二日目 当番(1)
二日目の朝が来た。
今朝は曇りで、昨日よりかなり寒かった。出勤前にマリアラは、支給されたばかりのコートを羽織ってきた。軽くて、とても温かい。よく眠ったから疲れも取れて、元気いっぱいだ。
今日は当番日だ。南大島の休憩所で、ひと晩過ごすことになる。
人を救出するシフトに入っているマヌエルは、週に二日ほど当番勤務がある。朝九時から翌日の九時までの二十四時間を、制服を着たまま過ごさなければならない。夜間に出動がなければ眠れるし、結構自由に過ごせる。前の二週間もダスティンやジェイドと当番勤務をこなしたが、出動があったことは一度もなかった。
だから、と、マリアラは考えていた。昨日ヒルデはマリアラの身を気遣って、当番日である今日は昨日よりもっとペースを抑え気味にすべきだ、と言ってくれたけれど、でもやっぱり、今日もできるだけ浄化を進めなければ。昨日までと同じように。歩みは遅々としている。浄化は〈毒〉の浸食より遙かに早く進んでいるが、それでも、全ての浄化を終えるまでにまだ何ヶ月もかかる。その間、ラクエルたちが通常のシフトと森の浄化と、両方にかり出される日々は続く。少しでも先に進まなければ。目の前の課題をひとつずつ片づけていけば、いつかは終わりが来るはずだ。
――ところが。
今日の仕事は、いつもと違った。それも、画期的に。
「ちょっと試してほしいことがあるんだ」
司令部での手続きを済ませ、仕事を始めるやいなや、フェルドはそう言った。二人が立っているのは昨日仕事を終えたちょうどその場所だった。森の中は相変わらず静まりかえっており、何の音もしない。
「試す――何を?」
「昨日ミランダに聞いたんだけど、匂い嗅いだだけで倒れるくらい毒に弱いレイエルが毒抜きやっても平気なのは、毒を抜く前にまず、水でくるむからなんだってさ。患者の回りをね、――こうやって」
三日月湖から水が飛び出した。マリアラは呆気にとられた。三日月湖はかなり広い湖だが、その水位がわずかに、でも確かに目に見えて下がったのだ。見る間にマリアラとフェルドの目の前に、そびえ立つ水の固まりができた。――まるで水族館の巨大な水槽だ。ただし、魚はいない。中に入っているのは灰色にくすんだ木だけだ。
その幅およそ十メートル。奥行きも同じくらい。高さは木々の梢がすっぽり入るくらい。こんな量の水を一度に操るなんて、見たことも想像したこともない。
「で、水に協力を依頼する。中に入ってる毒を排出する手助けをして欲しいって――それに効果があるかどうかは他のやり方を知らないからわからない、って、言ってたけど」
「昨日話してたのって、それだったんだ……」
「うまくいくかどうかわかんないけど、ちょっと試してみて。一本一本やるよりは楽かもって、思って」
それが実際、楽、どころの話ではなかった。
協力する気満々の水は扱いやすく、樹木と土壌に含まれる水と呼応し合い、中に溜まっている〈毒〉を排出せよ、というマリアラの意思を易々と隅々まで行き渡らせた。大地からも樹木からも、毒がごそっと取れた。それも、ほんの数秒で。
「す、ご……い!」
「おおー」
フェルドも感嘆の声を上げた。水の中に、樹木と土壌から漂い出た毒がもやもやと揺れている。すごいすごいすごい! とマリアラは思った。何というか、快感だ。ずっと放っておかれた排気ダクトのフィルタに掃除機のホースを宛がうときと、少し似た喜びだ。真っ黒だった汚れが、ごそっと取れる、爽快な、あの感じだ。
「すごいすごい、これすごい! ありがとう……!」
「いやこれ、想像以上にすごいな」フェルドも嬉しそうだ。「水から毒排出すんのはさ、水だけ別の場所に移動させるって考えればできそうだよな。それは俺やるから、どんどん行こー」
「すごいすごい、すごい捗る……! わああ……!」
マリアラはまだ興奮が収まらない。広い範囲を、一度にできる。しかも使う魔力は今までよりもかなり少なくて済む。薬を作るときと同じだ。対象に魔力を行き渡らせる部分を、フェルドの水が肩代わりしてくれる。
皆がこのやり方を取り入れたら、予定より遙かに早く森の浄化を終えることができるのは間違いない。マリアラがあんまり感動しすぎたためか、その後しばらくして、騒ぎを聞きつけたラクエルのペアがやって来た。今日の日勤はメイカとジーンだ。ダニエルたちより年下で、二十代の前半と聞いている。
二人はジェイドの【親】で、メイカ(女性)が右巻き、ジーン(男性)が左巻きだ。とてもとても仲が悪い、とジェイドから聞いてはいたが、確かにそのとおりのようだった。二人とも、水を使うという新しいやり方を喜んでくれたのは確かだが、それを早速喧嘩の種にし始めた。ジーンはこれ見よがしにフェルドを褒め、誰かさんはそんなこと全然思いつきもしなかったよな右巻きのくせに――と遠回しにそして直接的にメイカを責めた。憤慨したのはメイカだ。ふざけんじゃないわよあんたみたいな傍若無人で思いやりのかけらもない左巻きのために新しいやり方なんか思いつくわけないでしょあんただってベテランのくせに思い至りもしなかったじゃないレイエルと付き合ってるくせに! と言い返し、ジーンはジーンでああそうかよ上等だぜちッホントに全然可愛げのない女だよなお前の力なんか誰が借りるかだいたいお前みたいながさつな女となんで組まなきゃなんねーんだよやってられっか! と言い返し、マリアラは仮魔女時代のジェイドの苦労に思いをはせ、フェルドはその間に水から取り出した毒を鉄のバケツに入れて焼いた。めらめら、と炎が上がる。耐熱手袋を嵌めた手でまだ炎を上げるバケツを持ち上げ、
「よーし次行くぞー」
「え、え、でも、でも」
「いーからいーからほっといていーから。気が済んだら仕事に戻るだろ。いつもそうなんだよ、付き合って疲れるだけ損だから」
フェルドはさっさと歩いて行く。元どおりの透明さを取り戻した水の固まりは、しずしずとその後をついていく。まるで忠実で巨大な、犬か何かのようだ。マリアラはまだ一歩も引かずに喧嘩を続ける二人の先輩に背を向け、そそくさとその場を後にした。確かにあれは、気が済むまで放っておくしかない気がする。
「相棒なのにあんなに仲が悪くて、大丈夫なのかな……」
思わず呟くと、フェルドは唸る。
「いやあれ、実は仲いいんじゃないか」
「そ、そう!?」
「まあ色んな相棒がいていいんじゃないかな。スージーとリューイなんかもあんまり仲良くないよ。仕事は普通にするけど、本当に仕事だけのつきあいって感じかな」
マリアラが良く知っている相棒同士はララ・ダニエルのペアと、ヒルデ・ランドのペアくらいだ。二人ともとても仲が良く、仕事だけでなくプライベートでもとても親密だった。だからかもしれないと、今さら思い至った。リンに諭してもらうまで、相棒を宛がわれる日が怖くて怖くてたまらなかった。ララとダニエルのような関係を築かなくてはならないと、無意識に思っていたのかも知れない。
でも、そんなわけないのだ。マヌエルだって人間だ。仲良しもいれば険悪な仲もある。ジーンとメイカのような関係でも、仕事はきちんとこなしている。
振り返ると二人はまだ口論を続けていたが、その内、どちらからともなく箒に乗って、自分達の持ち場に戻っていった。もちろん、メイカが水を呼び寄せて、ジーンがそれに助けられて毒の浄化を進めるのだろう。あんな状態でも何とかうまくいっているなら、マリアラの相棒が例えダスティンに決まろうとも、その内うまく仕事をこなしていけるようになるだろう――たぶん。
――左巻きはさ、右巻きの後ろに隠れるくらいでちょうどいいんだ。
初日にダスティンに言われた言葉を思い出し、また少し落ち込んだ。
――あの時、フェルドの後ろに隠れてたもんな。いや、あれでいいんだよもちろん。〈壁〉から魔物が溢れ出てきたんだ、そりゃあ怖いよなあ。
言われたときには、意味がわからなかった。
リンを助けるためにフェルドが【壁】に穴を空けたとき、マリアラは物理的に後ろに押し流されるフェルドの背中を支えるために彼の後ろに回った。少なくとも自分ではそのつもりだった。どれほど役に立てたのかはわからないけれど。魔力を行使し続けるフェルドの疲労を和らげ緊張をほぐし、精神的圧力が彼の肉体制御に悪影響をもたらさないよう力を添えたつもりだった。これも、どれほど役に立てたのか、今となっては自信が持てない。
ダスティンはそれを、恐怖のあまりマリアラがフェルドの後ろに隠れたのだと思っていた。
怖かったんだからしょうがないよ、と、慰めの言葉までくれた。
つくづく、思い知る。――魔力が弱いという事実は、そこまでわたしという存在を誰かに侮らせる要素なのだ。
どうしよう。どうしよう。最近、考えるといても立ってもいられなくなる。魔力が弱いことがこんなにも情けなく悔しいのは、ダスティンの言葉を思い出すからだ。弱くてすぐに疲れてしまうという事実があまりにも悔しい。そんな侮りを受けても口をつぐんで俯くしかない自分の弱さが、あまりにも歯がゆい。
ダスティンと相棒になったら、そんな歯がゆさと悔しさを、日ごとに思い知らされるのではないか。そう思うと足が竦んでしまう。ジェイドやフェルドのような人と組む仕事のやりやすさを体験してしまった今では尚更のことだ。メイカみたいに、あるいはジーンみたいに、正面切って罵ることができたらどんなにいいだろう。わたしはもしかして頭の働きが鈍いのではないか、そう思わずにはいられない。胸に湧いた悔しさの源をすぐに突き止め、的確に相手に伝えることができたなら、こんな風に胸にため込んで足がめり込むような重さに耐えなくても良くなるのに。
がさ。
右手の方で、音が鳴った。
ちょうど水の固まりを新たな汚染箇所に解き放っている最中だったので、フェルドは気づかなかったようだ。少し離れていたマリアラには聞こえた。振り向いたその先にいたのは、薄汚れた少年だった。
十歳に満たないくらいの、小柄な男の子だ。汚れていてわかりづらいが、とても可愛い子だった。藍色の瞳がキラキラ光って、マリアラをじっと見ている。衣類がぼろぼろで、サイズが合っていない。靴は履いていたが靴下は見えない。靴のつま先が破れて、裸足の爪が覗いている。
「あなたは――」
誰、言いかけたとき、男の子はさっと身を翻した。呆気にとられるほど早かった。あっという間に彼の姿は木陰に紛れて見えなくなった。
「誰かいた?」
フェルドに問われ、マリアラはそちらに行った。今は仕事中だ。集中しなければ。
「うん、男の子がいた」マリアラは最後に少年の消えた方を見た。「誰だろう、あの子。なんだかとても」
「……とても?」
傷ついてるみたいだった。
残りの言葉を飲み込んで、マリアラは水の塊に向き直った。
浄化に集中しながらも、でも、頭のどこかで、藍色のキラキラした瞳が気になって堪らなかった。
野生の獣だけが持つような、気高くて、とても綺麗な色だった。