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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
ラセミスタの留学
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操獣法(26)

 ゴドフリー=スタフェンジーヌ公爵がゴドフリー=スタフェンジーヌ・トロエルスツ・ガルシアという名で君臨していた三年間は、カルムの人生において、最も過酷な三年間だった。実家のリーリエンクローン家がいつ“取り潰し”に遭うかわからない状況だったからだ。


 カルムの父は平民だ。ディルク“改革王”の庇護のもと、リーリエンクローン家に婿入りし当主の座に就いた。それからたったの数年でディルク王が崩御され、まだ改革が完全に浸透する前に宙に放り出されてしまった。ゴドフリーはディルク王の改革をすべて白紙に戻そうとしたのだから、リーリエンクローンの平民当主が真っ先にやり玉に挙げられたのは必然だったといえる。


  あの頃カルムはほとんど家に帰れなかった。ヴィディオ閣下のご自宅にご厄介になったり、エドゥアルド王甥(ディルク王の嫡男であり現国王陛下である)の邸宅に居候させてもらったり、リーリエンクローン配下の貴族の家に匿われたり、していた。いつもボディガードが三人、入れ代わり立ち代わり周囲を守っていて、学校にもめったに行けなかった。学校が大好きだったから、月に数回しか行けないのが本当に悔しかった。


 次男のカルムでさえそうだったのだ。リーリエンクローンの跡継ぎであった兄、ロルフ=トロエ・リーリエンクローンが立たされていた立場は、本当に、きわめて危険なものだったのだろう。ゴドフリーが“改革”に乗り出したころ、兄は高等学校に入ったばかりで、跡継ぎとしてふさわしい力量があると示したばかりだったのだからなおのことだ。――今ではそう、考えることもできるけれど。

 あの頃カルムは十歳だった。

 体も小さく、思慮も足りなかった。何より子供だった。兄が好きで。本当に大好きで。兄を完璧だと信じていた。頭もよく文武にも長け、思慮深く抜け目もなく、おまけに誰にでも――小さな生意気盛りの弟にさえすごく優しい兄。どんな問題が降りかかろうと兄は苦も無く切り抜けられると。まるで物語に出てくるスーパースターのように、思っていた。


 だから“兄の友人”のことも、頭から信じ込んでいた。だって兄が選んだ友人なのだ。悪いやつのはずがない。兄には大勢の友人がいて、信頼できる仲間がいて、いざというときには助けてもらえる。だから兄は絶対に大丈夫なのだと。

 兄がどんな綱渡りをしてその地位を保っていたのかなんて、想像することさえできなかった。

 崖から転落してケガをしていた兄を見つけるまで。





 あの時――

 今からちょうど十年前。エドゥアルド=トロエ・スウェルグリンドン・リーリエンクローン王甥殿下(当時)が外遊中の隙を縫うようにして、ゴドフリーはディルク王の遺した法案を白紙に戻すための一連の法案を議会に提出しようと画策した。父は厳しい監視の目をかいくぐって王甥に、急を知らせる手紙を出した。手紙は五通出された。そのうちの二通はディルク前王の当時から変わらずに務めていた近衛が担い、ゴドフリー側の近衛によって阻止された。ほかの二通は商人と旅人が担って、商人は投獄され旅人は殺害された。最後の一通を担ったのは、長年父親に反抗し続け勘当すれすれの立場に置かれていた、リーリエンクローン家の長男だった。


 そして、その兄のところまで、くだんの手紙を届けたのはカルムだ。

 カルムは何も知らされていなかった。何かおかしなことが起こっている、ということは感じていたけれど。父も母も部下たちも、もちろん家も別宅も見張られていたから、カルムは協力的な貴族の家に匿われていた。そこにやってきたのは町のゴミを拾って日銭を稼ぐ浮浪者だ。


 カルムは浮浪者から渡された指示書のとおりに、夜の首都ファーレンを走って、兄のところへ手紙を届けた。兄はカルムに、朝までこの部屋にいるようにと言い残して、旅支度をしてそのままエドゥアルド王甥殿下の元へ出かけて……首都ファーレンから半日の距離にある、切り立った渓谷を渡る橋から転落した。

 カルムが兄の言いつけに背いて追いかけたのは、兄の後を追うように移動する黒い影が、寮の窓から見えた――ような、気がしたからだ。


 あの影は誰だったのだろう。

 兄が橋から転落したのはなぜだったのだろう。

 カルムが駆け寄った時、兄は意外に元気そうで、到底死にそうには見えなかった。同じく『兄を心配して』追いかけてきたライティグと一緒になったが、兄が手紙を託したのはカルムにだった。自分は大丈夫だと兄は言った。エドゥアルドおじさんの方が先だと。少し休んだら追いかけるから。


 この手紙を預けられるのはお前だけだと。


 本当に俺は馬鹿だったとカルムは思う。何にもわかっちゃいなかった。

 あの時の兄の気持ちを思うと泣きたくなる。どんなにつらくて不安で悔しくて情けなかっただろう。ライティグは信頼がおけないと、兄は知っていたのだ。しかしその場は取り繕うしかなかった。あの場でカルムに警告していたら、兄はもちろんカルムも生きていなかった可能性が高い。手紙は届けられず、ゴドフリーの法案は議会を通過し、ガルシアは大混乱に陥っていただろう。この国の様々なところに根を伸ばし始めていた平民出の人間たちは権利を取り上げられ、迫害され、投獄されたり殺されたりしただろう。エスメラルダから留学生を迎え入れるなんて夢のまた夢になっていただろうし、アナカルシスやエスメラルダといった大国と対等に付き合える日なんて永遠に来なくなっていたはずだ。



 兄があの時言葉を飲んだおかげで。

 幼いカルムに、何も言わなかったおかげで。

 兄の演技に、カルムが気づかなかったせいで――



 ――何度でも言うわ。お兄さんが亡くなったのはあなたのせいじゃない。

 ――大丈夫よ。あなたは絶対に大丈夫。あたしが保証する。


 優しい声が耳元で囁いた。カルムは思わず微笑んだ。いついかなる時でも、あの人の優しい声は、カルムの心を救ってくれる。

 大丈夫だ、と思う。あの声を覚えている限り、何にだって立ち向かえる。

 はずだ。


「……よく来てくれたね。課題の最中だったのに」


 静かな声が背後からかけられた。カルムは自分の体が勝手に総毛立つのを感じた。

 すぐに振り返ることはできなかった。ゆっくりゆっくり。大丈夫大丈夫。自分に言い聞かせて、あの人の声をもう一度思い出し、心を落ち着かせる。


 ――大丈夫よ。あたしがついてるから。


「……監視カメラを乗っ取れるなんて。エスメラルダの留学生は、本当にとんでもない能力の持ち主だ」


 ライティグは全く屈託がなかった。薬草学の試験の時に浮かべていた微笑みを思い出せば、ライティグは後ろめたさなどこれっぽちも持っていない――少なくともそうふるまうと決めているのだ、ということは明らかだった。


「あの子が僕の姿を君に見せてくれたら、もしかしたら、会いに来てくれるんじゃないかと思っていたよ。学校じゃあ、ろくに話もできないものね」

「聞きたいことがあるんだ」


 出てきた声は自分でも驚くほど落ち着いていた。まだライティグの方を向けないでいるのに、ライティグが微笑むのがわかった。


「そうだろうね。なんだい?」

「あんたは……なんでヨルグ少尉に協力してる? どんな弱みを握られてるんだ?」

「……」


 ライティグが動きを止めたのが分かった。

 明らかに、予想外の質問だったらしかった。


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