操獣法(24)
外に出ると、夜明けが近いのがわかる。
ラセミスタはリュックをテーブルの下に置き、ふたを開け、それから端末の方へ行った。暗視モードの映像を見るのに光が邪魔になったのか、端末の近くからはいつしかランタンが減らされて、若干暗くなっている。この暗がりならば、この子が抜け出すのにもってこいだ。
リーダスタに起こされたミンツが神妙な顔をして飲み物を作っている。ミンツの顔からまだペンキが消えていないのが不思議だ。あの爆発の日からもう何年も経ったような気がするのに。
「おはよう、ミンツ」
声をかけるとミンツは、おはよう、とまじめな声で答えた。その声に眠気は全く感じられない。もしかして、眠れなかったのかもしれない。ラセミスタが端末のところへたどり着くと、リーダスタが黙って交替してくれた。ラセミスタは端末の前に座り、兵士たちを見た。彼らはまだ眠っていた。絶対に大丈夫だ、と思った。
あの子は今、ラセミスタのポケットにいる。
ポケットの底に穴をあけて、上着の内側を通って出られるように細工をした。リュックのふたを開けて離れた場所に置いたのは、カモフラージュのつもりだ。上着の内側から足に移り、伝って足元の暗がりに紛れれば、きっとうまく逃げられる。リーダスタはラセミスタの後ろを通ってあの子とは反対側へ行く手はずだ。ウェルチとチャスクがリーダスタを守り、ミンツはいつでも動けるように待機してくれていて、ラセミスタは端末を見張る。完璧だ。絶対に、うまくいくはずだ。
端末の中で兵士たちはまだ寝ている。ラセミスタは囁いた。
「リーダスタ、時間だよ」
うん、リーダスタが頷いた。同時にポケットの中であの子が動き始めたのを感じる。
「そんじゃーね」リーダスタが軽く言ってひそやかに机を離れ、光の範囲から出て森の中に分け入って行く。それに応じるようにラセミスタの上着の中をあの子がゆっくりと移動して、ズボンの裾を伝って、地面に降りた。柔らかな、冷たい確かな重みが自分の体の上から消えた瞬間に感じた喪失はすさまじかった。泣くまい、とラセミスタは自分に言い聞かせた。別れを惜しむまい。平気だ。別れがなんだ。二度と会えないことがなんだ。
この子が兵器として扱われたり、殺されて毛皮を剥がれたりすることに比べたら、二度と会えないことくらい、どうってことないはずだ。
リーダスタを追うように、ウェルチとチャスクが離れていく。みんなが森の中へ分け入った、直後だった。
ラセミスタの向かいでコーヒーを飲んでいたミンツが顔を上げて、「……え?」と言った。
ラセミスタはミンツの視線をたどって後ろを振り返った。
すぐそこに、ヨルグ少尉が立っていた。
「……えっ、」
ラセミスタは目を疑った。どうして? だって、寝袋は四つとも動いていなかったのに。
「いろいろと小賢しく画策しているようだが」つかつかとヨルグ少尉は歩いてくる。「お前たちは何もわかっていないな。“素”はどこだ? いつ逃がした? 何度か仲間が交替したようだが、その時に逃がしたのだろう。今頃はとっくに迎えが来て、無事に帰っているはずだと思っている。だろう? ……だがな」
「それ以上近寄るな!」
ミンツが鋭い声を上げた。しかしミンツは机を隔てており一歩遅れた。ヨルグ少尉はあっという間にラセミスタのすぐ後ろに迫り、ためらいのない動きでラセミスタの首根っこをつかみ上げた。
「――!!」
「あの“素”の性質については私の方がよほど詳しい。お前のような人間があの“素”を匿った時点で、あれを捕まえるのは容易かった!」
「ラス!!」
リーダスタたちが慌てて駆け戻ってくる。ヨルグ少尉はラセミスタの体を軽々と右腕でつかみ上げていた。全体重が首にかかりラセミスタは目の前が真っ赤に染まるのを感じた。ぐらぐらと揺すられて、苦しくて、息が詰まる。
「ラスを放せ!」
「こんな細い首、折るのに両手もいらんぞ」ヨルグ少尉は喉を鳴らして笑った。「さあ――“素”よ、どうする? どうせ逃げずにこの者のすぐそばにいるのだろう、出てこねばこの首をへし折るぞ!」
恐らく寝袋の一つはダミーだったのだろうと、どこか遠くで誰かが納得している。新入生たちが監視カメラを利用しているのに気づいて、端末の前に誰もいないタイミングを見計らって寝袋から抜け出し、膨らませておいたのだろう。ミンツの攻撃を避けてヨルグ少尉は大きく下がり、体が大きく揺さぶられて喉がきしんだ。寝袋のあったあたりから近衛兵たちが飛び出してきてミンツの行く手を阻み、ヨルグ少尉を守るように展開する。
「動くな」鋭い声が言った。「動くと攻撃の意思があるとみなし発砲する」
ぱすん、軽い音がした。焦げ臭いにおいがした。ミンツが息をのんだ。
「どうした“素”よ、お前のような義理堅い生き物が、命の恩人を見捨てるわけがないな? 早く出てこねば恩人が窒息するぞ!」
「――」
出てきちゃだめだ、と言いたかった。
しかしヨルグ少尉に握られた喉には隙間がほとんどなく、か細いうなり声しか出なかった。頭がガンガンする。ラセミスタは喉を締め付けるヨルグ少尉の腕をひっかいた。と、少尉のもう片方の手がだしぬけにラセミスタの頬に当たった。ウェルチが何か怒鳴り、目の前に火花が散った。「早く来い!」もう一度鈍い衝撃が頬にぶつかり口の中に血の味がにじむ。
シュウッ、というような、鋭い擦過音が響いた。ヨルグ少尉が笑った。
「来たか。遅いじゃないか。か弱い小娘を打ち据えるなど、あまりやりたいことじゃないんだ、そう手間をかけるな」
何も見えない。けれど少しヨルグ少尉の手が緩んで、周りの音が少し聞こえ始めた。ウェルチとリーダスタとチャスクとミンツが何やら鋭く言い交していた。ばすん、ばすん、さっきも聞こえた破裂音が間断的に続いている。兵士たちが彼らの前進を阻んでいて、近づいてこられない様子だ。「早く来い」ヨルグ少尉が誘うように言った。ラセミスタは真っ赤に染まった視界を何とか動かしてそちらを見た。あの子が、戻ってきていた。まん丸に膨れているのは怒っているからだ……
ああどうしてあの子はこんなに賢くて、健気で、そして義理堅いのだろう。
ラセミスタなど見捨てて逃げていいのに。リデルがラセミスタを攻撃しようとした時も、隠れていられずに飛び出してきてしまった。そうだ、確かにヨルグ少尉の言うとおり、ラセミスタは何にもわかっていなかった。あの子の誇り高さと義理堅さを、過小評価していたのだ。
あたしって、どうしていつもこうなんだろう。
「に……げ、」
「黙れ」
言い終える前にまたヨルグ少尉がラセミスタの喉を締める手に力を入れ、瞬く間に酸素の供給が遮断された。ああもう本当にあたしってどうしていつもこう役立たずでみそっかすでもやしっ子なのだ。ラセミスタは憤っていた。カンカンに怒っていた。自分が不甲斐なくて悔しい。右手が動かない。今使えそうなものがたった一つだけあるのに、それを取り出すことがどうしても出来そうもない……
「……アルスタット=ヨルグ少尉。同級生に手荒な真似はおやめください」
リデルの声がそう言い、ヨルグ少尉は、だしぬけにラセミスタの喉から手を放した。
地面に投げ出された衝撃を感じる暇もなかった。気づくと地面にうずくまっていて、健気な自分の体が必死で酸素を貪っていた。「来ちゃダメ」といったつもりだったが、おそらくまともな言葉にはなっていなかったのだろう。ラセミスタの制止には何の力もなく、駆けつけてきたあの子がラセミスタとヨルグ少尉の間にその小さな体を割り込ませた。
ヨルグ少尉はせせら笑った。とても楽しそうな笑い声。
「少尉、同級生から離れていただきたい。これ以上の暴力行為は同じ高等学校生として見過ごせません」
リデルが落ち着いた声で要請し、少尉は嗤った。
「それは出来かねます。エスメラルダの留学生はあなた方の同級生である以前に犯罪者だ」
「犯罪? どんな?」
「軍で飼育している希少生物を盗み出した。こいつはれっきとした窃盗犯だ」
「そんな事実はありません」
「ありません?」
ヨルグ少尉は喉を鳴らして笑った。
「面白いことをおっしゃる。目の前にいるこの真っ白な生き物が何か、ご存じのはず」
「何を言っているのかわかりません」リデルはきっぱりと言った。「ラセル=メイフォードの近くに、どんな生き物がいるっていうんです? ……平民とはいえ高等学校生に向けて拳銃まで使用されるとは、良識ある近衛のなさることとは思えない」
「……」
ヨルグ少尉は少し考え、大げさなため息をついた。
「ガルシアの血も引かぬ下賤のものに、まさか絆されたのではないでしょうね。フォルート伯爵自慢のご子息と伺っていたが、見込み違いでございましたかな」
「何を言っているのかわかりません。ラセルと、それから彼らが法を犯しているという明確な証拠がない限り、この山に校長先生の許可なく立ち入られた挙句に武器まで使用されたあなた方に、僕たちの課題遂行の邪魔をさせるわけにはいきません」
ようやく少し、体が動くようになってきた。
ラセミスタは必死で頭を働かせていた。リーダスタとウェルチ、チャスクは、ヨルグの部下に阻まれてこちらに来られない。リデルとその後ろのベルナは、ヨルグ少尉よりずっと遠くにいる。ラセミスタがヨルグ少尉の足元にいる限り、この子は逃げてくれないだろうし、ヨルグの隙をついてラセミスタが逃げられるとは思えない。さっき、ポルトもリデルも、“自分の存在でヨルグが手出しを諦めることはないだろう”とはっきり言っていた。今はかろうじて対話が成立しているけれど――。
先ほど思い至ったものは右側のポケットに入っていた。そろそろとポケットに右手を入れ、しっかりと握りしめる。
「……わきまえていただきたいものですな」ヨルグの声が険を含んだ。「フォルート伯爵は、あの生き物の重要性をよくご存じだ。我々がこの山に入り込めたのは、誰のご尽力のたまものだと思われる」
「試験中の山に邪魔者を送り込んだ人間? 誰ですか? 皆目見当もつきませんね」
「国益を考えろと、伯爵ならば諭されるはずだ。あの生き物は我が国にとってどれほどの、」
「ここにいるのは子熊のはずだ」
リデルはきっぱりと言った。穏やかといえる声音だった。
「子熊、だったと思う。町にいたら保健所に駆除されてしまうだろう生き物だ。山についでに連れていくという話は聞いた。物好きな、とは思ったけど、課題遂行の邪魔にならないならどうでもいい。班のやつらにも何度も言いました。僕はその生き物を帰すことにはかかわらないって――カイマン家のご子息も、同じことを」
「その生き物こそが、軍の財産なのだと言っている」
「軍の皆さまもずいぶんお暇なようですね。子熊一頭捕まえるために、立ち入り禁止の山に入り込むなんて。でも僕たちは暇じゃないんだ。同級生から離れてほしい。あなた方は僕たちの課題遂行の邪魔をしている」
「そうだそうだ!」ウェルチが怒鳴った。「邪魔すんじゃねーよ、高等学校の試験だぞ!? 落ちたらどうしてくれるんだよ!」
「私がここにいるのは軍の総意ですぞ! フォルート伯爵のご経歴に疵をつけるおつもりか!?」
「子熊一頭ごときが、父の経歴に疵をつけられると? 曲がりなりにも伯爵にあたる存在を、ずいぶん見くびってくれる」
「埒があきませんな」ヨルグ少尉は深々とため息をついた。「先ほどカイマン家のお名前が聞こえた。司法をつかさどるカイマン家のご当主も、我らの行動を支持されている。――と、申し上げたら?」
リデルは一瞬黙った。
ヨルグ少尉は勝ち誇ったように微笑んだ。
「さあ、お分かりいただいたら下がっておられよ。あなたとラクロール家のご子息が、何らかの不本意な処遇を受けることは我々も望んでいない」
「カイマン侯爵は法を曲げる存在を黙認することを選ばれたかもしれないが」リデルは低い声で言った。「次期侯爵はそうではない。……絶対にそんなことはなさらない」
「致し方ありませんな。我々としても、貴族のご子息にお怪我をさせたくはないのだが、これ以上我を張られるなら、発砲も辞しませんぞ」
ヨルグ少尉はそう言い、だしぬけに、一歩踏み込んだ。




