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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
ラセミスタの留学
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操獣法(25)

 ラセミスタはあの子をかばおうとした。しかし少尉の目的は初めからラセミスタの方だった。情け容赦のない鉄のような腕が再びラセミスタの胸倉をつかみ上げた。キイッ。あの子が鋭い声を上げてヨルグの手に嚙みつき、ヨルグは簡単に左手で払った。ラセミスタはわずかに緩んだヨルグの腕を振り払い、あの子の上に飛びついた。胸に抱えてうずくまる。


 何もできないけれど。何の力もない、もやしっ子でどんくさくて、ピクニックだけで筋肉痛になるようなお荷物だけれど、このまま何もできずにこの子を連れていかれるなんてそれだけは許せない。ヨルグの笑い声が聞こえた。後ろから襟首をつかみあげられて、体がまた引き上げられる。

 

 左手であの子を抱きしめて、右手には、唯一の命綱を握りしめる。もう使えそうなものはこれしかない。これで何とか隙を作って、この子を抱えて逃げるしかない。

 

「お前さえいれば」ヨルグ少尉は嬉しそうに言った。「この生き物に言うことを聞かせるなど容易い。実行の日まで協力してもらおう。ありがた……」


 だしぬけにその言葉がやんだ。いぶかしそうにヨルグ少尉は空を見上げた。


「……なんだ?」


 その時、ラセミスタもその音を聞いた。

 空気が鳴ったのだ。

 ざわっ――という不快なその音は、鳥の羽ばたきとなってこちらに押し寄せた。明け方の空が真っ黒になるほどの鳥が慌てふためいて逃げていく。ずずん、地面が鳴った。あれほど大勢の鳥が逃げるような何かが、西の方角から迫ってくる。ずずん……地震というのはもしかしてこういうものかもしれない。ずずん……低い振動がまた響く。みしみし、めりめり、と言った音も近づいてきている。何か巨大な、猛り立ったものが近づいてくることを肌で感じた。

 

 さすがのヨルグ少尉も呆気に取られていた。ラセミスタは右手を握りしめた。ずずん、ずしん、ずずん、めりめりぼきぼきばきばき。巨大な何かは着実に森をなぎ倒しながら近づいてきて、

 キャンプの周辺を囲む森を押し開くように、そこに現れた。


「……マティスか!?」


 ヨルグ少尉が叫び、ラセミスタは、嘘だ、と思った。

 あんな巨大なマティスがいてたまるか。

 角の先が見上げるほどの高さにある。山まで三号車を引っ張ってきてくれたマティスが子供に思えるほどの巨大さだ。巨大マティスは森を押し開いてキャンプ地に躍り出、そのまま机や椅子をなぎ倒しながら暴れまわった。


「退避!」


 ヨルグ少尉が鋭く叫び後退した。左腕がラセミスタの肩を掴んだ。ずしん。巨大なマティスは角を振り立てて雄たけびを上げ、ヨルグ少尉はラセミスタを抱えたまま逃げようとし、ラセミスタは、右手に握っていたものに魔力を通わせてヨルグ少尉の胸ポケットに滑り込ませた。


 効果はてきめんだった。


「な――っ!?」


 ヨルグ少尉は狼狽の声を上げラセミスタを突き飛ばした。急激に襲ってくるめまいに備えて目を閉じていたラセミスタはなすすべもなく突き飛ばされ、地面に倒れこみ、一緒に落ちたあの子を胸に抱きこんだ。ずずん、地面が揺れた。ラセミスタの作った消揺装置(個人版)は相変わらず恐ろしい効き目だった。鍛えた軍人でさえその効果をやり過ごすことはできなかった。ヨルグ少尉はよろめき、地面にしりもちをつき、体を支えようと大地にしがみついた。


 キイィッ!

 あの子が鋭く叫び、ラセミスタは何とか身を起こし走った。とにかくヨルグ少尉やほかの近衛たちから距離を取らなければならない。


「ラス、危ない!」


 リーダスタが叫んでいる。ヨルグ少尉から離れようとするあまり、ラセミスタはいつしか暴れまわるマティスのすぐそばによろめき出ていた。キイッ、あの子がまた叫んだ。呼んでる、と、ラセミスタは思った。

 

 この子がマティスを呼んでる。


 ラセミスタは立ち止まった。すぐ目の前にマティスが迫る。もう巨大な影にしか見えない。枝分かれした角が、まるで木の梢のように張り出している。そのはるかな高い場所からだしぬけに手が伸びてきた。マティスの背の上に乗っていたその人が、身を乗り出していた。逆光で顔が見えない。

 ラセミスタは両手を伸ばした。ふわりと体が浮いた。真っ白な生き物が翼を広げて舞い上がる、それを斜めに見ながら、ラセミスタの体はマティスの背の上に引きずり上げられた。




 そこにいたのはグスタフだった。

 何やってるんだろう、とラセミスタは思う。

 

 ラセミスタがグスタフの体の前に倒れこんだ時、マティスは再び森の中に突入していた。グスタフは何も言わなかった。二本の角の根元をしっかり握って、振り落とそうとするマティスの上に何とかしがみついている。ラセミスタはずり落ちそうになり、角に絡まったロープを握りこんだ。目の前に鋭い角の先端が見えていて視界が揺れるたびに肝が冷える。万一目に刺さりでもしたら。




 今、マティスはキャンプ地から躍り出て森の中を疾走していた。おかげであの恐ろしいヨルグ少尉から距離を取ることができた。あの子とラセミスタさえいなければ、リーダスタたちがこれ以上危害を加えられることはないはずだ。みんなは大丈夫だろうか、と今更思った。発砲音が何度か聞こえていた。撃たれたりしていないだろうか。

 

「ぐ、ぐ、グスタフ、と、とととめ、とめっられない!?」

「むり」


 返答はごく短く端的であった。だろうけれども、とラセミスタは思う。もちろんそうだろうけれども!

 グスタフはどれくらいマティスにしがみついているのだろう。むき出しの両手は力を籠めすぎて血の気が失せている。グスタフと一緒にいたはずの、ポルトとジェムズはどうしたのだろう。こんなに大きなマティスをどうやって捕まえたのだろう。どうやってここまで誘導してきたのだろう? 聞きたいことはいろいろあるが、聞いている場合ではない。口を開いたら舌を噛む。


 あの子はどこへ行ったのだろう。舞い上がったのは見えた。ヨルグがまだ消揺装置(個人版)の影響から立ち直っていなければ、おそらく無事のはずだ。

 ラセミスタはマティスの上で、なるべくグスタフの邪魔にならないよう身を縮めた。この上ラセミスタを支えるためにグスタフに余計な体力を使わせるようなことがあってはならない。


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