休日(3)
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「それは……!」
ヨルグの手にした瓶を見た瞬間、ラセミスタは、ぞっとした。
エスメラルダでリズエルとして様々な魔法道具を作ってきたラセミスタには、よく見慣れた色だった。
【毒の世界】で魔物から身を守るための魔法道具の開発には、〈毒〉からの影響を調べることが不可欠だ。テストのための〈毒〉は、お客さんを救出に行ったラクエルがついでに採ってくる。管理はとても厳重にされていて、いくらリズエルでも、もちろんラクエルでも、絶対に持ち出しはできない。ひと瓶でも行方不明になったりしたら大問題だ。
間違いない。ヨルグが持っているのは、〈毒〉だ。
ちかちかと記憶が頭の中で瞬く。あの生き物にとてもよく似た存在を、かつて見たことがある――そんな漠然とした考えが、一気に焦点を結んだ。
マリアラの手のひらが、あの生き物を作った。
かつてそれを見た。そうだ。大きさがぜんぜん違う、けれど、あの豪奢な毛皮を一度見た。魔法道具を介して。まだ、ラセミスタの中に“人食い鬼”がいた頃。
一年と少し前だ。エスメラルダに放された魔物を、フェルドとマリアラが保護して、地下神殿へ連れて行ったことがあった。【毒の世界】へ逃がしてやろうとしたとき、【魔女ビル】の中から、魔物が現れた。不思議な話し方をする魔物だった。
――ああ、そうだ。
トイレを理解するくらい朝飯前に違いない。
魔物は、言葉を解するのだ。マリアラとフェルドを攻撃しようとしたあの魔物は、人の言葉を話していた。フェルドよりも強大な魔力。地下神殿に吹き荒れた氷の嵐。圧倒的な力の差。
あのとき、フェルドが魔物を水の中に閉じ込めて、マリアラが、その水の力を借りて、魔物から〈毒〉を抜いた。
〈毒〉の抜けた魔物は、真っ白で。翼があって。
あまりに豪奢な、毛皮を持っていた。
「ダメ……!」
ヨルグの手に飛びつく。「何をする!」ヨルグは左手を払い、ラセミスタはあっけなく振り払われた。壁にたたきつけられる寸前で、何か大きなものがそれを止めた。ヨルグが嘲る。
「異国人は異国人らしく自国に引っ込んでいろ」
「……それは何ですか」
ラセミスタが壁にたたきつけられるのを止めた何か大きなものは、グスタフの声でそう言った。ラセミスタは恐る恐る目を開けた。壁にたたきつけられる前に、グスタフが壁との間に自分の体を割り込ませたらしかった。ラセミスタはよろけ、体勢を立て直した。ヨルグはにやりと笑う。
「ただの検査薬だ」
そのまま、栓を抜こうとする。ラセミスタはぞっとした。「だめ――」
「それをよこせ」
低い声がそう言った。
いつの間にか、カルムがすぐそばに来ていた。カルムは激怒していた。目がつり上がっていた。周囲の気温が下がるほどの怒気。
ヨルグが大きな声を上げた。
「これは、――これはリーリエンクローン様! お目にかかれて光栄で、」
「聞こえなかったのか」
とても冷たい声だった。さすがのヨルグも一瞬黙った。ずる賢そうな目が一瞬光り、ヨルグは、後ずさった。膝を折り、身をかがめ、右手を胸に。恭しい姿勢。
「大変申し訳ございません。今、お手元に」
ヨルグは恭順の姿勢のまま、毒の小瓶を左手に持ち替え、カルムに差し出した。カルムの手がそれを受け取る寸前に、するり、と手から落とした。「あっ」わざとらしい声が言った。「もうしわけありません――」
かしゃん。
はかない音を立てて、毒がばらまかれた。
ラセミスタはめまいを感じた。
――信じられない。
周囲は静まりかえっていた。何の騒ぎも起きなかった。
少しして、ヨルグは、「ああ……」と慨嘆した。「申し訳ありません。取り落としてしまいまして」
「――」
カルムは何も言わなかった。ラセミスタは一歩前に出た。
「ど、どうして、こんなもの。浄化するのがどれだけ大変か、」
カルムが左手を挙げ、ラセミスタは口をつぐんだ。カルムはヨルグを睨んでいたが、何も言わなかった。ヨルグは落ちて割れた小瓶に一瞥もくれなかった。カルムの前にもう一度身をかがめ、
「お会いできて光栄でございます、リーリエンクローン家のご嫡男、カルム=トロエ=リーリエンクローン様! 十年前のご活躍をうかがい、なんとか一度、お目にかかりたいと思っておりました。このたびは高等学校へのご入学、おめでとうございます。主席であられたとはさすが、リーリエンクローン家を継がれるにふさわしい才能をお持ちだと、近衛一同、たいへん心強く感じております」
「……」
カルムは何も言わない。冷たい視線。ヨルグへの抗議と拒絶がはっきりわかる、とても鋭い横顔。
「ヨルグ少尉。ご用はお済みかしら?」
凜とした声がカルムの後ろから響いた。優しい手がそっとカルムを導き、カルムは素直に部屋から出た。入れ替わりに入ってきたのはエルザだ。静かな声でエルザは言った。
「朝早くから新入生の一人にいわれのない言いがかりをつけて乗り込んだのですから、さぞ重要なご用がおありでしょう。ラセル、こちらへいらっしゃい。あなたも」とグスタフを招き、「新入生は朝食の時間です。みなさん、食堂へお行きなさい」
それは困る。ラセミスタは、慌てた。
とにかく<毒>を浄化しなければならない。何よりあの子のことが心配だ。この<毒>があの子にどんな影響を及ぼすかわからないし、家宅捜索なんてされてしまっては、さすがに見つかってしまう。必死の声を上げる。
「エルザ、この黒いものは危険です。危ないんです。すぐに浄化しないと。ここでの法律がどうなっているかわかりませんが、焼却と消毒が不可欠なんです」
「それはこの方にお願いしましょう。あなたは心配しなくて大丈夫」
「ラス、行くぞ」
グスタフはエルザに逆らわずに廊下に出ていた。「早く」カルムも囁いた。二人の目配せを受けて、ラセミスタは後ろ髪を引かれながらも廊下に出た。エルザは続いて出ようとしたヨルグの前に立ちはだかった。
「さあ少尉、朝からこんなに騒ぎを起こしてまで押し入った部屋ですよ。どうぞお好きなだけ、家宅捜索とやらをなさったらいかがですか」
「いや、それには及ばない」ヨルグはエルザを押しのけようとした。「用は済んだ。検査薬に反応がなかった。だから……」
「それならば原状回復が筋でございましょう。この汚らしいものを、まさか、このままにして行かれるおつもりじゃないでしょうね」
エルザは一歩も引かない。ヨルグは声を荒げた。
「どかぬか、平民出の女が! ヨルグ家の人間に楯突いて無事で済むとでも思っておるのか!」
「ふふふ」エルザは笑う。「寮への不法侵入、令状なしの家宅捜索。留学生へいわれのない罪を着せ、寮に汚物をばらまいたあげくに寮母への恫喝。お育ちが知れますわね」
「何だと!?」
「この汚らしい薬品とやらをきちんと綺麗に片付けて消毒を済ませるまで、ここはお通しできません。あなたが早朝からここに来たという記録はきちんと残してあります。どうしても新入生を追いかけたいなら、わたくしを突き飛ばしてお進みなさい」
「……!」
「あら残念。寮母への暴力行為が加われば、二度とあなたのお顔を見ないで済むように処置を施すことができたのに……」
エルザは大丈夫そうだと、ラセミスタは思った。あのたおやかで優しい寮母は、きっとこういう事態に慣れている。
<毒>の危険性を知らないのではないか、と言う懸念はあるけれど、ちゃんと『消毒しろ』とまで言っていたから、朝食を済ませた後に本格的な浄化に入っても大丈夫だろう。
グスタフに追いついた。ラセミスタはグスタフを見上げて、囁いた。
「あの、ありがとう、さっき」
グスタフがこちらを見た。「さっき」
「そう、あの、壁にぶつかるところ助けてもらって。痛くなかった?」
「痛くはなかったが……後でちょっと聞きたいことが」
「聞きたいこと?」
「後でいい。とにかく今は、朝食に行こう。あの子なら大丈夫だ。リーダスタがうまくやったんだ」
階段を少し降りたところでカルムが待っていた。先ほどの冷たい顔立ちの余韻が残っていて、ラセミスタは身震いした。
「カルム。あの人、あんなものどこで手に入れたんだと思う?」
囁くとカルムはラセミスタを見た。探るような目。
「……ラス。あの黒いものが何なのか、知ってるのか」
「知ってるよ。あんなもの……あんな恐ろしいもの、まさかガルシアではその辺で買える、なんて、言わないよね? あの人一体何しに来たの? 家宅捜索なんて、初めからする気はなかったってことだよね」
あの人は、<毒>をばらまきに来た。
ラセミスタには、そうとしか思えなかった。
以前、マリアラが、“アシュヴィティアの信者”に会ったと言っていた。フェルドと相棒になったばかり、記念すべき初出動の日。海流に乗って、エスメラルダからの脱出を図ったという、“すっげーレア”な自殺志願者。あの人は左巻きの魔女を道連れにしようとした。フェルドが船から蹴落として事なきを得たが、理解不能の狂信者に初っぱなから遭遇するなんて運が悪かった、と、ディアナに言われたと言う。
ディアナは、“アシュヴィティア”を<毒>のことだと言ったそうだ。
アルスタット=ヨルグと名乗った、ガルシアの軍人は、アシュヴィティアの信者なのだろうか。ラセミスタが今まで知らなかっただけで、アシュヴィティアの信仰は、かなり広まっていると言うことなのだろうか。ヨルグは言いがかりを付けて部屋に乗り込み、毒の入った小瓶の蓋を開けた。たぶんあの人はカルムより身分が低く、カルムの“よこせ”という命令に逆らうことはできなかったのだろう。渡すふりをして、取り落とした。あれこそがあの人の目的だったとしたら。
カルムは少し考えた。そのまま階段を降り始める。ラセミスタと、グスタフも黙ったままその後を追った。
ヨルグはカルムを見て目の色を変えた。入学式での様子を見ても、カルムが、ああいう風に扱われることを望んでいないことは明らかだった。なのに、敢えてヨルグの前に現れた。<毒>を放っておくことができなかったからだろう。カルムはことの重大さを理解しているに違いない。
<毒>は人体に入ったら大変だ。ここの魔女はイリエルだから、匂いを嗅がせるだけで魔女を捕らえたり殺したりすることができる、魔女にとっては極めて危険なものだ。しかしここで問題なのはむしろ、その入手が非常に困難である、という点だ。<毒>は本来、【毒の世界】にしかないはずなのだ。狩人がどこから入手しているのかは不明だが――ヨルグはいったい、どうやって手に入れたのだろう。
昨日聞いた、“アナカルシスのスパイ”という言葉が、またひとつ、真実味を帯びた。
ヨルグは、狩人とつながっているのだ。――それ以外に、考えられない。




