操獣法(1)
集合時間の一時間前――時刻は夜中の三時。当然ながら、周囲はまだ漆黒の闇だ。
ラセミスタは生あくびをかみ殺しながら真っ暗闇の中に歩み出た。指定の野外服のおかげで寒くはないものの、むき出しの手や顔に当たる風はまだ冷たい。あの子をグスタフに預けられたのは、けがの功名というべきだ。こんな朝早くにあの子を起こすのは可哀想だし、集合時間までの一時間もの間、寒い闇の中で待たせるのはもっと可哀想だから。
集合場所は高等学校の裏門だった。ポツポツ灯った街灯に照らされたそこは、正門の壮麗さとはまた違った、城塞のようないかめしい雰囲気だ。石造りの高い塀が周囲を囲み、ずしりと重そうな門がある。門の前はちょっとした広場のようになっていて、馬車が旋回しやすいように、円形の馬路ができている。
その馬路を囲むように、馬車が五台停まっていた。近くにとても大きな厩舎もある。時間になったらあそこからマティスが引き出されてくるのだろう。
マティスというのは、ガルシア国のあるリストガルド大陸固有の生き物だ。馬より大きく、力も強く、とても賢い。飼い慣らすのは大変だが、一度懐くととても御しやすく、人間のために喜んで働いてくれる頼れる存在になるという。蹄がとても大きく、まるで三つに割れた円盤みたいに大地に轍を付ける。
フェルドが、一度でいいから見てみたい、憧れの生き物なのだ、と言っていたが、ラセミスタにはそこまで興味深いものではなかった。臭いし、大きくて怖いし、魔法道具の方が遙かにわかりやすいし興味深い。だから集合時間の一時間も前にここにやって来たのは、マティスと親好を深めたいからではない。それより遙かに切実な問題があってのことだ。
「おはよう、ラス。君も大変だねえ」
校長先生が出迎えてくれ、ラセミスタはホッとした。校長先生に会えるのは、いかなる時でも嬉しい。
「おはようございます、先生。あの……無理を言って本当に申し訳ありません」
「いやいや、構わんよ。どうせ準備も必要だったからね。札を拝見しよう。……うん、君の馬車は三号車だ」
見ると確かに、札に文字が浮かび上がっていた。3号車、とガルシア語で書かれている。
「君と同じ馬車に乗る者は幸運だね」
校長先生はくすくす笑い、離れていった。ラセミスタは背負ってきたナップザックを地面に置き、中から巾着袋を一つ取りだした。これはまさしくラセミスタの命綱と呼べるものだ。
ガルシアに来たときに痛感したのだ。
馬車は、動道より、空島に向かう昇降機より、遙かに揺れる。
“過去”でアンヌ王妃に用意してもらった馬車より多少はマシ、という程度だ。こんなものに数時間も揺られては、その後半日使い物にならなくなるのは目に見えている。校長先生に頼み込んで、消揺装置を取り付けさせてもらえることになって、本当に胸をなで下ろした。我ながら情けないが、死活問題である。
教官たちは、物資を積み込んだり早めに来る新入生たちを待機させたりするために、一時間前に来ると言っていた。そのお陰でこの装置を装着する猶予があって、本当に幸運だった。ラセミスタはいそいそと三号車にかがみ込んだ。
消揺装置はグレゴリーが作ってくれた。エスメラルダにいた頃、それが不満だった。自分で作りたかったからだ。
自分では、コンパクトな、自分にだけ揺れを感じさせないタイプの簡易版にするつもりだった。それが上手くいっていたら、朝まだきにごそごそ馬車の下に潜り込むような手間をかけずに済んだはずだ。しかし、そう簡単にはいかなかった。一応試作品は作ったのだが、試作の段階を出ていない。グレゴリーがこのタイプを選んだのは、ちゃんと理由があってのことだったのだ。やはりグレゴリーはすごい。
消揺装置を取り付け終える頃、ちらほらと新入生たちがやって来た。
みんな校長先生に札を見せ、割り当てられた馬車の近くに集まっていく。
三号車へは初めにポルトとリデルが来た。ラセミスタは少し緊張したが、二人は完全にラセミスタを無視した。続いてミンツ。ミンツはポルトの手前、ラセミスタに堂々と話しかけることはできないようだったが、ラセミスタを見て微笑んだ。グスタフと、ジェムズと、リーダスタが来て、ラセミスタはホッとした。リーダスタが来ると、周囲は一気に賑やかになる気がする。
「おはよーラス、早いねー」
「おはよう」
グスタフは言いながら、上着のポケットに優しく手を触れて見せた。ポケットは膨らんでいて、あそこにあの子が入っているのだろうとラセミスタは考えた。ありがとう、と微笑んでおく。ジェムズは眠そうだ。おふぁよう、とあくび混じりの挨拶をした。
そこへ、カルムが来た。
昨日のヨルグが言った言葉を思い出す。
――まだ九つの幼き身であられながら、大きな仕事をやり遂げた方だぞ。さすがは王妹殿下のお子だ。
大きな仕事って、何だろう?
九歳というと、十年くらい前のことのはずだ。
また十年前なのか、とちらりと思う。
カルムはまっすぐにこちらに歩いてきて、みんなの前に立った。「お、はよう、カルム」声は少しうわずってしまった。カルムは「おはよう」と言って、頭を下げた。
「昨日はごめん」
「えっ」
「あの近衛になんか言われてただろ。わかってたんだけど……出て行かなかった。ごめん」
あまりにも率直な謝罪に、一瞬うろたえる。
「……カルムが悪いんじゃないでしょ」
「うん、それはそう」カルムは頭を上げて真顔で言った。「でもわかってて放っといたのは事実だから」
「来てたらもっとややこしくなっただろ」
グスタフがそう言い、カルムは、「うん、それもそう」とまた頷いた。ラセミスタは思わず笑う。
「それなら謝る必要なんてないじゃない」
「それもそう、なんだけど。まあでも、言っておくべきかなと思って」
そう言ってカルムは少し照れたように笑った。ラセミスタもつられて笑った。そのカルムの様子を、ミンツがじっと見ていた。何か、信じられないものでも見るかのように。
いつしか、新入生たちもほぼ揃っていたようだった。三号車の周りにはすでに顔見知りになった者ばかりが集まっていて、ラセミスタはややホッとした。首都出身者と地方出身者の割合が、全体を占める割合とだいたい同じになるように調整されたのは明らかだった。首都出身者はポルト、リデル、ミンツの三人で、あとは全員地方出身者だ。ということはつまり、この三人にあの子が見つからないようにだけ、気をつければいいわけだ。
「諸君、おはよう。よく眠れたかな?」
校長先生がいつもに比べれば少々控えめな声で挨拶をした。みんな一斉にそちらに向き直る。
先生は円形になった馬路の中央に立っていた。周囲はまだまだ暗く、街灯に照らされてまだら模様になっている。
「これから操獣法の試験に出発する。諸君らの馬車にはそれぞれ1人ずつ指導官が同乗する。課題の途中で何らかのトラブルが起こり、試験を棄権せざるを得なくなった場合には、全員――または全員の承諾を得た代表者が下山し、担当の指導官を捜しなさい。そこで試験は失格となるが、命の方が大切だからね。レスキューも待機しているから」
校長先生はそう言って、微笑んだ、ようだった。まさかこの山の中にもフルーラとか針猫とかの猛獣を放ったりしてないよね、とラセミスタは思う。
「この試験では、協調性が極めて重要になる。一人で成し遂げられることには限界がある。班で力を合わせて、みんな納得のいく形で課題をクリアすることを期待している。それでは、指定の馬車に乗りなさい。あとは、担当の指導官の指示に従うように」
簡単な挨拶はそれで終わり、ぱん、と手をたたかれて、新入生たちは三々五々動き出した。ラセミスタは馬車に乗り込む前に、車輪に取り付けた消揺装置がきちんと作動していることを確かめた。馬車の中はゆったりとした作りになっていて、外から見た印象よりもはるかにくつろげそうだった。先頭の座席が特に豪華だった。ひじ掛け付きの一人掛けの椅子が二つ並べてあり、奥側の椅子にはすでに指導官が座っていた。その後ろの座席はすべて三人掛けのベンチだ。ビロード張りで座り心地が良さそうだった。
ポルトはさっさと指導官の隣、ひじ掛け付きの特別席に座り、ミンツとリデルがその後ろのベンチに二人で座った。グスタフは一番後ろの座席に座り、しばしの攻防のあと、リーダスタがグスタフの隣を勝ち取った。ウェルチはだいぶ残念そうだったが、しぶしぶグスタフの前に座る。
「ちぇー……いいよなあ……俺もさ……一度でいいから、手の中にさあ……」
ラセミスタはウェルチの隣になった。三人掛けのベンチだけでも五列あるので、この人数だとだいぶゆったり座ることができる。ラセミスタの前にはカルムとジェムズが座り、その前にチャスクが一人で座った。ベンチは柔らかく、座り心地はなかなか良かった。ラセミスタはリュックを枕代わりにして体をもたせかけた。朝早かったから到着まで眠っていけそうだ、そう思ったとき。
「……あっ。ちょっと、」
リーダスタが抑えた声をあげた。
ラセミスタはその時、足の隙間を柔らかな何かがすり抜けるのを感じた。
「……ひゃ、っ……!」
上げかけた声はウェルチの大きな手のひらによって遮られた。ラセミスタの膝に、あの小さな白い生き物が駆け上がったところだった。膝の上でぶるぶると体を振るうと、何も言わずにラセミスタの活動服の裾から潜り込んだ。「!!」くすぐったいが、声は出さずに済んだ。ウェルチの大きな手のひらがまだ顔の半分以上を覆っているお陰で。
「なんだ、うるさいぞ!」
リデルが苛立った声を上げ、「悪い悪いー」とリーダスタが声を上げた。
「いやー、荷物ぶちまけちゃって。ごめんラス、拾ってくれてありがと」
ウェルチの手が離れた。ラセミスタは活動服の腹を押さえた。シャツの内側に入り込まれ、もぞもぞもぞもぞ、と動かれると、ゴージャスな毛皮が腹にこすれてすさまじくくすぐったく、リーダスタに返事をするどころではない。ウェルチがごく低い声で囁いた。
「リーダスタ、何やってんだよ」
「いやー、何もしてないんだ。ただちょっと覗いただけ……なんだけど」
「わかった、わかったからちょっと、動かないで、」
ラセミスタは服の上からあちこち押さえ、なんとかあの子を引っ張り出した。真っ白な毛むくじゃらの生き物は、一言も発しなかった。あの不思議な色の瞳でじっとラセミスタを見、威嚇するような姿勢を取った。ぶわっと毛皮が逆立ち、真っ白なボールそっくりになった。ぴこぴこと背中から翼が飛び出している。
怒っている。
「……ごめん」
囁くと生き物は、翼を震わせた。そうだそうだ、と言っているようだ。
「お昼を一緒に取ろうって約束したのに。守れなくってごめん」
翼が動いて、見えなくなった。まだボールのように膨れているけれど。
ラセミスタは生き物の前に手のひらを広げて見せた。
「……本当にごめん。でもあなたを守るために必要だったんだ。どうか、許してくれないかな」
生き物は、何も言わなかった。ただ、しょうがないなと言うように体を一つ振った。まん丸に膨らんでいた毛皮が少ししぼんだ。ふんっ、と鼻息を一つ漏らして、とことことラセミスタの膝の上を歩いてこちらに寄った。
「ありがとう。ここへどうぞ」
うむ、というように鼻を反らせてから、生き物は大人しく、活動服の上着のポケットに収まった。もぞもぞもぞ、と動き、ポケットのカバーからちょこんと鼻を出し、ふうっ、と息をつく。
ウェルチが固唾を飲んでいるのがわかる。ラセミスタがそちらを見ると、ウェルチは、囁いた。
「……そんな賢いの?」
「うん、すごーく賢いよ。排泄もトイレでしたがるくらい」
「……そんなに?」
どう思ったのか、ウェルチはそう言って黙った。前を向いて、何かじっと考えているようだ。
いつしか馬車が動き出していた。グレゴリーが作った消揺装置の性能は相変わらず最高だった。停まっているときとほとんど変わらない。外はまだ暗いから、景色が移り変わっていく様子も見えない。ただゴロゴロという轍の音だけが聞こえる。
あの子に無事にまた会えて、謝罪もできた。今朝は普段よりだいぶ早く起きたし、馬車の中は温かく、薄暗く、轍の音が眠気を誘う。
ラセミスタは、あっという間に眠りに落ちた。ポケットの中の冷たい柔らかな塊の感触を感じながら。
今からこの子と別れに行くのだ。その事実には、気づかないふりをして。




