操獣法(13)
――エスメラルダは恐ろしい国だ。
説明を聞きながら、リーダスタは畏怖に似た感覚を覚えていた。
バラバラの離れた場所にいる仲間全員が、同じ情報を共有することができる。ガルシアでももちろん昔から研究は進められているのだが、大気に存在するかすかな歪みの成分が電波を妨害するそうで、こんなクリアな音声の伝達なんて夢のまた夢だ。
けれどこの世の果てにある国に、すでに歪みの影響をキャンセルできる通信機器が存在している。
ガルシアの外交官がエスメラルダに行っても、本国と連絡を密に取るなんて不可能な状況なのに、エスメラルダからの外交官はいつでも自由に本国と連絡を取り、今後の方針を決められるのだ。どうやって対等に渡り合えというのか、そう言った校長先生の言葉が沁みる。本当だ。いったいどうやって。能力において全く対等じゃないのに。
この山全体の映像を丸ごと見ることができる、そんな存在と。いったいどうやって。
『次に、課題の状況だけど』
チャスクの説明が終わり、カルムの声が聞こえた。
『スケッチはほぼ終わった。似た細菌が三つあったから全部書いた。このうちのどれかが正解であることはもう祈るしかない』
チャスクが受けた。「そりゃお疲れ。ありがとーな」
『それで、相談なんだけど。決を採りたいんだ。せっかくこの山全体の映像を見られるなんて特典を手に入れた。この便利な手段を、マティスを探すのに利用するかどうかについて』
――その手があったか。
というのが、リーダスタの本音だった。
しかしカルムが“決を”採ろうとした理由もよくわかる。それはやり過ぎではないのか、と囁く自分がいる。他の班との間に、あまりに格差ができすぎはしないだろうか。
『俺はやり過ぎだと思うんだ』カルムはそう言った。『けど、それを言うなら。顕微鏡を入手した時点で今さらじゃないか、とも思うんだよな』
それももっともだ。
この課題の出題者は、いったいどういう行動を想定してこの課題を入れたのだろう。
『例えばラスが初めからこの課題の内容を知っていて、そのためのカメラシステムをあらかじめ購買で買ってセッティングしていた、それなら明確な違反だろ。でも今回のは、すでに存在していたものを利用し返しているだけだ。このシステムを課題達成のために使うのはありかなしか。意見を聞いて、意思統一をしときたい』
『俺は反対だ』通信機から、今度はグスタフの声が聞こえた。『顕微鏡はガラス玉か虫眼鏡があれば自作できる。微生物まで見えるほどの倍率を出せるかどうかは微妙だけど。もしかしたらマティスの巣を良く探せばガラス玉の一つくらい紛れていたのかも知れない。ラスがいなくても、顕微鏡はどうにかなった可能性はゼロじゃない。けどこの山全部を監視できるシステムを利用するのはラスがいないと不可能、つまりほかの班の人間はカメラの存在に気づいても利用できない。課題達成のために使用するのはやり過ぎだ。課題と関係ない軍人がこの山に紛れて手出しをしてくる、このイレギュラーな状況を打開するためだけに限定すべきだ』
『俺もそう思う』ポルトが言った。
『俺も』と続けたのはジェムズの声だ。
「ラスは? なんて言ってんの」
リーダスタはそう訊ねた。正直、利用してしまいたい気持ちもあった。
クィナを仕掛けたからと言って、マティスがここに現れるかどうかは賭けだ。期限が明日の日没までしかない、いや、馴らす時間を考えたら今すぐに出てきて捕まえても決して早すぎるということはないはずだ。この山の中にあるものを新入生の能力で工夫して使用している、という前提を考えれば、完全に違反だとは言い切れない。
通信機は少し沈黙し、ややしてカルムの声で言った。
『ガルシアの常識がわからないから委ねると言ってる』
「エスメラルダの常識ではどうなのさ」
『エスメラルダの常識もあんまり詳しくないんだけど』今度はラセルの声が少し遠くで言った。『でもやっぱり積極的に使うのは後ろめたい気がするよね。ヨルグ少尉に追っかけられてなかったら、このシステムの存在に気づいても、ハックまでしたかどうかはわかんないな』
「ふーん、そうか。だったら俺も反対、にしておこうかな。確かに他班のやつらからすれば、たまったもんじゃないもんね」
『反対意見が多いな。賛成のやつはいないか?』
カルムがそう訊ね、通信機はしばらく沈黙した。
リーダスタはウェルチとチャスクを見た。ウェルチは話を聞いているのかどうなのか、目を閉じたまま微動だにしない。こんなに周囲で話しているのに眠っているわけがないから、異存はないということなのだろう。チャスクも何も言う様子がない。
と、リデルの声が言った。
『一応確認するけど。軍人の様子を見張ってて、偶然マティスが目に入った場合には、情報共有していいんだよな?』
リーダスタは思わず笑い、ポルトの声が答えた。
『そこまで反対する気はないよ。その僥倖には大いに期待しよう』
『よし、それじゃあこれで意思統一ができたと考えていいよな。異論があるやつは、早めに共有してくれ』
カルムの声が締めくくり、リーダスタはなんだかホッとした。何にせよ、行動を共にする仲間と方針を決めて合意し、共有できるというのはいいものである。
雰囲気が和んだようだ。次に聞こえたカルムの声も穏やかだった。
『……そんでマティスの方はどうなった?」
『まだ出てこない』ポルトの声がそう言った。『まあ、焦っても仕方がない。誰か三人、仮眠しといてくれ。日暮れになったら代わってほしい』
夜中にか。
リーダスタは、一瞬だけ迷った。
今の明るい時間帯でも、マティスが現れたらかなりの恐怖を覚悟しなければならない。野生のマティスは凶暴だと言うし、何よりでかい。それが夜になって周囲が暗くなったら、いったいどうなるのだろう。さらなる恐怖を覚悟しなければならない。それに正直、リーダスタはリデルとミンツの交代要員をやりたかった。エスメラルダの魔法道具を好きなだけいじくり回せるなんて、こんな機会はめったにない。他のみんなも本音はそうではないだろうか。
しかしウェルチが、まだ寝転んだ体勢のままひらひらと手を振った。
「俺いーよ、夜代わるよ。今ちょっと寝たし。まだ眠れそうだし」
「え、そうなの?」意外である。「魔法道具のほう、やりたくない?」
「やりたくない。あっちとはできるだけ距離を取りたい」
やけにきっぱりとした言い方だった。リーダスタは更に意外に思った。
「そうなの? あっちにはあの小さい生き物がいるじゃん、あんなに執着してたのに」
「あんまり見てると別れが辛くなるだろ。遅くても明日には別れるんだし」
まあそれはそうかも知れない。リーダスタは納得して手を挙げた。勇気を振り絞っているのは外に見せないよう細心の注意を払って。
「俺もやるよ、今んとこずっと休憩してるみたいなもんだし。これからちょっと眠れるかやってみる」
「そんじゃ俺入れて三人で充分だな」
チャスクはそう言い、通信機のボタンを押した。
「俺とリーダスタとウェルチが今から仮眠する。日暮れで交替しよう」
『わかった。頼む』
ポルトの声が聞こえ、リーダスタは思わず座り直した。チャスクと顔を見合わせる。
通信が終わると、チャスクもリーダスタの前に座り込みながら、意外そうに言った。
「頼む、だってさ。お貴族様ともあろうお方が、どうなってんだ、気持ち悪ィ」
「調子狂うんだろ」ウェルチがあくびと共に言った。「俺もわかる」
「わかんの? そういやリデルの調子も狂ってたわ。ラセルに対してさ、僕が持ってきた菓子食いたくないのかって地団駄踏んだ。なんだそれって感じだった」
リーダスタも思った。なんだそれ。
「いやあ、わかるわあ……」
ウェルチはしみじみと頷いた。わかるのかよ、とリーダスタは思う。
チャスクはそれ以上追求せず、リュックを枕にしてタオルを顔にかけた。さっきの話によると、リデルはラセルに貴族御用達の菓子をふるまったということだ(地団駄を踏んで?)。山に入るまではラセルのことをあんなに怒っていたのに、ポルトはあのときリデルにいったい何を囁いたのだろう。
ともあれ、今は休むときだ。仮眠してくれと頼まれたのだから、大手を振って昼寝ができる。リーダスタもリュックに凭れ、顔に上着を掛けることにした。




