操縦法(29)
「って、」
――誰だ?
疑問はわいたが、考えている暇はない。森の中に潜む誰かはこちらに向けて黄金色の銃を構えていた。迷彩服を着た壮年の男。近衛だ、と本能的に思う。黒々とした塊が男の構えた銃口から飛び出し、カルムの目の前にいる美しい白い生き物に迫ってくる。
考えるより先に体が動いていた。生き物の毛皮を掴み、森へ向けて投げた。生き物の悲鳴が森に吸い込まれていき――カルムの右肩を、黒い塊がかすめた。
痛みは感じなかった。ぐらりと視界が揺れた。
膝をついた。衝撃が脳を揺らす。
「……本当に君って人は」
ライティグがやって来ていた。その手に、先ほどカルムが蹴り飛ばした〈銃〉が再び握られていた。
あたりはもうかなり明るかった。辺りはぐらぐらと揺れ、定まらない。立ち上がったライティグが斜めに見える。
「ふ、ふ、ふふ。僕を殺すことよりも、あの生き物を助ける方を優先するだなんて。ロルフ、君は本当に、どれだけ僕の神経を逆なでしたら気が済むの?」
ライティグは楽しそうにそう言った。
さっきあの生き物を撃とうとした誰かはどこへ行ったのだろう、とカルムは思った。今はもう、木の陰に隠れたようだった。
地面が揺れている、ような気がする。さっきかすめた弾から〈毒〉が入ったのだ。あの生き物は無事に逃げただろうか、ちらりと森の方を見ると、ライティグが吐き捨てるように言った。
「この期に及んでまだあの生き物の心配? 本当に君はいつもそうだった。僕のことなど、いつも眼中になかった!」
また地面が揺れた。ライティグの顔もよく見えない。頭の中がチカチカと明滅していて考えもまとまらない。変だな、と思っていた。ライティグが怒っているようだ。だが、怒りの理由がおかしくないか。
「あの生き物がそんなに大事なら、殺す前に〈毒〉に染めてやろう。瓶を見せれば自分から大喜びでしっぽを振って寄ってくるさ。あれは下等な生き物なんだよ――〈毒〉に染まりたくて染まりたくてたまらない、低劣な生き物なのさ。君がしようとしたことは全部無駄なんだ……」
定まらない視界の中に、あの生き物が見えた。少し離れた木々の陰に隠れ、なにか見上げているようだった。そこだけ発光してるかのような美しさだった。ライティグがそちらに〈銃〉を向けた。「やめろ」カルムは立ち上がろうとしてよろめいた。体がぐずぐずに腐ったみたいだ。全く思うように動かせない。
「やめてくださいって言ってみてよ。跪いて頼んでくれたら、考えてあげないでもないよ」
また視界が揺れた。ライティグが嗤っている。こいつは誰に向かってしゃべってんのかな、と思う。迷惑極まりない。
また地面が揺れた。ライティグがよろめき、カルムはこの揺れを感じているのが自分だけでないことを知った。「なんだ」ライティグがつぶやいて視線が揺らいだ瞬間がやけにはっきりと見えた。伸びあがるようにしてカルムは、よろめいたライティグの右手に飛びついた。金色の〈銃〉を抱え込み、ライティグの腕ごとその場に倒れこむ。
「放せ!!」
ライティグが叫んだ、その時。
森が割れた。
木立の隙間から、巨大な生物がまろび出た。
ずしん、地響きが脳を揺らす。カルムは地面に倒れたままそれを見た。猛り立つ巨大な――本当に巨大な獣。下生えを蹴散らしなぎ倒すその蹄は丸く、一抱えもありそうなデカさだ。「マティス……!?」ライティグが叫び、地響きにその腕が緩んだ。カルムは〈銃〉をもぎ取り、左手で支えてライティグに向けた。
「ああ、」
ライティグの喉から喘ぎ声のような音が漏れた。
「どうして」
「動くな――」
「どうして……動けるんだよ。〈毒〉が体に入ったのに。かすっただけで昏倒するのが普通の人間だ」
どうして、とライティグは繰り返した。
マティスは周囲で暴れまわっていた。何か嫌なものを振り落とそうとするかのように木々に体当たりし、角を振り立て、嘶き、蹄で地面をえぐっている。ライティグは青ざめていた。「逃げないと」上ずった声で言った。
「暴走マティスだ。踏みつぶされるぞ」
お前にはお似合いの末路じゃないか。
そう言いたかったが、口が動くとは思えなかった。あのマティスはいったいどこから現れて、どういった事情で暴れ回っているのだろう。こいつが目の前で踏み潰されたら、とカルムは思った。十年分の、なんだかよくわからないがずっと俺を縛っていた何かが、目の前でぐちゃぐちゃに踏み潰されたら。
そうしたら、俺はどう思うのだろう。――実際には、思う間もなく自分も踏み潰されて終わりなのだろうけれど。
キィィィィィ――
何か軋むような鋭い音が、地響きを圧して鳴り響いた。
*
激しく揺れるマティスの背の上では、落ちないようにしがみつくのが精いっぱいだ。
ラセミスタの貧弱な両腕は自分の体重さえ支えきれない。指先どころか腕の感覚すらもはやない。ラセミスタはマティスのたてがみに潜り込み、全体重をゆだねるほかどうしようもなかった。グスタフが上から覆いかぶさる姿勢を取り“蓋”の役割を果たしてくれていなかったら、とっくに振動で弾き飛ばされていただろう。
獣臭いが、嫌悪を感じる暇すらない。ちょっとでも気を抜くと振動で舌を噛んでしまう。永劫にも思える時間をどうやってやり過ごしたのか……気が付くとラセミスタは、宙を飛んでいた。明け染めた、赤く青く紫がかった空がぐるりと回る。
落ちる。
「わああああああ――……」
長く尾を引くのは自分の悲鳴だ。グスタフの腕がラセミスタを抱え込んだ。「っ」ラセミスタはかろうじて悲鳴を飲み込み口を固く閉じた。前足を振り上げ棹立ちになった状態のマティスのあの巨大な角が斜めに離れていく。落ちる。落ちる、落ちる。キイイイイイイ――何か鋭い甲高い音が鼓膜から脳を揺さぶりラセミスタは我に返った。
「ぐっ」
のどが鳴った。はっと気づくと宙ぶらりんになっていた。ぐわんぐわんと脳が揺れる。今、ラセミスタは肩のあたりを支点にして宙にぶら下がった状態だった。見上げるとグスタフが見えた。グスタフが張り出した木の枝に左腕をかけ、右手でラセミスタの活動服の肩のあたりを掴んで吊り下げている。ラセミスタはぞっとした。グスタフの顔が青白い。歯を食いしばっているのが見える。
あの巨大なマティスの背から振り落とされた二人分の体重プラス衝撃が、グスタフのあの左腕一本にかかったのだ。その左腕がどうなったのかなんて自明の理だ。どうしてまだ枝をつかんでいられるのか、そちらの方がわからない。
「放していいよ。グスタフ、ありがとう……地面まではほんのちょっとだから」
そう言うとグスタフの右手が緩んだ。ラセミスタの体がすうっと落ちて、――どすん。地面に着いた。身長より少し高いくらいの距離だった。受け身などというものが取れるはずもなく、全身に衝撃が走り地面に転がった。が、とにかくここをどかなければ。ラセミスタはぐらぐらする頭をひと先ず置いてその場から這って逃げる。
「グスタフ、だいじょう……」
言ってる間にグスタフが落ちてきた。地面に転がって、そのままうずくまる。ラセミスタは今きた地面を這ってそちらへ戻った。
「ぐ、グスタフ。グスタフ、大丈夫……?」
「大丈夫」かすれた声だった。「……じゃない。悪い……」
「だよね……ごめん、ごめんね、グスタフ、あたしのせいで……」
「別に、ラスの、せいじゃない。生きてる、だけで、ありがたい」
痛みに響くのだろう、呼吸が浅くなっている。地面にうずくまった格好なのでよく見えないが、額のあたりが土気色になっている。それはそうだ。あんなことがあったのにラセミスタがさしたるケガもせずに済んだのは奇跡に近いのだ。その分のケガをすべてグスタフが引き受けた格好だ。
どうしよう。死んじゃったら。
と、グスタフがうめいた。
「マティスは……」
「え?」
いや今にも死にそうな顔してそんなこと気にしてる場合か。
と言いたかったが、グスタフが目を開けたのを見てその言葉は飲み込んだ。体を起こそうとしてうめくので、ラセミスタは慌てて押しとどめた。
「待って。待って、無理しないで。今見るから」
今までもうすうす思ってきたが、この人のまじめさは筋金入りだ。このままでは無理やり立ち上がってマティスを捕らえに行きかねない。それだけは阻止しなければと顔を上げてあたりを見回す。




