二日目 当番(2)
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その日、二人は記録を作った。一日だけで、今まで浄化してきた面積の、実に一週間分に当たる浄化を済ませた。
ステラは感嘆し、ジーンとメイカはまた喧嘩をし、フェルドとマリアラは、本土から飛んできた保護局の調査員に詳しい聞き取り調査をされた。グールド事件の時にも似たような経験をしたが、嘘をつく必要がない分、あの時よりはずっと気持ちが楽だ。
とは言え、魔力を大量に使った一日だったことには変わりない。
日が暮れて仕事を終え、聞き取り調査からも解放され、南大島の休憩所で夕飯を終えると、眠くて堪らなくなってきた。ダメだ、と思う。今日は当番日だ。まだ仕事中なのだ。やっと八時を回ったばかりだ。なのに居眠りなんて、とんでもない。
フェルドはと言えば、普段と変わった様子もない。今日使った魔力はきっと、フェルドの方が格段に多いのだろうに、疲れた様子など微塵もない。本来ならこれからの予定とか今後の浄化作業の方針とかを、打ち合わせておくべきなのだろう。
なのに、頭が全く働かない。
マリアラは顔をこすった。自分を罵倒しながら、何とか意識を保とうとした。魔力を使いきるなんてちゃんとした魔女にあるまじきことだ。自分のペースを把握できないなんてダメだ。仮眠室に行くのはまだ早い、時間までちゃんと起きていなくちゃ。まだ仕事中だし、何だかとても暖かいし、長椅子は柔らかいし居心地がいいし、体調管理ができない未熟――
暖かくて、気持ちが良かった。
すうっと風が通って、マリアラははっとした。いつの間にか、長椅子に横になっていた。柔らかな毛布が上に掛かっていた。休憩所の灯りは一つを残して落とされていて、薄暗い。静まりかえっている。
さっきまでフェルドが座っていた椅子は空で、隣のテーブルに雑誌と、マグカップと、読書灯が置いてあった。読書灯がついていて、マグカップからはほのかに湯気が上がっている。少し席を外しただけのようだ。
マリアラは慌てて起き上がり、きょろきょろした。時計を見ると、十時半。二時間近く眠っていたことになる。――いつの間に。全然気づかなかった。
仮眠を取っていい時間は十一時から六時までだ。三時間近くも一人で待機させてしまった。まさか仕事中に居眠りするなんて、なんてふがいないんだろう。
――と。
きい。
かすかな音と共に、また風が通った。
マリアラは後ろを振り返った。窓が開いていて、そこに。
「……っ!」
藍色の瞳が、ふたつ。
真夜中に近い時間、外は真っ暗で、こちら側も薄暗い。そんな時間にまさか子供が外をふらついているとは思えず、一瞬、お化けだと思った。悲鳴を上げずに済んだのは、その藍色の瞳の持ち主に、すぐ思い至ったからだ。
昼間見た、あの少年だ。
「ど……どうしたの?」
「……」
少年は少し口ごもった。言葉を探すように、前髪をかきあげた。マリアラはそちらに少し近づき、少年の体を見た。
絶句した。
少年の体は、――血でべっとりと汚れていた。
ただでさえぼろぼろだったシャツがななめに引き裂かれて、シャツもその隙間から見える素肌も、赤黒く染まっている。つんと鼻をつく、鉄臭い匂い。
「それ……!」
マリアラが声を上げた瞬間、少年が身を翻した。ケガの割に足が速い。何も言わずに森に駆け込んでいく。大ケガだ。あんな出血で走ったら命に関わる。マリアラは窓枠に手をかけ、ミフが、首元から飛び出した。左巻きの本能が悲鳴を上げている。助けなくちゃ助けなくちゃ助けなくちゃ。
死んでしまう。
「待って!」
後先など考えてはいられなかった。マリアラはミフに掴まって、窓から飛び出した。
*
少年は足が速かった。真っ暗闇の森の中をするすると走って行く。マリアラは全ての操縦をミフに任せて、柄の上に体を伏せてじっとしていた。ミフには暗視機能がついているから暗い森の中でも問題なく飛べるが、あの少年の視力はどうなっているのだろう。
一瞬だけグールドのことを思い出した。炎を振りまきながら魔物にナイフを突き立てて走らせていたあの狩人も、闇の中で自由自在に動き回っていたような気がする。
「待って! ねえ、待って……!」
ミフの機能を通して、走る少年の背中が“見え”ている。少年はどうやらケガをしていないようだと、遅まきながらマリアラは悟った。あんなに血が出るほどの大ケガでこんなに見事に走れたら、それは生き物の範疇を超えている。では、あの血は?
――誰の血なのだろう?
『マリアラ、小屋があるよ』
ミフが発声機能を使わずに知らせてきた。マリアラは“了解”の意思を返した。粗末な掘っ立て小屋に近い建物は、扉が開いていて、少年がそこに駆け込んだのが見える。ほんの数瞬後、マリアラを乗せたミフはそこにたどり着いた。
扉の中は暗い。――いや。
マッチの音がした。ぼうっと揺らめく明かりがついて、すぐに広がり、大きくなった。マリアラはミフの柄を握ったまま、小屋の中を覗き込んだ。血まみれの少年が、古ぼけたランプを手に立っていた。さすがに息を弾ませている。
その足元に、血まみれの子供がもう一人、寝かされている。
ケガ人は、マリアラをここまで誘導した少年と同じくらいの年頃だ。こちらは黒い髪をしていて、同じくらい汚れていた。はあ、はあ、荒い呼吸が聞こえる。血の匂い。汗と脂の匂い。かすかな、饐えたような汚物の匂い。それから、ツンと鼻をつく、覚えのある匂い。
はあ、はあ、呼吸がとても苦しそうだ。
「……助けて」
ランプを持った少年が、掠れた声で囁いた。寝かされたケガ人は意識がない。熱が高い、と無意識のうちに考えた。外傷もひどい。火傷もしている。酷い苦痛だろう。
でも、生きている。
「任せて」
【魔女ビル】を通さない仕事を受けてはいけない――先日思い知ったばかりだが、今は頭に浮かびもしなかった。
幸い制服のままだった、薬などの入った巾着袋はポケットに入っている。飲料水もあったはずだ。光珠を取り出して点けると、ケガ人の状態がもっとよく見えるようになった。
マリアラは顔をしかめた。酷い。
ケガ人が寝かされているのは、床の上に直に敷かれたござの上だ。一応手当はされたらしい。鋏を取り出し、汚れた包帯を切り裂くと、乾いた血が包帯に貼り付いて取れない。唖然とした。ここはエスメラルダだ。子供が大ケガをした挙げ句、こんなずさんな手当を受けただけで放置されているなんて、信じられない。
状態を診ると、ケガ自体はあまり深くなかった。血も出ているが、それほど多くない。右肩からへその上を通って左の脇腹にかけて、一筋の浅いケガが走っていた。何か鋭い刃物で、斬りつけられでもしたのだろうか。他に外傷はない。
ただ信じられないことに、ケガをなぞるように火傷が走っている。
それから発熱と、それに起因する脱水症状。原因ははっきりしている。危ないところだった、と思う。もう少し手当が遅かったら、死んでいただろう。
必要な道具を取り出して飲料水を入れ、数種類の成分を加えて簡単な薬を作った。何はともあれ水分補給だ。
「助かる……?」
少年のか細い声が聞こえた。彼は今、小屋の隅にうずくまっていた。まるで光を避けるように。藍色の瞳が一対、キラキラ光っている。人間と言うより、なんだか獣みたいだ。気高くてとても綺麗な肉食の獣。
経口点滴の準備を整え、ケガ人の口に管を入れテープで押さえる。点滴が開始された時、それを見守る獣じみた少年は居心地悪そうに身じろぎをした。
「大丈夫。助けるよ」
マリアラは少年に微笑みかけ、そして、――没頭した。