操獣法(16)
「――しょうがないな」
沈黙を救うようにポルトが言った。
「俺に異存はないよ。行ってくれば? 微生物のスケッチを三枚も仕上げたんだ。マティスまでお前に捕まえられたんじゃ、俺の立つ瀬がないからな」
「ありがとう」
「確かに、スティシーとかラムジーとかが聞き耳立ててる学校じゃあ、ろくに話もできないだろう。次の日には話の内容が首都ファーレン中に知れ渡ってるだろうから」
そういうものなのかとラセミスタは思った。カルムの置かれている立場は、そんなに窮屈なものなのか。
それなら、この機を逃すまいと思うのは理にかなっている。
「この山に監視カメラがたくさん仕掛けられてるって言わなかった?」ベルナがとがった声で言った。「単独行動を取ったら、減点対象になるんじゃないの?」
「お前が言う?」
ジェムズが呆れたようにつぶやき、カルムは低い声で答えた。
「班全員の合意があって、帰りに全員揃っていて、課題も達成されていれば、問題ないと俺は思う」
「それはお前の意見であって――」
「ベルナ、お前はこの班の人間じゃない。口を挟むな」
ポルトが鋭い声で言い、ベルナははじかれたように黙った。
グスタフが言った。
「一つ、覚えておいてほしい。明日の昼までに戻ってこなかったら、カルム一人の問題じゃなくなる」
「ああ、わかってる」
「一蓮托生だ」
「……そうだな。わかった」
何が? とラセミスタは思う。
しかしグスタフはそれでもう話は済んだと言いたげに黙ってしまった。カルムはミンツを見、ミンツは首をすくめた。
「えーと……僕はラスの意見に近い。危ないことはしない方がいい。ただでさえ夜の森の中なんて、足場も悪いし……そもそも、わざわざあっちに出向く必要がありますか? ここに呼び寄せて話をするってのはダメなんですか。ここなら周囲を監視できるし、話の内容は……聞かないようにする。耳に入っても、絶対に口外しないって約束する。他の人たちにも、そうしてもらえばいい」
「それ、いい考え!」ラセミスタはまた声を上げた。「それならハウスの中で話したらいいよ、あの中なら声は外に漏れないし、絶対に盗聴されたりしないもの……その、盗聴器を持ち込まれなければだけど……」
「いや来ないだろ」リデルが言った。「僕なら絶対行かないよ。ライティグ教官は軍に協力をしてるんだ。自分に非があるって自覚している場合、人は疑心暗鬼になる。ただでさえ得体の知れないエスメラルダの建物になんか、絶対近寄りたくないはずだ。何されるかわかんないもの」
ポルトが頷いた。「確かに、一人で出向かないと出てこないだろうな」
「そうなんだ」カルムも頷いた。「時間もあんまりないし」
「他のやつらは? 異論があったら発言して」
そう言ってジェムズはボタンを放した。通信機は沈黙していた。リーダスタもウェルチもチャスクも、何も言わなかった。
「ありがとう。それじゃ、明日の昼には戻るから」
カルムはそう言って通信機をひとつ持った。ベルナが口を出した。
「何の話があるんだ」
「それは聞かないでほしい」
カルムは端的に答えて、リュックを背負い、通信機を持って歩いて行った。行ってしまう気らしい。この期に及んでラセミスタはそう思った。
本当にフェルドみたいだ。こういうときにフェルドを説得するのは時間の無駄だ。それは重々わかっていて、だから、ラセミスタはその背中に声をかけた。
「カルム」
カルムは振り返った。寮で、購買にでも行く途中で呼び止められたかのような振り返り方だった。
「ん?」
「えっと……気をつけてね」
「そっちこそ」
カルムは笑って、そのままキャンプを出て行った。
少しして、ベルナが言った。
「僕には、散々帰った方がいいって言ったのに。あいつはいいんだ。不公平だな」
「そりゃそうだろ」
ポルトがそう言い、グスタフが、ポルトを見た。
「ポルト。カルムとライティグ教官が話すのは、そんなに貴族の耳目を集めるものなのか」
「もちろん。校長先生が事前に手を打たなかったら、薬草学の試験に大勢の見物人が詰めかける事態になっただろうな。薬草学の指導官がライティグ教官だというのはもちろん周知の事実だから」
「そうなのか?」
「十年前の因縁があるからな。ライティグ教官は高等学校の卒業生だ。在学していたのは十年ほど前――カルムの兄、ロルフ=リーリエンクローンの同級生で、親友だった、と聞いてる」
ミンツが食い入るようにポルトを見ていた。
十年前、カルムのお兄さんが亡くなった。午前中に、ミンツの“懺悔”を聞いたばかりだ。僕たちはカルムが殺したと思い込んだ。そうであったら溜飲が下がると、思っていたと。
「十年前、在学中にロルフ=リーリエンクローンが亡くなった。その時にカルムと、それからライティグ教官が、一緒にいたそうだ」
「それって……本当なの?」
ラセミスタは訊ね、ポルトは軽く頷いた。
「確かな情報だ。ロルフは崖――ほら、ロランド橋の掛かった渓谷から落ちて亡くなったんだ」
ロランド橋は、首都ファーレンに入るための大きな街道にある。西から首都ファーレンに入る時には必ず通らなければならない橋だ。
ロルフは西へ向かおうとしたのだとラセミスタは思った。
ポルトは淡々と話を続けた。
「――大事な手紙を届けに行く途中で、どうやら反対派に襲われたらしい。ライティグ教官がロルフからその手紙を託されて任務を遂行した、ということになっている。そこにカルムもいた。ライティグが届けた手紙を国王陛下がすぐに信じたのは、カルムが一緒にいたからだろう」
「十年前、国王陛下への手紙――もしかして、ゴドフリー前国王の“議会”のときか?」
グスタフが訊ね、
「そうだ」ポルトはため息をついた。「現国王陛下が外遊中に、ゴドフリー閣下は先代の改革を白紙に戻そうとした。議会での法案成立寸前に間に合ったのは、カイル=リーリエンクローンが議会の開会をぎりぎりまで引き延ばしながら告発の下準備を整え、同時に、現国王陛下に知らせを出したからだ。父親からその手紙を託されたのはロルフで、途中でそれを引き継いだのがライティグとカルムだ。……ということになっている。真相は知らん」
「そうなのか。こないだ、ロルフ=リーリエンクローンは貴族派に取り込まれた、だからリーリエンクローンに殺されたんだって、スティンキーとかいう人間が言っていた。まったく真逆だと思うが、そういう見方が広まっているのか」
グスタフがそう訊ね、ポルトは蔑んだように笑った。
「スティシーね。あの人の言うことを真に受けるなよ。スティシー家はバリバリの貴族派だ。貴族派にとっては、ロルフが貴族派に傾倒していたという噂があった方が好都合だろう? ロルフは今じゃ英雄だからな。優秀で将来を嘱望された若者でさえ貴族派だったんだって、自らの正当性を高めたいだけだ。……でも、そうだな。最近になって、そういう見方が広まっているらしいのは事実だ」
「そんな重要な手紙を託されたのに?」
「リーリエンクローンには政敵が多いからな。そりゃいろんな噂があるし、死人に口なし、ということなんだろう」
ポルトは、低い声で続けた。
「ロルフが亡くなったときに何があったのか、本当のところはわからない。真相を知っているのはカルムとライティグ、それからもちろん、襲撃者だけだ。ただ噂はずっとあった。ライティグは本当にロルフの手紙を引き継いだのか。ロルフを殺したのは、本当に、ゴドフリー様配下の兵だったのか。カルムは国王陛下のところにたどり着いたときに大けがをしていて、生死の境をさまよったらしい。起きてからも、何も言わなかった。記憶の混乱が見られた、と調書にあった。ただ事実として、手紙は無事に届けられ、その場にライティグ教官とカルムがいて、国王陛下は議会に間に合った」
「……」
「カルムは今日まで何も語っていない。事件の後、人が変わったように誰も寄せ付けなくなり、そのうち放浪に出かけた。三年間、行方をくらませていた。もう帰ってこないのではないかと、みんなからそう思われていた。まさか高等学校に入学するなんて、誰も思っていなかったんだ」
「ライティグ教官は……口封じに来たかもしれない、ということか」
「状況を見ればな。たぶんそうなんだろう」
ポルトはあっさりと言い、ラセミスタは腰を浮かせた。ミンツも同時だった。
「やっぱり一人で行かせちゃ……!」
「僕、ついていきます、今からでも!」
ポルトは、突き放すように言った。
「ミンツ、座れ。邪魔するな。簡単に首を突っ込んでいい事態じゃないってことくらいはわかるだろう」
「でも、そんな。放っておけないでしょう!?」
「お前らしくないな。ライティグ教官は高等学校の教官だが、平民だ。ということは貴族の後ろ盾がいるということだろう」
ラセミスタはぽかんとした。「そうなの?」
「そうだ。そして、彼の後ろ盾はほかならぬカイル=リーリエンクローンなんだ」
「えっ」
ラセミスタは息を飲んだ。カイル=リーリエンクローンというのは、カルムとロルフのお父さんのはずだ。
「普通、あれくらいの業績の平民なら王立研究院に所属する。王立研究院で研究をし、高等学校から依頼があったときに嘱託として高等学校教官を兼ねる、たいていの人間はそうやってキャリアを積み、高等学校直属のポストを狙うんだ。けどライティグ教官は違う。手紙を届けたという大きな成果を最大限に利用してリーリエンクローンの後ろ盾を得、それを利用して、高等学校の教官という座を手に入れた。あの人が“世事に疎い”って薬草学の教官が言っていたけど、とんでもない話だ。この山でライティグ教官と対立するということは、リーリエンクローンと対立するという構図になりかねない。カルムが俺たちを巻き込むまいとしたのには、そういう意味もあるだろう。この国でリーリエンクローンに睨まれて無事に卒業できる学生なんているわけがない」
「でも、」
「じゃあどうする気だ」ポルトはラセミスタを睨んだ。「お前、自分の立場を忘れたのか。狩人とやらに命を狙われてるのは本来お前の方なんだぞ。近衛もいて、狩人だかアナカルシスだかのスパイもいて、どっちもお前を狙ってるんだ。あいつの上にさらに近衛と狩人をプラスする気なのか?」
そういわれては、黙るしかなかった。確かにラセミスタの手助けなんて、現状ではカルムの重しを増やすことにしかならない。
しかし、胸騒ぎは去らなかった。




