二日目 当番(5)
休憩所の中は暖かだった。マリアラは自分の格好を見下ろして、更に気が滅入った。制服は泥だらけで、手は血まみれだった。袖にも裾にも血がついている。
「手、洗って来なよ」
普段どおりの穏やかさを取り戻したフェルドの声がそう言った。お言葉に甘えて、マリアラは洗面所に逃げ込んだ。巾着袋から洗浄液を出して両手を念入りに洗い、顔も洗って、汚れた制服を取りかえた。髪をとかして、勇気を貯めた。
今さらでも何でも、話さなければならないことだ。
休憩室に戻ると、いい匂いがしていた。ホットミルクだ。
しょんぼりしながらとりあえずさっきの長椅子に座り、投げ出されていた毛布を畳む。これをかけてくれたのはいつだろう。全然気づかなかった。
「で?」
ホットミルクの入ったマグカップを差し出しながらフェルドが言う。
「血まみれの子供は治った後どこ行ったの」
「ありがとう。……わかんない」
受け取って一口啜ると、ちょうど良い温度で、甘かった。蜂蜜が入っている。
甘い物が食べられない割に、この人の用意する甘い物のさじ加減はいつも適切だ、と、おかしな考えがぽつんと浮かぶ。
ゆっくりホットミルクを飲みながら、マリアラは初めから順を追ってひとつずつ話した。包み隠さず、全てのことを。
それが“相棒”に対する礼儀というものだろう。
話し終えると、ホッとした。そして同時に、我ながらなんて荒唐無稽な話をしたものだろう、と思った。フェルドは難しい顔で聞いていた。馬鹿にする様子も呆れる様子もない。その様子に励まされてマリアラは呻いた。
「ラルフも、えっと……ルッツ、というケガしていた子も、……なんて言うか、あんまり、ちゃんとした境遇にない感じで……。連れてきたかった。でも、できなかった……」
言い終えて、顔を覆う。惨めだと、思う。二人の子供を見捨てて自分だけ安全に戻ってきたのだ。魔女のくせに。人を助けるのが仕事の、左巻きの魔女のくせに。
ずっと黙っていたフェルドが、呟いた。
「できなくて良かったよ。俺も無理だ。一緒にいたとしたら、連れてこようとしたら絶対止めてた」
「え……」
手のひらから顔を上げると、フェルドは真面目な顔をしていた。机に置いたコーヒーのマグカップを睨んで、親指で、自分の鼻を弾いた。
「今できることは〈アスタ〉に事情を話すことだ。それくらいしかできることはないよ」
「でも……」
「ルッツって子供が死にかけてるのを助けた。それでもう充分、充分すぎるほど、手を差し伸べたんだ。ラルフって子……その子はアルノルドという男が今夜は戻らないと思ったからマリアラを呼びに来た。助けて欲しかったから。昼間も一度来たんだよな、でもその時は言わなかった。たぶん俺が一緒にいたから」
「……」
「今夜も俺がちょっと席を外したときに来た。つまりその子が欲しかったのはマリアラの治療の腕だけだ。その他の手助けは必要ない、忘れてくれ、と、言った。アルノルドにマリアラが見つからないよう一人でルッツを担いで……あのさ。話聞いてる限りだと、その子普通の子供じゃないだろ。全部自分の意思でやってるんだよ。大人からああしろこうしろって言われたからじゃなくて。この夜中に、森を突っ切って。普通の子供に、そんなことできるかな」
「……うん」
「つまりラルフがアルノルドと一緒に行ったのも自分の意思だ。なんか事情があるんだろう、ラルフをその境遇から外に出してやるためにはその“事情”を解決してやらなきゃならない。なのにその場でマリアラがアルノルドの前に出て行って、子供の保護責任を果たせと意見するとか、二人を連れて帰るとか、そういう行動を起こそうとしたとしても、うまくいったとは思えない。むしろ最悪の事態を招いたと思う」
「……」
「そうならなくて良かった」
真剣な口調。マリアラは気圧されるように頷いた。頷いてから、自分の弱さにまた落ち込んだ。
――わたし、ホッとしてる。
自分に責任がないと思おうとして。そう思ってくれる人の話を聞いて、ホッとしている。
「ラルフの事情がよくわからない以上、その事情が俺たちの手に負えそうなものなのかどうかも判断できない。でもこのまま放って置くわけにもいかない。“休憩所の当直のマヌエル”の動向を気にしてるらしいし、なんか不穏な感じもするし、ここからすぐ近くにそんな存在がいるってことが気になる。だから〈アスタ〉に事情を説明しないと。明日はダニエルとララがこの休憩所に泊まることになるから警備体制とか整えなきゃなんないだろうし、その判断や指示まで俺たちにできるかっていうと無理だろ」
「うん……」
「〈アスタ〉からはたぶん叱られると思うけど」
「う……」
「でも今日はもう疲れただろ。俺が報告しとくよ。仮眠室で寝てて」
マリアラは首を振った。疲れてへとへとで、これから叱られることを思うと気力が萎えそうだったが、だからといってフェルドにそんなことを押しつけるわけにはいかない。
「ううん。わたしが話す。あの……本当にごめんなさい。迷惑かけて」
「迷惑なんかかけられてないよ」真面目な口調でフェルドが言った。「今度誰かを助けに飛んでいくときは一人で行かないで欲しいってだけだよ。ちょっとそれだけは約束しといて」
「うん。約束する」
マリアラは頷いて、〈アスタ〉のスクリーンの前に行った。
〈アスタ〉は叱らなかった。優しい顔で、大変だったわね、と、ねぎらってくれただけだった。
それが余計に、哀しかった。