二日目 当番(3)
次に我に返ったとき、時間は一時間ほどが経過していた。ケガ人の呼吸は落ち着いていた。包帯は全部外れていて、火傷はすっかり癒えていた。彼の体を蝕んでいたものも、すっかり取り除かれている。
獣じみた少年は少しこちらに近づいていた。魅入られたようにマリアラの手元を見ている。
「血が……出てきたんだけど」
マリアラを我に返らせたのは彼のそんな呟きだ。マリアラは頷いた。
「うん。これでいいの。後はこの傷を治すだけ」
「血、止まらないよ」
「すぐ治るよ。大丈夫」
少年は黙った。マリアラが左手をケガの上に翳すと、じわじわとケガが癒えていく。マリアラにとっては既に見慣れた光景だが、少年は固唾を飲んで見守っている。
まるで、魔女の治療を生まれて初めて見たかのようだ、とマリアラは思う。
「ケガをしたまま、放っておいたんだね。この森は今〈毒〉に汚染されてる。その〈毒〉が傷口から入っちゃったんだと思うよ」
「そ……だったんだ。ケガしてから、ずっと、具合悪そうにしてたんだけど……一昨日から熱が出て、意識もないし、全然、下がらなくて」
「そう」
一昨日からこんな状況で放置されていたのか。
この子たちの置かれている環境が、謎だった。実際この目で見ていなかったら、とても信じられなかっただろう。サイズの合わない靴、汚れたぼろぼろの衣類、寮母も保護者も見当たらない事実、ずさんで衛生への配慮が殆どない手当、ケガをして数日経つのに医局にも治療院にも担ぎ込まれない重傷者。
まるで、こないだ“セイラの母”から説明された、レイキアの惨状のようだ。――ここはエスメラルダなのに。
光珠の灯りの中で見る藍色の瞳の少年は、とても可愛らしい顔立ちをしている。あどけない表情。ケガ人の方もまだ幼い。この年頃の子供に必要な栄養も手当も与えないことは、エスメラルダの法律で言えば立派な虐待に当たり、犯罪行為だ。保護者もしくは寮母は逮捕されることになる。それをうまく説明して、この二人を休憩所につれて行くにはどうしたらいいだろう。
「寮母さんは?」
意を決して訊ねると、少年は弾かれたように顔を上げた。「なに?」
「寮母さんは? ――あなたたちの保護者は? こんなケガをしたのに、医局にもつれて行かないなんて信じられないよ」
「保護者は悪くないんだ」呻くように彼は言った。「俺今、家出中なんだよ……」
「家、出?」
「治してくれてありがとう。送ってくよ」
用は済んだ、と、彼が言っているのが分かった。治療は終わり。だからもうお前には用はない。同情もいらない、境遇の改善なんて余計なお世話だ、と。
マリアラは迷う。放っては置けない。でも、どうすれば。
子供は保護者を庇うものだと聞く。でもそれは誤りなのだと、子供は必要な手当を受ける権利があるのだと、理解させるにはどう説明すればいいのだろう。
その時、少年が言った。
「静かに」
今までの声とはまるで違った。吐く息だけで囁かれたそれは、鋭い刃のようだった。少年は戸口の外を睨んでいた。鋭い囁きが続く。
「それ、消して。早く」
消して――光珠のことだろう。マリアラは戸惑ったが、その雰囲気に気圧されるように、光珠を消した。手探りで、薬の瓶や点滴の器具を片付けた。闇の中でも、少年の瞳はキラキラ光っているように思えた。先程まで途方に暮れているようだったのに、今は全然違う。あどけなさがかき消え、精悍さが根を張る。
雰囲気が張り詰めていて、とても静かだ。
少年が囁いた。
「くそ……戻ってきた」
「戻っ、」
「喋らないで。今日は戻らないって言ったのに」
がさがさ、ぽきぽき、という音が聞こえてきたのはそのあとだ。藍色の輝きがこちらを見た。
「頼むから喋らないで。あいつらにつかまったらあんた殺されるよ。……こんなことになってごめん。できる限りのことをするから」
「……」
「あいつらの注意が逸れたら、帰って。俺たちのことは忘れて欲しい」
「ラルフ! 起きろ!」
鋭い声が闇の中から放たれた。少年ははあっと息を吐き、それから声を上げた。
「アルノルド。――何だよ」
「ここに誰か来たか」
アルノルドと呼ばれた男はまだ若そうな声をしている。フェルドやマリアラとそれほど変わらないのではないかと思えるような若々しさだ。“あいつら”と少年は言ったが、ここに来たのはたぶん一人だけ。
ラルフと呼ばれた少年は、怪訝そうに言った。
「誰かって誰」
「若い男――ああいや、来てないならいい。ルッツは死んだか」
ラルフはかすかに舌打ちをした。「死んでないよ。熱も下がった」
「へええ! 焼いたのが効いたな、え? 俺の言ったとおりじゃねえか」
「まあね。で、どうしたの」
言いながらラルフは小屋から出た。戸口に陣取るようにしている。
“捕まったらあんた殺される”と言った少年の言葉が、じわじわと胸に染みてくる。
ラルフは、マリアラが“殺され”ないように、しようとしている。
「ルッツの容態聞きに、わざわざ戻ってきたわけじゃないんだろ」
「ああ。今夜の休憩所当直のマヌエルが、血相変えて何か探し回ってるんだ。バレたのかもしれねえ。念のためだ、移動すんぞ」
――フェルドだ。
マリアラは悟り、ぞっとした。そうだった。書き置きもせずに飛び出してきてしまった。
足音が近づいてくる。ラルフが入口で足を踏み締めた。
「寄るな」
「ああ? んだてめえ、どけよ。ルッツ運ばねえとなんねえだろ」
「ルッツに触るな。助けようともしなかったくせに。熱出ても死にかけても顔色ひとつ変えなかったくせにっ、死んだ方が後腐れなくていいって、思ってたくせに!」
「てめ――」
「俺ひとりで運ぶ。あんたの手なんか借りるもんか!」
ラルフの藍色の瞳がらんらんと光っている。なんて獰猛な光だろうとマリアラは思った。アルノルドはラルフよりずっと年上らしい。体格も全然違うのだろうに、ラルフは全く恐れる様子がない。
ややして、引き下がったのはアルノルドの方だった。鋭い舌打ちが聞こえた。
「わかったよ、勝手にしろ。連れてこい。てめえみてえな獣には、重いモン持たせてた方が見張りやすくていいしな」
ラルフが息をつき、小屋の中に戻ってきた。マリアラは心臓が跳ね回る音を聞きながら、かすかに見える闇の中で、ラルフがケガ人の上に身を屈めたのを見た。藍色の瞳が、こちらを見た。囁きが聞こえた。
「帰って。――もう忘れて」
「早くしろ!」
アルノルドはずっと声を抑えている。“血相を変えて探し回っているマヌエル”の注意を引かないようにしているのだろう。この人たちはいったい何なのだろうとマリアラは思う。この子は、いったい、何なのだろう。何に巻き込まれているんだろう。
意識のないケガ人の体が、ラルフの細い背の上に担ぎ上げられた。
マリアラはそれを手伝ってあげることさえできなかった。“見つかったら殺される”という言葉が、今はあまりに重くて。ラルフの持つ雰囲気の鋭さが、その言葉に現実味を与えている。
自分と殆ど変わらないくらいの大きさの重い体を担いで、ラルフはよろよろと小屋を出て行く。彼が出て行く寸前に、小さな声が落ちた。
「ありがとう」