。しかし彼女は自衛していたじゃないか。エルザが釘を刺したし、彼女の身を守るのはかの名高きエスメラルダ大学校国の最新式のセキュリティシステムだよ。この期に及んで、誰があのシステムを突破しようと考えるだろうか。近衛の息がかかった泥棒でさえ、システムに手を出すのは諦めたというのに」

「それはそう、です、けど」

「高等学校に女性が入学するようになってもう二十年ほど経つが、その決して短いとは言えぬ期間において、あれほどの自衛策を講じた女性はいなかったよ」そう言って校長先生は喉を鳴らして笑った。「一番初めに入った女性のことを思い出すなあ。彼女は私たちの二学年下だった。彼女が入学したばかりの夜、彼女の兄は友人を組織して、交替で夜警を務めさせたものだ。まあ、彼女に不埒な真似をしようという度胸のある人間は一人もいなかったがね」


 話を聞いているうちに、リーダスタの表情がどんどん険しくなっていくのにラセミスタは気づいた。

 そして内心首をひねった。この話の中に、リーダスタの表情を険しくさせる要素があるだろうか。


「いいかね諸君、私は……そして歴代の校長は皆、新入生として迎え入れた女性の身を心配しているからこそ、敢えて、高等学校生の寮の中に住まわせることにしてきたのだ。危険だ、危ない、と君たちは言う。だが天下の高等学校生の中に、彼女らの身に何か危険を及ぼそうと考える人間が、そう大勢混じっているだろうか。いたとしてもほんの一握りに過ぎんし、その逆に、その身を守ってやろうと考える人間の方が大半のはずだ。そうじゃないか? ウェルチ、君が彼女の身の上を案じるなら、そのような危難が彼女の身の上に降りかからぬよう気を配ってやりたまえ。そうできる者が多いと信ずるからこそ、高等学校の寮はこの国で最も安全な場所だと、私は考えているのだ」

「……それは、そう、です。……けども」

「性別はどうあれ、彼女は君たちと同じ高等学校生なのだ。ならば、等しく高等学校生として扱われるべきだ。性別が違うと言うだけで、何らかの不利益を被るようなことがあってはならない。そもそも、三年生にも一人女性がいることをしらんかね? 私は、彼女には大いに期待しておるのだ。医学と薬学の知識は他を圧倒している。ここを卒業したら、エスメラルダに留学することになるだろうね……そして帰ってきたら、医大学にチャレンジするそうだ。高等学校は全校上げて彼女を応援するだろう」


「ラス」


 リーダスタが足を止めた。

 校長先生と新入生たちは、いつしか、山を下り始めていた。ラセミスタは喜んで止まった。ヨルグ少尉に殴られたりマティスに必死でしがみついたりしていたために、筋肉痛がぶり返していた。痛みを堪えながら山道をそろそろと降りていくのは、のぼりとはまた違った大変さがあった。神経と体力がごりごりとすり減っていたから、一休みできるのは歓迎だ。


 リーダスタはラセミスタに向き直ると、がっ、とばかりにラセミスタの肩をつかんだ。


「ラス、顔大丈夫!?」リーダスタは突然叫んだ。「顔だけじゃない、他にもかなり殴られてたじゃん! 嘘だろォ!? あのくそ野郎! 次会ったら殺す! ぶっ殺す!!」

「うーわやっと気づいたんかーい」ウェルチが呆れた声で言った。「誰が過保護だって? もういっぺん言ってみ?」

「先生、ヨルグ少尉は!? あのくそ野郎はどこ行ったんですか!」


 リーダスタは校長先生に詰め寄った。校長先生はウェルチを見る。


「気づいていなかったのかね?」

「そーなんすよ、いや俺たちもね、変だなーとは思ってたんですよ。でもリーダスタが、自分の故郷にはあれくらい可愛い顔の男は結構いるって言うもんですから」

「ははあ……メルシェ地区はそういえば、オーレリア=カレン=マクニスが骨を埋めたという伝説があったね」

「リーダスタ、お前もバカだな」ポルトが冷たい声で言った。「本当にバカだ」

「ヨルグ少尉はどこ行ったんですか。もう捕まえちゃいましたか。何発か殴らないと気が済まないんですけど!」


 そのあたりまでくると、ラセミスタにも、ようやくじわじわとわかり始めた。

 リーダスタは何か根本的な間違いをしていた。そして今、真実に気づいたところらしい。

 そしてラセミスタもだ。何か……根本的な間違いを、している。らしい。


 ――あなたがいてくださって良かった。


 さっき、“猫”は、別れ際にそう言った。


 ――あの子――リンリは、殿方しかいなかったら、食事も取らずに我を張ったに違いないから。


 あの子はリーダスタには懐かなかった。ウェルチにも。グスタフにも。ポケットに入れられることさえよしとしなかった。

 懐いたのは、ラセミスタにだけだった。


「……男の人には懐かない生き物なんているの?」


 と言うことは、つまり。

 ラセミスタはそこでようやく、愕然とした。

 高等学校に来て真っ先にできた“女の子の友達”なんて――存在していなかった、という、ことだ。


「リーダスタ。……リーダスタって、女の子じゃ、ないの……?」

「うーわそっちもかーい」


 ウェルチが呆れている。リーダスタはこちらを向いて何か言おうとした。

 しかしその前に、後ろから来たサージェス指導官が、慌てた声で校長先生に呼びかけた。


「先生、先生、お戻りください! ――死体が出ました。ライティグが、殺されているんです!」

 

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