地図作成(4)
「今度はうーん、……パフェ!」
瞬く間に、両手の中に小ぶりのパフェが現れた。ラセミスタはじっとそのパフェを見た。大きさこそ小ぶりだが、中に入っている様々な構成物は、いつかマリアラと一緒に堪能したあの喫茶店の特製パフェ・デラックスととても良く似通っている。
なるほど、『パフェ』と考えるだけだと、ラセミスタの記憶の中にあるものがここで構築されるらしい。
と、言うことは――
「そっか、端末、作ればいいんだ」
再び地面をこねる。そこに現れたものはやはりラセミスタの愛用の、折りたたみ式の端末だった。グールドが【魔女ビル】に乱入したあの事件の時に、イェイラの起こした洪水によって流されてしまったあの端末と、そっくり同じスペックのもの。前のものとそっくりになるよう、特注したのだ。外見もそっくり同じにしてもらった。使い勝手も以前と全く変わらず、ラセミスタのリズエルとしての活動を支えてくれた、エスメラルダからの長い旅路をはるばる一緒にガルシアまで来てくれた、“相棒”と呼んで差し支えないもの。
それと寸分変わらぬものが、今ここにあった。
ということは、おそらくここでラセミスタが“工具”を出そうと思ったら、いつも持ち歩いている、フェルドとマリアラがくれた専用ポーチに入った、あの親しみ深い工具と同じものが現れるのだろう。アルゴー教官の想定どおりにこの中を探し回ったら、きっといろんな食べ物や飲み物が隠されているのだろうが、その外観や味は(特別に定義されていない限り)この中にいる人間の記憶に左右される、ということだ。“パン”を見つけたら、その人が一番親しんでいるパンが出てくるのだろうし、干し肉を見つけたら、その塩加減や味はその人が幼い頃から慣れ親しんできた味わいをしているのだろう。合理的だと言える。この魔法道具はあまりに複雑だ。これほど複雑なものを完璧に作動させるには大変な労力と動力がいる。それなら、出現させる様々なものの色や味、堅さ、感触などを細かく定義するよりも、受験者の記憶に頼った方が安全だし効率的だ。“パン”を見つけたら、受験者が勝手に味や感触を追体験してくれるのだから。
そっかそっかー、と思いながらラセミスタは、とりあえず端末を横に置き、小ぶりなパフェを食べた。美味しい。
「ああこの魔法道具いいなあ……これきっとエスメラルダですごい流行すると思う……」
この中でなら、甘いものをお腹いっぱい食べても太ることはないのだ。コオミ屋の内装を再現して、美味しさと感触を疑似体験することができたら。ダイエットなんか気にしないでいいし、夜ご飯が食べられなくなることを心配する寮母に叱られる心配もない。データを調整して、満腹感を感じにくくすれば、コオミ屋の新作を全て試してみるということだってできるようになる。コオミ屋に実験協力をお願いできないだろうか。もっと軽量化してコンパクトにすれば、将来的には店内で、新作のケーキを一口味見すると言うサービスに利用できるかもしれない。食べてみて、気に入れば本物を注文すればいいし、気に入らなければ別のものを注文する、という風にも使える。新作のケーキが出るたびにデータを送ってもらえれば、ラセミスタもガルシアに居ながらにしてコオミ屋の味を楽しめるようになる――
考えるうちにパフェはすっかり空になった。
このまま、次々に甘味を出現させては味わいたい、という、かなりの欲求を感じる。
しかしダメだ。今は試験中なのだ。甘味にうっとりしている場合ではない。
肌寒かったのでまた地面をこね、上着を作った。ラセミスタがガルシアに来てから愛用している、軽くて裏打ちがふわふわの室内着が現れた。それを羽織り、ラセミスタは端末を開いてコードを地面に差し込み、ぱたぱたたたき始めた。端末のお陰で、この魔法道具を構成する命令を全て文字として読み解くことができるようになった。膨大なデータに、うっとりする。
この中に存在する地図データを図面化してプリントアウトすれば、“完璧な地図”さえ書き上げることができると言うことに途中で気づいた。
しかし、それはあまりに卑怯だ。ラセミスタの誇りにかけても、そんなカンニングのようなことをするわけにはいかない。あくまで、この部屋の仕組みを解き明かし、もっと改良する方策を提案する。そちらに専念するべきだ。
廃墟と、その奥に広がる森林はとても広大に思えた。もしここが本物の世界で、自力で地図を描かなければならないのだとしたら、ラセミスタには手も足も出なかったはずだ。
しかしこの部屋を構成するデータ量はもっともっと広大で、緻密で、精密で、美しかった。これを熱処理だけで作ったと言うことは、大勢の職人が、協力し合い、連携し合って、慎重に慎重を重ねて積み上げ、魔力を練り結晶を練り、情報を組み上げたと言うことだ。途方もない気配りと慈愛を感じる。高等学校生を教え導こうとする先生方の情熱。そのための力量を測り、優秀な若者の将来に傷を付けることのないよう細心の注意を払って練り上げられた構造物。なんてすごいの。データの海に浸りながらラセミスタは陶酔した。
魔法道具に向き合うこの真摯な情熱と覚悟を、我が身に刻みたい、と思った。
しばらくして。
用紙に数々の数式や考察を書き付け、またデータに戻る、と言う作業を延々と繰り返すうちに。
――なんだこれ。
それに気づいた。
廃墟の外、少し離れた空に浮かぶ、微動だにしない大きな影。
生き物だ。
――うわあ……
その生き物のデータを読んで、ラセミスタは苦笑した。なんとなんと。これはこれは。
それは、ある一定の時刻になると動き出すように設定されていた。だから、今は部屋の“外”に眠っていて、その時刻を待っている状態だ。巨大な双翼類。“フルーラ”と名が付けられているが、それが現実に存在する生き物なのか、それともガルシアに古くから伝わる伝説の生き物なのか、その辺りはラセミスタにはわからない。広げた翼の先から先まではラセミスタの身長の五倍はあるという、本当に巨大な生き物だ。獲物をつかんで運べる大きなかぎ爪を持っており、ラセミスタひとりくらい易々と運ぶことができるだろう。
獲物を突き刺し引きちぎる、鋭いくちばし。とても気が荒く獰猛で攻撃的、とデータにある。ラセミスタはじっとその巨大な生き物を見て、それが動き始める時刻を刻むタイマーをオフにした。どうかそのまま、永遠に眠っててください。設定されていた時刻は日没の一時間前だ。まかり間違って動き出したりしないよう、その生き物とこの部屋の接続を念入りに解除しておく。
さっきはこのデータ構築網に先達としての限りない慈愛を感じたが、その印象は誤りだった。いや誤りとまでは言わないものの、不十分だった、と印象を改める。
その生き物からは、絶対に満点など取らせてたまるかという、アルゴー教官の確固たる意思が感じられた。――これは悪意と呼ぶべきものだろうか。
*
暗闇の中で丸く光る二つの目は、とても大きかった。瞳だけで、グスタフの頭くらいもありそうだった。
瞳孔が縦に細長く、ネコ科の生き物を連想させる。ぐるるるる……低い低いうなり声も聞こえる。グスタフは、その生き物から目を離さないまま手探りでリュックと槍を取った。
冗談じゃない、と思った。
アルゴー教官は何を考えているのだろう。“本当に死ぬことはないから安心して”と助手は言った。確かに今は魔法道具の中にいるのだろうし、死ぬことはない、の、だろう。しかしこれは試験のはずだ。学生の力量をはかるための。もう少し穏便なはかり方はないのか。もう少し獰猛じゃなく大きさも控えめな生き物でも良かったのじゃないか。丸腰の身には、オオカミ一頭だって充分な脅威なのに。
木々の間から覗いているのは目だけではない。たき火と光珠の明かりを受けて、キラキラ反射するものが見える。漏れる光の反射から大きさを推し量るに、うずくまった体勢でもグスタフの身長より高い位置に背中の盛り上がりがある。ぐるるるる、低いうなり声と、ここまで音も立てずに忍び寄ったこと、体毛が光の反射でキラキラ光るという特徴も考え合わせると、これはリストガルドの最奥にしか生息しない、針猫と呼ばれる生き物である可能性が高い。
針猫である。
殺す気か。
成獣は、大きいものだと体長5メートルを超すという。体の大きさに見合わぬ身のこなしで、獲物に音もなく忍び寄る。その名のとおり、全身を針のような体毛で覆われている。前足に鋭い爪。足も速い。嗅覚も鋭い。アルゴー教官は絶対にこちらを殺す気だ。地図を完成などさせてたまるかという、確固たる意思を感じる。やめてほしい。
グスタフはリュックの中から手探りで瓶を取り出した。見つけたとき、調味料にしてはずいぶん大量に入っているな、と思った。保存食でも作らせるつもりかと思うくらいの量。
どちらの瓶がそうか確かめる余裕はなかった。瓶を外に出し、手探りで蓋を開け、空の革袋に詰める。口はわざと締めないでおく。匂いで正解だったことがわかる。リュックの口を閉めて背負うまで、針猫は動かなかった。革袋を槍の先端にぶら下げる。ビニール袋に入れた光珠を持ち上げたとき、針猫のうなり声がやんだ。
来る。
そう思ったときには針猫はすでに跳躍していた。ばきばきと枝やトスロが折れる音が遅れて届いた。カッと開いた口。鋭い牙。明確な殺意。いや殺意などという上等なものじゃない。あいつにとってこれはただの食事だ。
グスタフは槍をしならせて、針猫の口の中に革袋を投げ込んだ。
恐ろしい悲鳴が上がった。革袋の中からあふれ出た胡椒の香りがここまで届いた。横に転がって針猫の着地を避け、光珠をビニール袋ごと針猫に投げつけた。ビニール袋が針猫の背中に引っかかる。砂の上でのたうち回っている針猫を避けて必要なものを回収し、森に駆け込んだ。ぎゃおお、ぎゃおお、針猫の悶絶する声が遠ざかっていく。
申し訳ない。気の毒なことをした。しかし恨むならアルゴー教官を恨んでほしい。
ふつふつと腹が立ってきていた。生来の負けず嫌いに火が付いていた。地図作成の試験なのに地図を完成させるつもりがないとはどういうことか。こうなったら絶対に地図を仕上げてやる。
残るは、森の南半分だけだ。
残る光珠はふたつ。これをなくしたら地図を書けなくなる。グスタフは空を見上げ、木々の隙間から星を探した。アスモス大湖の大まかな緯度と経度から導き出すと、真夜中まであと五時間程度といったところだろうか。地図を完成させるにはギリギリの時間だが、針猫が胡椒の後遺症から抜け出すには充分な時間だろう。大量の真水もあることだし。
今まで身につけてきた作業着を脱いだ。この森が全て魔法道具が作り出した幻影ならば、梢や枝に引っかかれる程度の傷は無視すればいいだけの話だ。“意識を失えばそれで試験は終了だ”と助手が言っていた。つまりこの状況では、復活した針猫に殺されない限り、試験は真夜中まで継続する。
着ていた作業着は、森の一番北の端、ツィスの木が宝物を隠していたところへ持って行き、そこに置いた。戻る途中で残っていた干し肉を削りながらその辺りにばらまき、他にも針猫が好みそうなパンや粉末スープなどをばらまいて、なるべく針猫にとって北半分の方が魅力的なように仕立てる。その後、辺りに無数にあるトスロを手当たり次第に根元から切り、中の緑臭い液体を次々に頭からかぶった。靴や、初めに着ていた簡素な綿の衣類にもしみこませる。針猫の鋭い嗅覚をどれほどごまかせるか疑問だが、やらないよりはずっとマシだろう。針猫は身体能力が高く嗅覚も鋭いが、知能はそれほど高くなかったはずだ。これでごまかせると、信じるしかない。
準備が整った。針猫の悲痛なうなり声はもうだいぶ落ち着いてきている。
南半分は、今まで以上に宝の宝庫だった。次々に宝物が現れて、その都度地図に記さなければならない手間が惜しいくらいだった。匂いを出すわけにはいかないから、見つけたものはほとんど手つかずのまま放置しなければならなかったが、樹木の梢に引っかけられていた革張りの上等な上着とズボンだけはありがたく拝借する。じりじりと焦燥が肌を灼く。真夜中まで、もしくは針猫が気を取り直して(もしくは復讐の念に駆られて)こちらに来るまで、後どれくらいの猶予があるのだろう。地図を描き上げたら殺されても構わない、本当に死ぬわけではないのだからと、自分に言い聞かせようとするが、できれば五体満足のまま真夜中を迎えたいと思うのは人情である。
あと少し。
あともう、ほんの少し。
必死になって、周囲の樹木や植生の特徴を書き付けながら先へ先へと進むグスタフの目の端に、かすかな光が見えた。グスタフは敢えてそちらに目を向けず、正方形であるはずの部屋の、南西に当たる角へ向けて走った。地図はもう、本当にもう少しで完成、と言うところまで来ていた。今までの経験からすれば、角に当たる場所にはツィスやオレンジ色の背嚢のように、何か特徴のあるものがあるはずだ。
音もなく忍び寄る光が目の端にちらつく。針猫の背中にさっき投げつけた光珠が、樹木の隙間から覗いているのだ。かすかに、しゅう、しゅう、という、針猫の喉の奥から漏れる音も聞こえている。鈴でもあれば良かったのだが、ここでちりんちりんと鈴の音が忍び寄ることを考えるとホラーすぎて心臓に悪い。グスタフは“部屋”の南西の角にたどり着き、そこにあった、ひとつの女神像を見た。
女神像は木彫りで、少々朽ちてはいたが、その慈愛に満ちた微笑みはまだ残っていた。女神像に手を伸ばすと、先ほどのツィスと同じように手が素通りした。下に、やはり宝箱が置かれていた。中身を確かめる暇は――
ぐるるるるる。
かすかなうなり声。グスタフは背嚢を下ろし、中から瓶をつかみだした。胡椒の入っていた壺と対になった、塩入りの大瓶だ。蓋を開け、右手に握った。塩がたっぷり入ったガラスの瓶は、右手に確かにずしりと重い。
しゃあっと針猫が攻撃音を立てて木々の隙間から顔を突き出す。グスタフはその光に向けて、塩の瓶を投げつけた。がつん。重い痛そうな音と共に塩がぱっと飛び散り、ぐああああお、針猫の悲鳴が上がる。
猶予がどれくらいあるのかはわからない。しかし、地図を完成させずに殺されるわけにはいかない。
グスタフは手に触れない女神像の下から箱を引きずり出し、箱を開けると同時に画板を引き寄せた。鉛筆が逆さまだ。握り直す。箱の中にはこれまた無駄に豊富な食料がぎっしり入っていた。クィナの実とオレンジ、チーズと干し肉と練り粉、ミルクの入った革袋。干し肉はすぐさま針猫に投げた。ミルクの革袋も。しかしグスタフを完全に敵と定めた針猫は、それらのものに気をとられはしたものの、グスタフを殺してからゆっくり堪能すれば良いと判断したらしかった。合理的な判断と言える。
針猫の鋭い爪が振り下ろされる寸前に、グスタフは箱に入っていた最後の品物の名を地図に書き付けた。母親が作るものにそっくりの、平べったい形のパンだった。中に甘辛く味付けした細切れ肉を炒めたものが入っていることはすでに疑いようもなかった。針猫の爪が食い込む寸前にグスタフが考えたことは、なぜ母親の得意料理がこの箱の中に入っているのかと言うことと、せめて一口だけでも食べてから殺されたかった、という、ことだった。




