操獣法(28)
違うだろうとカルムは思う。曲がりなりにも高等学校の正職員である。自分の意に染まぬ要請を強いられたら、校長先生の許可を得てからと言う大義名分を使えるはずだ。
「自分で言うのもなんだけど、僕には利用価値があるからね。リーリエンクローンの後ろ盾を持つ高等学校の指導官だ。僕を引き入れることができれば」
「“リーリエンクローンの配下ではない中庸派のモデラリヒト伯爵との縁談をまとめてもらうために、あなたの方からヨルグ少尉に近づいたのでしょう”」できるだけ綺麗な発音になるよう気を付けてカルムは言った。「“リーリエンクローンの後ろ盾があり中庸派の貴族に婿入りした平民出の人間が貴族派に傾倒すれば、この国に大多数を占める中庸派の有力者たちを揺るがすことができると、自分を売り込んだ。そうでしょう?”」
「いきなり……」ライティグは戸惑ったようだった。「あのねえ、急に言語を変えないでよ。そもそも僕は平民だよ。リーリエンクローンの後ろ盾のおかげでここまでやって来られたんだ。君のお父上を裏切るようなことをするはずがないじゃないか」
――間違いない。
今ので確信した。
――ライティグはアナカルシスから“素”を購入する際の担当者だ。
さっきカルムが訊ねた時に使った言葉はアナカルシス語だ。ライティグは少なくとも聞き取ることくらいはできるレベルになっている。腐っても高等学校の卒業生なのだから、時間があれば、アナカルシス語を習得するくらい簡単だろう。ヨルグ少尉は大喜びでライティグを懐に迎え入れただろう。
カルムは考えながら一歩前に出た。ライティグが、笑う。
「ほかに聞きたいことは?」
「もうない」
もう十分だ。ライティグの役目が分かった。あとはこの山を無事に降りて、校長先生に通報してもらえば片が付く。“素”の輸入は犯罪だし、ヨルグ少尉が課題の妨害行為をしたことは監視カメラの存在から明らかだ。
監視カメラでライティグの姿を見た時、これはチャンスだと思った。この機を絶対に逃してはいけないと。
十年前、体力と知力と年齢が足りず、ライティグを今日までのさばらせてきてしまった。今度は絶対一人だけ逃がすようなことはしない。こそこそといろいろな罪を重ねているくせに、こいつは今までずっと、自分だけは関係ないというふりをしてまんまと逃げ延びてきたのだ。今度だけは絶対に逃がさない。
できれば、アナカルシスから輸入された“素”が、ラセルになついたあの小さな一頭だけなのか、ほかにもいるのではないか、ライティグから探り出しておきたかった。
しかしそこまで望むのはやりすぎだろう。今は課題の最中だ。カルムが戻らなかったら、班全体に迷惑が掛かってしまう。
「“アマーリエさんとお幸せに”」
できるだけ嫌味な言い方になるよう気を付けて、アナカルシス語で言ってやる。ライティグは答えなかった。カルムは踵を返し、元来た方へ数歩歩いた。逆上してボロを出してくれないかと期待したが、ライティグは意外に冷静だった……
その時、後ろで、ぽん、という聞きなれた音が響いた。小さく縮めて持っていた何かを、元の大きさに戻す音だ。
カルムは振り返り、ライティグが、地面にかがみこんでいるのを見た。それは大きな、一抱えもありそうなトランクだった。ぱかっ、と軽やかな音を立ててそれを開く。
「……見逃す気なんかないんだろう、僕を」
呪うようなライティグの声が響いた。いつもより早口だった。
「ここまで来るのにどれだけ大変だったか……知りもしないくせに、なぜ戻ってきた。なぜ、なぜ今頃になって……! 放浪の間にどこぞでのたれ死んでいるべきだった、くそっ! いつもいつも、毎度毎度、僕の邪魔をしやがって……!!」
トランクの中から若草色の光が溢れ出していた。光はとろみのある水のようにトランクの中にわだかまっていた。その光の中からライティグが取り出したものは、拳銃のようだった。近衛で採用されているモデルよりかなり大きい。銃口が特に大きく、両手で円を作ったときくらいの大きさだ。おい待て、とカルムは思う。
ぜんぜん冷静じゃなかった。
ここにも監視カメラがあるはずだ。ライティグはアナカルシスとつながっていたという確かな証拠を振り回した。これでもう言い逃れはできない、父もようやくライティグを見限る。中庸派のモデラリヒト伯爵が貴族派に傾倒したという噂が立つこともなくなる。カルムの目的は十分以上に果たされたといえる。
しかしちょっとここまでは望んでいなかった。
若草色の光を浴びて、ライティグは笑っていた。すがすがしいような晴れやかな笑みだ。
「これ、知っているかい? アナカルシスの狩人と呼ばれる人殺しの集団が使う、魔女を殺すための道具なんだってさ。〈毒〉の詰まった弾丸を装填して発射することができる。普通の人間には、〈毒〉の弾丸はそれほど効果がないんだけれど……一緒に小さなトゲトゲの鉄球を仕込んであったら話は別だ」
我が上司がエスメラルダの留学生に勧めたようにね、と、ライティグは冗句を言うような軽やかさでそう言った。確かにとカルムは思った。〈毒〉は皮膚にあたったくらいでは影響はほとんどないが、もし粘膜に付着したり傷口から入ったりしたら命取りだ。
おそらく、この山を監視する担当者を買収したのだろう。校長先生も、良識ある先生方も、リアルタイムでこの山全部の監視カメラを見張ることは不可能だろうから、試験が終わるくらいの間は隠しおおせると高をくくっているのだろう。
しかし、いつまでも隠しておけるものでもないはずだ。ヨルグやライティグが禁を犯して山に入り込んだことは、遅かれ早かれ明るみに出る。カルムはできるだけ穏やかな声で言った。
「高等学校の管理している山の中で〈毒〉が検出されたら大騒ぎになるだろ」
「それがそうでもないんだ」
ライティグは嬉しそうにトランクに視線を移した。足で蹴って、その中身がこちらに見えるよう向きを変える。
若草色の光にあふれ、トランクの中身がおぼろげに見えた。認識した瞬間、絶句した。若草色に発光するバンドでがんじがらめにされた、真っ白な毛むくじゃらの生き物がそこにいた。その隣にはめ込まれているのは、ヨルグ少尉がラセル=メイフォードの部屋に持ち込んだ、〈毒〉の入ったあの小さな小瓶とそっくり同じもの。
「アナカルシスから輸入したんだよ。……ああ、知ってるよねえ? 一頭、匿っていたんだものね。エスメラルダの留学生と一緒に……本当に君たち兄弟は、ふふ、慈悲と慈愛のかたまりだ」
毛むくじゃらの生き物は、ラセルに懐いたあの子よりも大きかった。
その子はピクリとも動かなかった。あの若草色の光は、その生き物にとっては恐ろしい苦痛を伴うはずだ。できる限り身を縮めて命を守ろうとしていることは明らかだった。
カルムは一歩前に出た。唯一持ってきた武器、野外用のナイフを左手の中に握り込む。
ライティグが〈銃〉を構えた。どうすればいい、とカルムは考えた。あの生き物に〈毒〉をかけられたり〈銃〉を打ち込まれたりしたら詰みだ。大丈夫よ、と頭の中であの人が微笑んだ。大丈夫よ――あたしにはこの子達がいるから。
だから大丈夫よ。
「――――、――」
ライティグがまだ何か言っている。しかしもう、意味のある言葉としては聞こえなかった。カルムは走った。トランクの中の白い生き物は、バンドに縛られて、ただのむくむくした毛皮のかたまりにしか見えなかった。なんてことを、と思う。あの人の大事な愛し子に、なんてことをしてくれやがったんだ。
ライティグが撃った。当たらない。もう一度撃った。当たるわけがない。
ライティグの顔が恐怖にひきつる。兄を殺したかもしれない男。兄とカルムを利用して、名誉職に就いた男。その地位を保つために恩ある人間に泥をかけ、敵に当たる存在にしっぽを振った人間。
銃口が目の前にある。そこから三度目に毒が飛び出す寸前に、カルムのナイフの柄が銃を弾き飛ばした。
「え、わ」
ライティグの口が丸く空いていた。虚ろな穴だ。中は真っ暗で、なんにもない。
兄貴はこいつの抱えるこの空洞に、気づいていたのだろう。
ライティグが慌ててトランクに飛びつこうとする。その横顔めがけて、右肘を叩き込んだ。「がっ」ライティグがトランクの上に倒れ込み、カルムはナイフを抜いた。
「やっ、やめてくれ……!」
悲鳴を無視して、白い生き物を戒めているバンドに切りつけた。びぃん。鋭い音を立ててバンドが弾けとび、若草色の光がぷつりと消えた。
周囲は薄闇に沈んだ。
そこから、それ自体が発光しているかのように真っ白な、片翼が飛び出した。
翼は驚くほど大きかった。〈銀狼の牙〉によって無理矢理に小さく縮められていた生き物が、今、元の姿を取り戻しつつあった。トランクがみちみちと音を立て、カルムは急いで小瓶を掴み上げた。小さく縮めてポケットにしまう。
「にっ、逃がさないでくれ!」
悲鳴じみた声が足元で上がった。生き物は見る見るうちに大きくなっていく。ラセルが匿っていた子よりもかなり大きいようだった。
ライティグは地面に落ちた銃に向けてじりじり這っていく。カルムは生き物から目をもぎはなし、銃に伸ばされたその手に左足をたたきつけた。ぎゃあっと悲鳴が上がった。泣き声じみた声だった。
「頼む、頼む逃がさないでくれ。撃たせてくれ、逃がしたら殺されてしまう!」
ライティグは右手を踏まれたまま、左手でカルムの足に縋り付いた。ぞっとするほどの力だった。
「なあ頼むよ……僕がどれほど危うい地位にいるか、君ならわかるだろう!? 僕は平民だ! 何の力もない! 軍人に脅されたら従うしかない、なあわかるだろう!? その生き物を“素”のまま逃がしたら――」
保身のためにカルムを撃ち、その後でこの子を撃ち、どこからともなく現れた魔物が暴れまわってカルムを殺した、という筋書きを考えていたのだろう。本当にすがすがしいくらいのクズだな、とカルムは思った。黙ったままライティグのわきの下に親指を叩き込み、「ぎゃあっ」ライティグが倒れこんだ。どうしてもっと早くこうしておかなかったのだろう。十年前にできていたら。それくらいの力が、自分にあったなら。
こんなにも長いこと、こいつをのさばらせておかずに済んだのに。
カルムは白い生き物が万一にも近づかないように、ライティグが落とした〈銃〉を遠くへ蹴飛ばした。右足にしがみついたままのライティグがぶつぶつ何か言っている。
「僕を、み、見捨てないでくれ。母のことを覚えている? 母は今回の縁談をそれはそれは喜んでいて、た、楽しみに、して、」
「早く逃げな」カルムは生き物に囁いた。「黒いものに近づくんじゃない。わかるだろ?」
トランクの上で、美しい瞳がじっとカルムを見ていた。
元の姿を取り戻した生き物は、一抱えほどありそうな大きさで、ネコ科の生き物によく似ていた。とても美しい獣だった。真っ白な毛皮に包まれたしなやかな体。様々な色が大理石のように渦を巻く、神秘的な瞳の色。
その後ろ――東側の森の中に、きらりと何かが光った。
銃だ。




