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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
ラセミスタの留学
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操獣法(30)

 そこは森の中にぽかりと空いた空間だった。右前方にマティスがいた。あの猛り立った巨大な獣は、今は動物園でくつろぐ象のように、嘘みたいに穏やかになっていた。「マティス、ちゃんといるよ」そう言ってラセミスタは絶句した。――カルムがいる。それもすぐそば、ほんの数メートル先に。

 カルムはケガをしているようだった。明らかに普通じゃなかった。地面に膝をつき、かろうじて体を支えている状態だ。その正面にライティグがいた。その手に握られているのは、見間違えようもない。狩人の持つ〈銃〉だ。

 それが森の方へ向けられていて、ラセミスタはぞっとした。

 視線の先に、あの美しい獣――ラセミスタに懐いたあの子よりもさらに大きな、純白の生き物がいたのだった。


 生き物は空を見上げている。大きさは一抱えはあるだろうか、どこかネコ科の生き物を彷彿とさせる。なめらかな喉を仰向けて、凛としたたたずまいだ。ラセミスタは思わず吸い寄せられるようにそちらに数歩歩いた。

 あの生き物は見たことがある。地下神殿で見た、あの巨大な、翼のある、ネコ科を彷彿とさせるあの生き物。

 ラセミスタに懐いた小さな子よりももっと、あの時の魔物に似ていた。

 

 あの子が〈銃〉で撃たれたら。

 魔物になってしまう。


「危ないよ……! 逃げて……!」

「ラス、来るな」


 カルムの声は弱く、ラセミスタの耳にかろうじて届くほどの大きさでしかなかった。白い生き物は空を仰向いたまま微動だにしない。何か待っているようだ、とラセミスタは思う。ライティグが撃ち、寸前でカルムがその腕に飛びついた。弾はそれ、カルムが倒れ込んだ。ライティグが毒づいた。


 カルムは撃たれたのだとラセミスタは考えた。動きがおかしい。傷口から毒が入ったのではないだろうか。カルムは孵化していないだろうから、すぐ死ぬことはないはずだが、それでも急いで医者に見せなければ命取りになる。


 ライティグがカルムを振りほどき、再び〈銃〉を構えた。笑っているとラセミスタは思った。あんな顔をして笑う人だったなんて。

 なんて醜悪な笑い方だろう。そう、思ったとき。

 その〈銃〉の口が、こちらを向いた。


「エスメラルダの留学生」


 ライティグの上ずった声が言った。

 その時にはライティグはぎょっとするほどすぐ目の前にいた。そして狩人の〈銃〉も。

 金臭いにおいがぷんと鼻をつく。

 

「あはは。ああよかった。――ああよかった! よく来てくれた! 君がいればあの生き物をまた再び捕まえることができ」


 ライティグの左手がラセミスタの肩に触れて、

 そして目の前から消えた。


「え――」


 ずしん。衝撃音が後から聞こえた。

 どこからともなく現れた純白の大きな何かが、ライティグをはじき飛ばしていた。


 ライティグが地面にたたきつけられた音でラセミスタは我に返った。手が触れそうなほど近くに、大きながっしりした生き物がいた。馬だ、とラセミスタは考えた。ラセミスタの頭上、手を伸ばせば触れそう場所に、すんなりと鼻筋の通った凛々しい馬の顔があった。立派なたてがみが見えて、その上にあるのは黒い角。

 瞬いた。自分の目が信じられなかった。

 一角獣だ。……絵本で見たことがある、伝説上の生き物。


『大事ないか』


 一角獣がそう言い、ラセミスタは目を見開いた。しゃべった。

 一歩後ずさると、一角獣の姿がもう少しよく見えるようになる。


 “あの子”と同じ存在であることは疑いない。体は全部真っ白で、本当に綺麗な生き物だった。エスメラルダやアナカルシスで一般的に知られている馬に、よく似ていた。違うところはあまりにも豊かで豪奢なたてがみと、背中に生えた大きな翼、それから、額から飛び出す一本の角。

 その角だけは黒い。光を浴びても輝かない、そこにだけ虚無が顔を覗かせているかのような、本当の黒。

 

 ラセミスタが何も言えないでいるうちに、羽ばたきの音がした。見上げると小さく勇敢な『あの子』が大きな翼を広げて舞い降りてくるところだった。あの子はまっすぐに一角獣の背に舞い降りた。勢いあまって弾み、ころころ転がって、背中から落ちる。


「あっ」


 ラセミスタが両手を出すと、ちょうどそこに落ちた。もぞもぞと体勢を立て直し、きゅうっと鳴く。

 可愛い。

 胸がいっぱいになって、ラセミスタはその子をぎゅっと胸に抱きしめた。無事だった。無事だった、元気そうだ! ヨルグ少尉につかまらず、この小さな体で、よくあの暴走マティスを追いかけてきてくれたものだ。

 一角獣の向こうから、先ほど空をじっと見ていたネコ科を彷彿とさせる生き物もやってきていた。一角獣ほどではないが、この子はだいぶ大きかった。ラセミスタが抱っこするとしたらかなり苦労するだろう。ネコ科の生き物はひそひそと何か一角獣に向けて囁き、ラセミスタの視線に気づいて微笑んだ。


『……弟を助けてくれてありがとう』


 ラセミスタは固唾を飲んだ。またしゃべった。


『長居はできぬ、〈毒〉の香りが漂うゆえに』


 一角獣が釘をさすように言い、“猫”は頷いて、こちらに近づいてきた。『すみません』“猫”は小さな声で言った。


『帰らなければなりません。あの者が』と言って“猫”はライティグの方を気にするようにした。『〈毒〉の香のするものを何度か撃ちましたから。この香りは私たちには害悪なんです。あの方にも……そちらの方にもお怪我をさせてしまって。このまま帰るのは心苦しいのですが』

「帰れるの?」


 ラセミスタは思わず、あの子を抱く手に力を込めた。“猫”は頷く。


『はい、迎えが来ましたから。おいで、リンリ。帰りますよ』


 “猫”はたしなめるようにそう言い、ラセミスタの胸の中で、あの子がもぞもぞと動いた。リンリという名なのか。ラセミスタは両手を緩め、リンリは、その手の中から勢いよく飛び出した。ラセミスタは思わずリンリに向かって手を伸ばし、その手はもちろん空振りした。


 帰るのだ。

 唐突に、悟った。

 今まで何度も、この子を先に帰そうとしては失敗した。

 でもそれは、この子にそもそも帰る気がなかったからだった。この山に着いた時点で、この子はその気になればいつでも帰れたのだ。今までとどまっていたのは、この子の意志だった。ラセミスタを心配してくれていたから。

 でももう、この子は帰る。そう、決めたのだ。


『お世話になりました。あなたがいらしてくださって本当に良かった。この子は銀狼の片割れですから、さぞご厄介をお掛けしたことでしょう。殿方に拾われていたなら、飢え死にするまで我を張ったに違いありませんもの」

『世話になった』


 一角獣はそっけなく言い、リンリが、その背の上に飛び乗った。“猫”も、本当に猫を思わせるなめらかな動きでするすると一角獣の背に上った。

 一角獣はくすぐったそうに一度首を振った。ラセミスタのことはもう一瞥もしなかった。リンリも、ラセミスタを見なかった。見ないようにしていることは明らかだった。

 ラセミスタは囁いた。「……さよなら」

 

 返事はない。こちらを振り向きもしない。“猫”が微笑んで、代わりというように、深々と頭を下げた。

 胸が痛い。

 でも、〈毒〉特有の金臭いにおいは確かにあたりに漂っている。彼らにとってこの香りが害悪だというなら、引き留めるわけにはいかない。


 一角獣は堂々たる動きで身をひるがえし――


「グリオス」


 囁き声が聞こえ、動きを止めた。

 カルムだった。

 地面に倒れたまま、カルムは目だけを一角獣に向けていた。うめき声のような声だった。


「グリオス。エラだ。……信じるな」

『お前は誰だ』

「頼む……」


 かすれた声。グリオスというのは一角獣の名前だろうか。カルムは一角獣を知っているのだろうか。一角獣の方は、カルムを知らないようなのに。

 グリオスと呼ばれた獣はほんの少し、考えていた。しかし、はっとしたように身をひるがえした。


 いつの間にか、そこに、続々と人が集まってきていた。

 リーダスタとジェムズとポルトがいた。リデルとベルナもミンツもいて、ラセミスタが気づいたとき、チャスクとウェルチが到着したところだった。ヨルグ少尉はおらず、ライティグ教官の姿も見えなくなっていた。ラセミスタは一角獣の姿を探し、すでに、どこにもいないのに気付いた。


 もういない。

 あの小さくて健気な、かわいらしいあの子も、もうどこにもいない。


 ラセミスタはよろけ、へたへたとそこに座り込んだ。

 その隣を、グスタフが這って行く。左腕をかばうようにしている。おそらく足も痛めているようだ。なのに体を動かして、カルムの方に少しずつ移動していくのだ。ラセミスタは我に返り、「グスタフ!」思わず叫んだ。

 

「何やってるの、動かないで!?」

「大丈夫、かすり傷だ」

「そんなわけないでしょう!?」

「カルム。大丈夫か。〈毒〉が入ったのか。目は見えるか?」


 グスタフがカルムのところにたどり着き、カルムは、低い声で言った。「……あんま見えない。グスタフ、ケガした?」


「大丈夫、かすり傷だ」

「とんでもないから! 腕ぜったい折れてるから!」

「ラス、手伝ってくれ」


 グスタフはそう言って体を起こそうとした。ラセミスタは思わずその横に膝をつく。


「わかった! わかった、手伝うから! 動かないで!! 起き上がらないで!!」


 何なんだこの人、と思う。一体どうなっているのだろう。

 自分も痛そうなのに。脂汗が浮いているし顔色は土気色だ。なのに。

 歯を食いしばるようにして、グスタフは声を喉から絞り出す。


「〈毒〉が体内に入ったら、一刻も早く焼かないといけないんだ。火を……」

「焼く……焼くの!? 傷口を!? そんなことしたって駄目だよ、魔女を呼ばないと!」


 傷口を焼くだなんて、聞くからに痛そうだ。ラセミスタはおぞ気をふるった。グールドに刺された太ももが幻の痛みを思い出した。あの痛さでさえとんでもなかったのに、さらにあの傷口を焼くだなんて! ラセミスタならば絶対に気絶する。自信がある。

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