操獣法(19)
眠るつもりは、なかったのだ。
眠ったら取り返しのつかないことになるとわかっていた。“過去”で経験したことだった。あの苦しみをもう一度味わうのは避けたい。
けれど、体だけは休めようと横になったのがいけなかった。お腹もいっぱいで、暖かくてふかふかで、一日動き回った疲労が体中に溜まっていて……目を閉じただけのはずだったのに。それも一瞬だけ閉じた、だけ、だったのに。
アラームで飛び起き、ラセミスタは悲鳴を上げた。
全身が、痛い。
「……明かり、つけて」
言うとハウスの壁が反応してぱっと明かりがついた。その光の刺激で全身が軋んだ。そろそろと足を動かそうとして、うめき声を上げた。体中に眠気としびれが残っていて、頭もずしりと重い。
そして体が痛い。
筋肉痛だ。
「情けない……」
そろそろと立ち上がった。活動服のままだったので着替える必要はないが、靴下くらいは替えようかと屈みこもうとして諦めた。寝癖のついた髪に手を触れようとして、腕の痛みに呻いた。登山は全身運動だというのがよくわかる。全身がくまなく筋肉痛だ。
――こんなの登山って言わねーよ。せいぜいピクニックだろ。
「そんなことないもん……」
ピクニックでこんな筋肉痛だなんて、情けなさも倍増だ。
なんとか顔を洗い、よろよろと外へ出る。外はびっくりするほど涼しかった。一度引き返して、肩と背中の痛みに呻きながら防寒具を着た。靴を履こうとして濡れているのに気づいた。夜露がびっしりついている。乾かすのも面倒でそのまま履く。履くという動作に使われている筋肉がどれなのかを痛感する。ひどい。情けない。悔しい。
それでも、みんなにこの筋肉痛を悟られるのは嫌だった。なるべく平気な顔をして、テーブルの方へ歩いていく。
「おはよう……」
テーブルの方には明かりがついていて、そこに、リデルとグスタフがいた。
リデルは端末にかがみ込んでいて、グスタフはお湯を沸かしていた。リデルは怒っているような顔をしていて、グスタフは、眠そうだった。頭に寝癖がついていた。ラセミスタの挨拶にリデルはうんと頷くだけで答え、グスタフは、あくびをした。
「おはよう」
おふぁよう、と聞こえた。そのままもうひとつあくびをする。珍しい。眠たげなグスタフなんて初めて見た。地図作成試験翌日の早朝に元気にジョギングなどしていたから、眠りとは無縁なのかと思っていた。
ラセミスタはちょっと安心した。グスタフのような人でも眠い時にはあくびが出るのだから、山登りをしたラセミスタが筋肉痛になるのは理にかなっている。
「リデル、お待たせ。交替するよ」
「……遅いんだよ」
リデルはラセミスタを見なかった。やれやれというように背中を伸ばした。ふう、息をついて肩を揉む。だいぶ疲れた様子だ。
「ベルナは?」
ラセミスタが寝たときにはベルナはまだ起きていた。リデルは頑なにこちらを見ない。無視されるかと思ったが、意外に返事があった。
「ミンツのテントで寝た」
「そう、じゃあミンツは?」
「僕のテントで寝てる」
「そうなの? えっと、じゃあ、リデルはどうするの?」
ここはやはりハウスを使っていいよと申し出るべきだろうか。
ラセミスタの見張り当番は明け方までだ。そのあと眠れるような気もしないから、ハウスはもう帰るまで使う予定がない。そう言おうとした機先を制するようにリデルはきっぱりと言った。
「ポルトがもうすぐ起きてくるはずだ。そっちを借りるから大丈夫」
「そ、そう……? あの、良かったらハウスでもいいよ?」
「絶対に嫌だ」
やけにきっぱりと断られた。やはり異国の技術などうさんくさいと思われているのだろうか。
「ラス、飲むか?」
グスタフが訊ね、ラセミスタはグスタフの方を振り返った。同時に背中がきしんで、うめき声をこらえる。
見るとグスタフはマグカップに、コーヒーのパックを引っかけているところだった。コーヒーだ。ラセミスタはちょっとだけ身構えた。本当なら香茶がほしいところだ。が、せっかくの申し出を断って自分で香茶を入れるのは申し訳ない気がする。
それに、漂ってきたコーヒーの香りは、意外にいい匂いだ。
「えっと、ありがとう。ほしいです」
「うん」
グスタフはもう一つのパックを開けて新しいマグカップに引っかけた。「リデルは?」湯を注ぎながら訊ねる。リデルは、驚いたようにグスタフを見、それから、ふんと言った。
「いらないよ、そんな安物」
「そうか」別段気を悪くした様子もなくグスタフは言った。「わかった」
ややして差し出されたマグカップの表面をラセミスタはじっと見た。気後れするほど真っ黒な表面が、ランタンの明かりにゆらゆら揺れる。
コーヒーはエスメラルダにもあるが、香茶に比べるとそれほど広く普及しているとは言えない。ラセミスタも今までそんなに飲んだことがなかった。あまりにも真っ黒で、あまりにも苦い。牛乳と砂糖をどっさり入れて初めて飲める代物だ。
グスタフはスティックシュガーとミルクポーションとマドラーをひとまとめにしてくれた。コーヒーの場合、スティックシュガーは三本はほしいところだが、もっとくれと言う勇気は出ない。ラセミスタは砂糖とミルクを入れ、マドラーでかき混ぜて一口飲んだ。苦い。でも、
「……美味し……」
社交辞令ではなく、本心からの声が漏れた。
苦くて薄くて、とってつけたようなミルクの味。薄甘くてとても熱いその飲み物は、びっくりするくらい美味しかった。もう一口飲んだ。マドラーでまたかき混ぜて、もう一口飲んだ。どうしてだろう、すごく美味しい。熱い液体が食道を通って胃に滑り落ちていく。じんわり体が温まるその感触。
「……グスタフ、これすごい。すごく美味しい……なにこれ……」
「うん」グスタフは笑った。「実際、安物なんだけど。普段は飲めたものじゃないってくらい薄くてまずいんだけど、夜の野外ではこれが旨いんだよな。何でだろう」
「ふうん……」
もう一口。マグカップは重く、肩と腕が痛むが、その痛さをも熱さが溶かしていくようだった。そのうちにポルトが、それからジェムズが起きてきた。ラセミスタがコーヒーに夢中になっている間に、気づくとリデルは自分の分とポルトの分のコーヒー(高級品?)を入れ、グスタフはジェムズにコーヒーを入れてやっている。チャンスだ。リーダスタの手管を思い出す。
「あの、でっ、できれば一緒にお代わりください……!」
マグカップを差し出すと笑ってもう一杯くれた。よかった、リーダスタの手管はラセミスタも使えたようだ。もう一杯飲むうちに、すっかり体が温まっているのに気づいた。筋肉痛は相変わらずだが、だいぶ目も覚めてきた。菓子を食べようと立ち上がり、腰の痛みに一瞬動きを止める。
呻きそうになるのを堪えた。あれっぽっちの“ピクニック”で筋肉痛だなんて、できればあまり知られたくない。
「リデル」グスタフが言った。「軍人たちに動きはなかったか?」
ポルトにコーヒーを注いでいたリデルは初めは答えなかった。
注ぎ終え、優雅な手つきでポットを置いて、リデルはやっとグスタフを見た。
「ない」
「……そうか」
「寝袋に入ってぐっすり寝てる。夜に来る気はないんだろう」
「……」
グスタフは何も言わず、考えているようだった。ラセミスタはお代わりのコーヒーと駄菓子をいくつか抱えてリデルのどいた端末へえっちらおっちら歩いて行った。よいしょと座って、ふうっと息をついた。なるべく平静に振る舞っているつもりだが、その実、脂汗が流れるほど痛い。コーヒーのおかげで体が温まり、起き抜けよりはマシだが、それでも痛いものは痛い。
痛みでにじんだ涙を払って端末を覗く。この周辺を映したウィンドウが三つ開いていた。確かにその中で、軍人たちも、ヨルグ少尉も、寝袋にくるまってすやすや眠っていた。
「ほんとだ。寝てる……」
「見せてくれ」
グスタフが言い、ラセミスタは顔を上げた。グスタフはすぐ隣にいて、ラセミスタの横から端末を覗き込んだ。と、グスタフの手が動いて何かをテーブルに載せた。ラセミスタの左手のすぐそば。
錠剤だった。
「何、これ?」
「鎮痛剤だ」小さな声でグスタフは言った。「不要なら捨てていい」
「……」
鎮痛剤? 薬? ……市販のもの?
ラセミスタは思わずその錠剤をじっと見た。
そうか、と思った。
魔女がほとんどいないこの国では、当然、魔女の治療は受けられない。魔女の処方した薬を飲めば症状が全快するエスメラルダとは違うのだ。薬を処方するのも魔女じゃない、医師だ。当然、水薬よりは錠剤タイプにした方が扱いが簡単だし長持ちする。症状が改善するまで、症状に合わせて、定期的に薬効を摂取することができる……
「そうか……痛み止め、売ってるんだね」
「ん?」
「……何でもない。わあ……ありがとう……」
「どういたしまして」
痛みを緩和する薬が、市販されているなんて。
なんて便利なのだろう。ラセミスタは感動していた。魔女やアーミナの手を煩わせなくても、下山して医師にかからなくても、辛い痛みを我慢しなくてもいいのだ。
錠剤のパッケージを開け、コーヒーで流し込んだ。できるだけ表に出さないようにしたつもりだったが、グスタフにも、みんなにも丸わかりだったのだろう。恥ずかしい……と思うが、誰も何も言わなかった。
グスタフは、画面の中のヨルグ少尉をじっと見ていた。眉間に皺が寄っている。ややして、画面から目を離さずに訊ねた。
「あの子はどうしてる?」
「え? ああ、リュックの中で寝てる」
ハウスの中で、いつものように枕元で寝るように促したのだが、あの子は頑としてリュックの中から出ようとしなかった。ラセミスタから絶対に離れまいという意志を感じる。
グスタフはラセミスタの示したリュックを見て、
「……この子をそのまま送っていくのはやめた方がいいな」
そう言った。困ったような声だった。
「……どうして?」
「ヨルグ少尉の狙いはおそらくこの子だけではないからだ。……断言はできないが、その懸念がある」
グスタフはそのまま椅子を引き寄せて座り、机に肘をついて顎に手を当てた。うーん、うなり声のような音が聞こえた。




