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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
ラセミスタの留学
443/782

操獣法(2)

   *



 山は、想像以上にうっそうとしていた。


 今までにラセミスタが知っていた山と言えば、エスメラルダの北に聳える雪山(の映像)くらいのものだ。ここに来るまでに通ったどんな場所にも山はなかったし、ラセミスタには、フェルドのように見知らぬ場所のガイドブックや絶景を眺めて楽しむ趣味はなかった。ましてや自分で行ってみるなんて、考えてみたこともない。


 雪山(の映像)に比べると、ここの山は密度が濃い。ジャングルってこういう感じだろうかと思ってみたが、口に出すことはしなかった。ごくり、喉が鳴る。“過去”で王宮地下を這いずり上がったときでさえ、フィガスタに負ぶってもらったていたらくだ。今は、あのときに比べれば少しは外に出るようになっていたし、マリアラやフェルドと一緒に町歩きもするようになった――が、半年の受験勉強でそれも元の木阿弥になっているだろう。こんな足場の悪い場所を歩き回らなければならないなんて思いも寄らなかった。かろうじて登山口のようなものは見えるが、下生えがないというだけの、ほとんど獣道のようなもの。

 こんなことなら、筋肉の動きを助け、増強する、パワードスーツでも開発しておくんだった。


 この登山口に到着したのは三号車の馬車だけだった。ここにいるのは、馬車に乗ってきた十人、そして指導官だけだ。とすると、他の四台もまた別々の登山口に連れて行かれているのだろう。山の中でばったり出くわしたりするのだろうか。


「さーて、それじゃあ君たちは二班に分かれるよ」


 三号車に同乗していた指導官は、三十代前半くらいの人だった。サージェスという、親切そうな人だ。にこやかな笑顔。


「昨日配られた札があるでしょ、それ見てみて。そろそろ、別の文字が浮かび上がっているはずだ」


 みんな、おのおの配られた札を取りだした。

 ラセミスタも自分のを覗き込んだ。確かに、先ほどまでは“3号車”としか書かれていなかったはずの表面に、別の文字が浮かび上がっていた。“マティス”と書かれている。


「マティスって書いてあった人はこっち。“生態”って書かれていた人は、こっちに集まって」


 ラセミスタはサージェスが挙げた左手の方へ行った。カルムが同じ班だった。それからウェルチとジェムズ、最後にポルト。“生態”の方にはグスタフ、リーダスタ、チャスク、ミンツ、リデルだ。サージェスは一同を見回して、よし、とひとつ頷く。


「それじゃあね、これ、課題だから」サージェス指導官は軽い仕草でウェルチとミンツに合皮でできた薄っぺらいファイルを手渡した。「よく読んで、達成できるように頑張ってね。まあ、そんなに難易度は高くないから大丈夫だよ。期限は、明日の夕暮れまで。全員揃ってここに戻ってくるようにね。班同士で協力し合うのも全く構わないから、みんな、仲良くやりなさい。カリキュラムが始まったら、よくこういう状況になる。別々の課題を取ったはずの同級生や先輩と、旅先で偶然、一緒になるんだ。お互いに連携し合って行動すれば、課題の完成度は遙かに上がる。その予行演習と思えばいい」


 それじゃあ頑張ってね。サージェスは軽い口調で言って、馬車へ戻っていった。

 残された十人は、互いに顔を見合わせた。ラセミスタはポルトを盗み見た。同じ班の中に、ポルトの“仲間”は一人もいない。きっと高らかに文句を言うだろう。そう思ったのに、意外にポルトは平静だった。黙って手にした札を見るともなしに眺めている。


「で、課題ってのは?」


 ジェムズが訊ね、ウェルチがファイルを開いた。


「えーと。マティスを一頭捕まえて連れてこいって」

「……難易度高くないって言ってなかったか」


 ジェムズはサージェスを見た。サージェスはさっさと馬車に乗り込んでいた。窓越しに、こちらの視線ににっこり笑い、ひらひらと手を振ってみせる。


「こっちも大概だよ」聞いていたらしいリーダスタが声をかけてきた。「マティスの生態調査。マティスの巣の構成物を一部サンプル保存。それと、構成物の中に存在し巣の強度を高める役割をもたらす細菌を検出しスケッチ」

「巣の強度を高める細菌? そんなのいたっけ」

「いたよ。ファキシパロフィリウスって言うんだ、確か」


 即答したのはカルムだった。うげえ、とウェルチが呻き、カルムが笑う。


「なんだよ」

「いえ、ありがたいです……で、それスケッチできるくらい細部まで覚えてる?」

「さすがにそこまでは。見たらなんとなくわかるかなってくらい」

「だよなー。他には、誰かいるー?」


 誰も手を挙げなかった。つーことは、と、ウェルチが続ける。


「顕微鏡がいるってことじゃん。持ってきた人ー?」

「いるわけねーだろ」


 チャスクが突っ込み、ラセミスタは、おずおずと手を挙げた。リーダスタが呆れた声を上げる。


「え、ほんと? 持ってきたの?」

「……持ってきてはないけど、作れるよ……その、手持ちのものをばらせば。でも、細菌なんて扱ったことはないし、スケッチもしたことない。作れるのは道具だけ」


「よし採用」ウェルチはびしっとラセミスタを指さした。「つーことで、もう、協力し合うしかない。どっちにせよ、マティスの巣を見つけ出す必要がある。その近くにキャンプを作って、ラスはそこで顕微鏡を作る。で、その間に他の人間が、……マティス捕まえたことある人?」


 沈黙が落ちた。ややして、グスタフが、低い声で言った。


「自分でやったことはないが。友人が捕まえるところなら何度か見た」

「何度か!?」

「って、何度も捕まえてんの!? 何者なのその友人」

「マティスは騎獣として人気が高い。けっこうな値で売れるから、組織的に――」


「さっすがミンスター地区だな」笑い声が聞こえた。「ほんっと、お前たちは故郷でマティスの糞でも拾ってりゃいいんだよ。都会の水は口に合わないだろうに」


 みんなが静まりかえった。その毒のような言葉を吐いたのはリデルだった。リデルはみんなの輪の少し外れた辺りにいて、ミンツの肩を抱いていた。なあ? とミンツを覗き込む。


「ほんっと、やってらんないよな。マティスに顕微鏡……今回の課題って、どっちも、エスメラルダとミンスターのために用意されたものじゃないか。高等学校も落ちたもんだ。こうまでして、地区出身者と留学生にいいポジションを与えたいのかよ」

「り、リデル……」


 ミンツは明らかに困っていた。彼の意見はリデルとは異なっている。しかしはっきりとそれを指摘して、自分の立場を表明することもできないようだった。


「なあミンツ」


 リデルはしっかりとミンツの肩を抱いている。

 逃がさないとでも、言うかのように。


「……ほんっとうに、やってらんないよ。な? いいなあ、こんなことなら、僕もどっか別の国に留学すれば良かった。課題のことはエスメラルダとミンスターに任せたよ。だってお前たちのために準備された課題なんだもんな」

「……本気で言ってんの?」

 リーダスタが低い声で言い、リデルは朗らかに笑った。

「もちろん本気だ。僕たちはこの辺りで待ってるから、せいぜい山ん中這いずり回って課題やってこいよ。ポルト、僕、こんなこともあろうかと、ボードゲームいろいろ持ってきたから――」


 リーダスタが一歩前に出た。

 と、彼女を遮るように、ポルトが言った。


「リデル、……伯爵から聞いていないのか。操獣法の課題について」

「え」リデルは驚いた。「父から? いや、でも――」

「俺は昨日、実家に寄った時に聞いた。父の操獣法の試験で出された課題は、マティスを一頭捕まえる、と言うものだったそうだ。これはミンスターのために準備された課題じゃない。長年出されてきた、伝統の課題なんだ」


「え――」


「叔父の時の課題は」はあっ、とポルトはため息をついた。不本意そうだった。「当時この山に住み着いていた大鷲の卵の数を数え、スケッチしてくる、というものだった。もし当時、エスメラルダの留学生がいたら、空飛ぶ箒を出せると言っただろう。そして、……エスメラルダのために準備された課題だと、反感を買ったんだろう。たぶん」


「……」


 リデルの唇が震えている。一番信頼できる味方から裏切られたというような、傷ついた表情。

 ポルトは低い声で続けた。


「リデル、しょうがない。お前の気持ちはわかる。俺も同じ気持ちだ。ムカついてる。何でこんなやつらと手を組まなきゃいけないって、思ってる。下賎の者がしゃしゃり出て俺たちの方針を全部決めようとしてる、なんでそいつの言うことに俺が従わなきゃいけないんだって、思ってる」


 ポルトはウェルチを睨み、またため息をついた。


「……でもとらわれるな。課題をこなせないということは、自分の無能さを喧伝すると言うことだ。そんなことになるくらいなら、地区出身のやつとだって手を組んだ方がマシだ。そいつがとんちんかんなことを言ってるならともかく、双方協力し合わないとどうしようもないというのも、留学生が顕微鏡を作ってる間に他の人間がマティスを捕まえに行く、というのも、合理的だ。しょうがない」

「でも、……でも。マティスだよ!? 野生の!」

「あんたの親父さんはどうやって捕まえたんだ?」


 ウェルチがポルトに聞いた。ポルトはすごく嫌そうな顔をして、吐き捨てるように言った。


「捕まえられるわけないだろ。相手はマティスだぞ。ラテならともかく、一晩で、こんな人数で、重機も麻酔もなしにだぞ」

「あ、やっぱ?」

「……だが俺は、父から、そういう課題が出るって聞いてきた。カンニングするつもりはなかったが、結果的にはそうなった。ロープとクィナを持ってきたから」

「クィナ?」

「友人も使ってた」とグスタフが言った。「マティスはクィナが大好物だそうだ」

「……だから俺もマティスの方に行く。お前らの施しは受けない」


 低い声で言ってポルトは黙った。リデルは泣き出しそうな顔をしていた。もしかして、と、ラセミスタはやっと思い至った。

 リデルは、マティスが怖かったのかも知れない。

 確かにすごく大きな生き物だ。今ここにいる、馬車を引いてきたマティスはすごく大人しいけれど、大きさとしては馬よりも象に近い。大きな丸い蹄に万一踏まれでもしたら骨折するだろうし、蹴られでもしたら命がない。野生と言うことは、人馴れしていない、ということで。

 か細い声で、リデルは言った。


「でも、でもさ、ポルト――」

「留学生の方にも人手がいるだろ。巣の構成物を盗むなんて、そいつにできるわけがない。顕微鏡で見られるようにサンプル作らなきゃいけないだろうし、微生物を探してスケッチまでしなきゃいけないとか、それこそ一人で一晩でできる仕事でもないはずだ。リデル、お前はそのサンプルを作れ。お前は手先が器用だからそっちの方が向いてる。ミンツも魔法道具作るのは得意だろ。留学生の助手をしろ」

「わかりました」


 ミンツが頷き、リデルは唇を噛みしめた。

 そして言った。


「……アナカルシスの狩人が、留学生を狙ってるって聞いた」

「……」


 ラセミスタは思わず息を飲んだ。リデルの暗い目が、ラセミスタを射貫く。


「巻き込まれるのはまっぴらだ。なんで……何でなんだよ! なんで、なんでっ!? せっかく高等学校に入れたこの年に、なんで留学生なんか来るんだ!」


 悲鳴のような声だった。

 ラセミスタは呆然としたまま、その甲高い叫び声を聞いていた。リデルはますます激昂していく。


「顕微鏡だけ置いて帰れよ! 僕たちを巻き込むな! 僕はフォルート伯爵家の跡継ぎだ、お前なんかとは血の重さが違うんだ!」


 リデルの腕が伸びる。呆然としたままのラセミスタの肩をその腕が突こうとした、そのとき。

 キイッ。甲高い威嚇音と共に、真っ白な生き物がリデルの腕に飛び乗った。

 あの子だ。


「あっ」

「わ――わあっ!?」


 リデルは慌ててその手を振り、真っ白な生き物は空中に飛ばされて羽を広げた。真っ白な翼が空を打ち、ラセミスタはその大きさに驚いた。「なんだ!?」リデルが後ずさり、白い生き物は空中でリデルに向き直った。カッ。鋭い威嚇音。


 リデルは呆然とその生き物を見つめている。ラセミスタはようやく我に返り、後ろからその子に飛びついた。自分の背中に隠そうとしたが、その子は頑としてラセミスタの前からどかなかった。グスタフとウェルチとチャスクが馬車からの視線を遮るように動いた。カッ、カッ、と威嚇音を立てながら、その子はリデルを睨みあげている。


「おい――それ……」


 リデルはみるみる青ざめていく。「それ、」震える口から言葉が漏れた。「それ……っ」


 ラセミスタはその子を後ろに隠そうとするのを諦めた。今さらだし、リデルを脅威と定めたらしいその子は、リデルからラセミスタを守ろうと決意を固めているようだ。こんなに小さいのに、頑としてどこうとしない。

 途方に暮れて、ラセミスタは呻く。


「それって言わないで。その子って言って」

「え、今言うとこ?」


 リーダスタが突っ込んだ。リデルはわなわな震えた。


「お前っ、それが何だかわかってんのか!?」


 こちらに再び踏み込もうとした瞬間、その子がしゃあっと威嚇の声を上げた。翼を精一杯大きく広げ、自分より何倍も大きなリデルを前に一歩も引かない。リデルは叫んだ。


「今っ、今すぐ軍に……っ」

「リデル=フォルート」冷たい声がした。「その生き物がなんなのか、……知ってるんだな?」


 言ったのはカルムだった。リデルは固まった。ラセミスタはつられてカルムを見た。カルムは鋭い目でリデルを見ている。


「し、し、し……」

「……知らないよ」


 リデルの代わりにポルトが応えた。ポルトはゆっくりとリデルに歩み寄った。はああ、と、ため息をひとつ。

 

「俺もリデルも、一度も見たことがない生き物だ」

「そうか」カルムは頷く。

 ポルトは生き物から目をそらしてリデルを見た。

「リデル、時間がもったいない。行くぞ」

「ぽ、ポルト!!」


 リデルが叫ぶ。ポルトは、息を吸った。

 空気が変わった。次にポルトの口から出た言葉は、ひどく冷たかった。


「これ以上つべこべ言うな。フォルート伯爵がどんな人間と付き合いがあって、どんな商品を仕入れるビジネスに加担しているかは知らないし、俺の口出しできることじゃない。でも一つだけ言っとく。カイマン家の人間の目の前で、……あんまり見苦しいまねをするな」


 リデルは青ざめていた。ポルトはまだリデルを威嚇している白い生き物を見、それからラセミスタを見た。ふん、と鼻を鳴らす。


「首都で拾った生き物をもっと生きやすい場所に逃がしてやるってことなんだろ。課題の邪魔にならなきゃ別にどうでもいい」

「って、邪魔にならないわけないだろ!? 留学生に加えて“素”もだなんて!」

「ほんとだよなあ」ポルトは吐き捨てるように言った。「ほんと迷惑な話だよ。もっと早く追い出されてくれてりゃよかったのにな。ほんっと、校長先生が土壇場になるまで班分けがわからないようにされたご慧眼には感服するよ。リデル、この課題の達成条件は何だ」

「えっ?」リデルは虚を突かれたような顔をした。「え……っと、マティスを捕まえて、それから巣の構成物のサンプル採取と」


「そうじゃない。校長先生もあの指導官も、“協調性が試される”“全員で力を合わせろ”とおっしゃっていた。いいか、俺の父の班はマティスを捕まえられなかったが、新学期からの課題取得には何の制限も課せられなかった。その意味がわかるか? ここで留学生から顕微鏡を取り上げて残していったりしてみろ、マティスを捕まえてサンプルを取って完璧なスケッチを仕上げたとしても、減点対象になる。同じ班になった以上、課題が終わるまで一蓮托生だ」


 リデルはうめいた。「そんな……!」


「狩人だかなんだか知らないが、そいつを狙ったりさらったりするなら、課題が終わった後にしてもらおう。操獣法の試験が終わった後なら俺の知ったことじゃない。その生き物についても俺は別にどうでもいい。逃がすんなら好きにしろ。……だいたい」


 ポルトはカルムを睨んだ。

 

「リーリエンクローンが一緒なんだ。命狙われるとか巻き添えとか、いまさらだろ!」


 カルムは目を丸くして、

 それからあっけらかんと笑った。「ひでーな」

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