表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
ラセミスタの留学
422/781

地図作成(2)

    *



 グスタフが扉を閉めると、さあっと空気が流れた。

 そこはどこまでも真っ白な、何もない空間だった。


「……なんだここ」


 こんな場所の地図をどうやって書けというのか。

 と、足元がいきなり崩れたような気がして、大きくたたらを踏んだ。どこからともなく水が押し寄せ、とっさに息を止めて目を閉じる――


 いきなり。

 水が消えた。


 ふと気づくと潮騒が聞こえていた。グスタフは目を開け、そこがすでに屋外であることに気づいた。呆気にとられて、辺りを見回した。外側から見たときには、絶対にこんな広さはなかったはずだ。


 そこは森の中だった。ツタや梢が絡み合った深い森の、切れ目付近のようだった。正面の木々の隙間から、キラキラきらめく水面が見えていた。潮騒も聞こえることだし、おそらく海だろう。


 それにしても暑い。気温が結構高い。グスタフは自分を見下ろして、服装が変わっているのを見た。簡素な綿のシャツに、簡素な綿のズボン。かろうじてポケットは縫製されていたが、ほとんど部屋着と大差ない。裸足にサンダル、以上。森の中を歩き回って地図を描くにはあまりに心許ない装備だ。ポケットを探ってみた。ナイフもない。落ち着かない気分になった。ミンスター地区では子供はみんな五歳になるとナイフを渡される。それ以来ナイフを身体から離したのは、先日の入学試験の時だけだ。


 仕方がない。郷に入っては郷に従うしかない。ナイフも靴も、筆記用具も紙もないが、なんとかやってみるしかない。


 海に向かって歩き出すと、森の終わる辺りに、画板が落ちていた。製図用紙が三枚と、鉛筆が一本挟まっている。少しホッとした。中にあるものを使え、必要なものはちゃんと隠してある、とアルゴー教官は言っていたが、これで他の必需品も存在しているのだろう、という希望が持てた。必需品にはナイフも含まれると、アルゴー教官が考えてくれると良いのだが。


 ――あいつ大丈夫かな。


 画板を拾って、とりあえず海に向かって歩き出しながら、そう考えずにはいられなかった。あの風変わりなエスメラルダからの留学生は、森の中を歩き回って地図を描いたことがあるだろうか。

 あるわけがない気がする。

 森の中どころか、町中もろくに歩いていないのでは、と思わせる程度の筋肉しかなさそうだ。


 昨日の、オキリニギラヘビに睨まれていた様子を思い出す。オキリニギラヘビはこの大陸ではありふれた蛇で、森を歩いたりするとかなりの確率で出くわすから、幼いうちからみんな扱い方をたたき込まれるものなのだが、ラセルはどうやら実物を見たのは初めてのようだった。それどころか、そもそも実技試験があるということさえ知らなかった。


 ポルトたちの意見に同意するのは業腹だが、“薬草学の試験で白紙提出”というのは、ありそうなことだとグスタフは考えていた。そもそも薬草学の実技試験である。全くカリキュラムの違う国と文化で育った人間が、何の下準備も予備知識もなしにいきなり薬草を採取しろと言われては、手も足も出なくても不思議じゃない。エスメラルダに同じ薬草が生えていなければ、見分けるだけだって相当大変だ。


 それなのに、ラセルの元気さが不思議だった。昨日の試験が上手くいかなかったことは彼もわかっているはずだ。その上初日から侮られて寝室に乱入されかけるという歓迎まで受け、故郷のバックアップもほとんどなく、首都出身者と地方出身者の軋轢の間にさらされて。嫌気がさしても仕方がない状況だと思うのだが、あいつは一向に逃げたり怒ったり嘆いたりする様子を見せない。


 どう見ても男に見えない。年齢もグスタフより少し下らしい。だからどうしても、妹を思い出さずにはいられない。もし妹――シャティアーナがこの学校に来て、初日から寝室に乱入されたりしたら? そう思うとぞっとする。兄としては、相手にただペンキとシリコン素材を浴びせるだけでは絶対に済ませられないし、シャティアーナの恋人であるギルファスが近くにいたなら、半殺しにして山奥に捨てるくらいのことはする。それほどのゆゆしき事態である。なのにラセルは怒るどころか相手の退学を憂う始末だったのでさらに心配になる。成り行きで“白い生き物”を匿わせることになってしまったし――。


 ――いや大丈夫だよこいつ、何でも食うんだほんとに。


 去年の記憶がよみがえる。ミンスターの森の中で迷子になっていた“白い生き物”を見つけたのは、毎日森を歩き回っているギルファスだった。ギルファスは隣家に住む幼なじみなのだが、幼い頃に両親を亡くしたせいで、グスタフの家で家族同然に育った。昔からすごいやつだと思っていた。森のどんなに奥まで行っても迷うと言うことがない。闇夜の森で迷子やけが人を見つけたことも、一度や二度ではない。十五の頃から大人たちに頼りにされ、十八の頃には森に関することでギルファスにかなう奴は誰もいなくなっていた。今では長老の補佐役の任を立派に務めており、すっかりミンスターの重鎮である。


 グスタフは受験勉強中だから負担をかけては悪い、と言う余計な気遣いのせいで、初めはその存在を知らされなかった。不本意だと言わざるを得ない。ケガをしていたその生き物をギルファスは家に連れて帰ってしばらく世話をしてやっていたそうだ。シャティアーナがせっせと食べ物を運んでやっており、数日経ってようやく見せられたときには、生き物はすっかりギルファスとシャティアーナに懐いていた。少々大きな猫くらいのサイズで、大変可愛らしかった。本音を言うと、もっと触らせてもらいたかった。あの生き物がミンスター地区にいたのはほんの十日程度に過ぎず、グスタフは数回しか触るチャンスがなかった。極上の手触りで、本当に可愛かった。


 ラセルの匿っている生き物は、そのうち触らせてもらえるだろうか。リーダスタのことでさえ避ける様子を見せたから、追いかけ回して恐怖を与えた張本人のグスタフに心を許すことはないだろうけれど、それでも一縷の望みを抱いてしまうのは致し方ない。と、思う。あれほど賢い生き物ならば、敵意は全くない行為だったのだと、わかってもらえはしないだろうか。




 森を抜けると日差しがキツい。ここは首都ファーレンに比べ、かなり暖かい地方のようだ。気温もかなり高い。季節が夏なのかもしれない。


 少々思案したが、一度森にとって返し、トスロを探すことにした。暖かい地方なら、きっと生えているはずだ。

 トスロは中が空洞になった植物で、空洞の部分にとろみのある液体が入っている。傷薬などに使われる液体だが、日焼けによる炎症を抑える効果もある。トスロを探して歩きながら、また、エスメラルダからの留学生のことを考えた。生っ白い、というよりは、ほとんど日を浴びたことがないのではと思うほど肌の色が白かった。備えもなしに真夏の熱帯の直射日光を浴びたりしたら――そう考えて、グスタフは自分に呆れてため息をついた。あいつは妹じゃない。そもそも少女ですらない、はずだ、リーダスタの例もあるし、そもそも少女であるならば同じ寮に部屋を与えられるはずもないのだから。エスメラルダはミンスターにとって親戚のようなものだから、つい肩入れしすぎてしまうが、あいつにとっては余計なお世話に違いない。あまり心配しては失礼というものだろう。


 程なく、首尾良くトスロを見つけた。ナイフがないのでチクチクする茎をつかんで引っこ抜き、茎の上部を折り取り、乳白色の液体を手のひらに出した。全身にくまなく塗り、ようやく地図に挑む心の準備ができた。日焼けで黒くなるのは全く構わないのだが、いきなり多量の紫外線を浴びすぎると皮膚が炎症を起こし、作業効率が下がってしまう。試験はまだ数日続くはずだ。明日以降のことを考えると、少々回り道でも、万全の対策を取っておくべきだ。


 再び波打ち際に立つ。そこは、美しい入り江だった。

 寄せては返す波はいかにも清浄そうで、静かで、また冷たそうで、真夏に遊びに来るには最高の場所に思えた。入り江は概ね半円形になっている。その頂点に当たる場所に手頃な木があった。ちょうどいい。目印のために枝に画板をぶら下げることにする。邪魔になる小枝をぽきぽき折り取り、首尾良く画板を引っかけて、ためいきをついて右手の平を見た。トスロを引き抜いたときのざらついた感触がまだ残っている。何はともあれナイフだ、と、考えた。こんな広々とした場所に隠されている(と思いたい)一つのナイフを探し出すなんて、かなり無茶に思えるが、森の地図を描くにはどうしても必要だ。


 ――本当に隠されていればの話だけど。


 アルゴー教官がナイフを必需品だと考えていなかったときのために、何かナイフの代わりになるものがあるかどうか、測量しながら見て回った方がいいかもしれない。


 グスタフはさらなるため息をつくと、波打ち際をゆっくりと歩き出した。一定の歩幅で歩くように心がける。一歩、二歩、三歩――数えているうちにだんだん無心になっていき、ナイフのない心細さも軽減されていく。


 見知らぬ場所に行って地図を描くのはとても楽しい。

 昔からそういうことが好きだった。“宴”ではいつも地図作成隊に配属されたし、少なくともミンスターにおいては、地図を描くということについて、グスタフにかなう人間は誰もいなかった、はずだ。友人たちからは変わった習性だと言われるが、見たことのない地形を見ると地図におこしたくなる衝動に駆られる。アルゴー教官は、やりたがる人間を探すのも大変だと言った――

 それを自分がやりたいと立候補したら、アルゴー教官はどう思うだろうか。




 入り江はグスタフから見て左側に弧を描いて伸びている。また同時に緩やかにスロープを描いており、海に突き出した岬の先端は、高さ三メートルほどの崖になっているようだ。グスタフは入り江の形状につられないよう気をつけて、そのまままっすぐ進んでいった。歩くうちに砂浜は少しずつせり上がり、岩が増え、磯に変わっていく。百二十七、百二十八、百二十九。


 百三十七歩で砂はほとんど消え、その辺りはゴツゴツした岩でできた丘の始まりだ。足を踏みしめて、歩幅を変えないように気をつけて丘を登っていく。百三十八、百三十九、百四十、百四十一――ここにギルファスがいたら、と頭のどこかで考えた。あいつは地図を描くと言ったことには全く興味がないので、グスタフが辺りを調べる間、いったい何をしているだろう。まずたき火をおこして、シャティアーナが一緒にいれば日よけを作ってやるだろうし、その後は海に入って魚を捕ったりしているだろう。ここにはどんな魚がいるのだろう? 海に入って魚を捕まえれば、場所を特定する重要な手がかりになるような気もするが、どう考えてもそんな時間を取れそうな気がしない。


 百五十一歩目を踏み出した瞬間、足が何かにぶつかった。

 見た目には、今までと全く変わらない風景だ。そこから先にも、広々とした景色が続いている。しかし足は何か柔らかく中身が詰まった壁のようなものに遮られ、それ以上進めない。手を出してみた。やはり何かに触れた。両手で押してみた。びくともしない。

 見えないが、そこに壁がある。それ以上進めないようになっているようだ。


 とすると、ここが部屋の“壁”なのだろう。百五十一、という数値を頭に刻み、今度はその見えない“壁”を右手に触れながら海の方向に向きを変えた。一歩、二歩、三歩、再び歩き出す。おそらくここがこの風景の限界なのだろう。範囲が限定されたことで少し気が軽くなった。日暮れまでにこの広々とした入り江全体の地図を描くなんて、かなり難しいと思っていたが、この範囲だけで良いなら、地図の完成が現実味を帯びてくる。


 それでも、半円状の海岸の地形を地図におこすのに、二時間はかかった。

 太陽は大分高くのぼり、かなり日差しも強くなってきていた。トスロのおかげで皮膚がじりじり痛むということはないものの、直射日光をさんさんと浴びて、かなり体力を奪われているのを感じる。ナイフもまだ見つからないし、食べ物も飲み物も見つからない。


“水も食料も充分ある。嘘じゃないぞ”


 アルゴー教官は意味ありげな口調でそう言った。あれは皮肉だったのだろうか、それとも。


 海岸を描き終えたので、次は海だ。

 グスタフは立ち上がり、波打ち際に歩み寄った。

 とても澄んだ、綺麗な水だった。

 浜辺を歩き回るうちに気づいたが、この中にはどうやら生き物がいないようだ。浜辺に生息するはずの小さな虫や貝、蟹などの生物は一切見当たらなかった。試しに足元の砂を掘り返してみたが、やはり何も出てこない。砂で温められた水がじわっと湧き出てくるだけだ。

 魔法道具で構築されたこの小さな箱庭の中には、生き物は出現させられない。つまりはそういうことなのだろう。

 と言うことは、“充分ある。嘘じゃない”とアルゴー教官が繰り返した食べ物も、命のある状態では存在し得ないはずだ。魚を捕ったり小動物を捕まえたりしないでも、この箱庭の中に“充分”存在しているはず。――皮肉でさえなければ。


「……あれ」


 そこでグスタフは、やっとその事実に気づいた。

 潮の香りが、全くしない、ということに。


 ずっと違和感があった。この砂浜は、幅が狭すぎる。森は砂浜のすぐそばまで迫り、青々と生い茂っており、潮風による影響が見られない。グスタフは自分に呆れた。いったいなぜ気づかなかったのだろう。水も食料も充分ある――少なくとも水に関しては、アルゴー教官の言葉は“嘘じゃなかった”。

 この広々とした水たまりは、海じゃない。波が立つほど広大な、湖だったのだ。


 砂浜と、美しい半円を描く岸と、大きく張り出した特徴的な岬。「ああ」声が出た。視界がぱっと晴れたような気がした。

 ここはもしかして、リストガルド大陸の南方に位置する、アスモス大湖ではないだろうか。


 ざぶざぶと水に分け入り、水を手のひらにすくって飲んだ。果たして真水だった。充分に冷たくて、からからに乾いた喉に沁みるほど旨かった。本当にどうして今まで気がつかなかったのか、自分に呆れてしまう。グスタフはさらに水に入り、胸までの深さまで来るとそのままざぶんと潜った。水は信じられないほど澄んでいた。遙か遠くまで見通せるほど透明度が高い。


 そしてやはり、魚影は一匹も見られなかった。

 この箱庭の中は、いったいどういうからくりになっているのだろう?


 喉の渇きがすっかり癒やされ、少し元気が出てきた。アルゴー教官の言葉は、少なくとも水に関しては、嘘じゃなかった。それならばきっと、食料に関しても、“充分”あると期待しても良いだろう。


 一度浜に上がり、浜辺を南に向かって歩いた。岬のある方角だ。“壁”に突き当たるところまで来ると、岬の先端に向かい、そのまま海に飛び込んだ。沈んでいきながら、目を開いてみる。やはり水はとても澄んでいて、十数メートル先まで見渡せる。


 岬の真下は波にえぐられた洞窟のようになっていて、洞窟の上半分が水の上に出ている。岸に戻ったら地図に起こせるように、入り口の形状を覚えておく。それから平泳ぎで中に入った。

 アスモス大湖の近くに住む人々は、湖と共に生活している。トスロを束ねて作った筏で狩りをすると聞いている。おそらくこの洞窟は、船着き場のように使われているのだろう。洞窟の中には明らかに人の手が入っている様子が見られた。洞窟の壁を削って、水面より一段高い船着場が作られていた。杭も打ち付けられており、そこに結わえられているのは、当然ながらロープだった。


 ここに入ってから数時間。画板以来、初めて見つけた人工物だ。


 船着場に上がり、そのロープを回収した。ロープは何本かあり、細くてとても頑丈そうだった。これがあれば、歩数計測などより遙かに精密かつ効率的に、地図を描くことができる。戦利品を巻き取りながら洞窟の奥へ進み、それに気づいた。


 洞窟の突き当たりに、祭壇のようなものがあった。

 そこに祀られているのは、小さな革袋だ。

 祭壇に刻まれている紋章は、水の神レイルナートのものに似ている。


 レイルナートへの感謝の祈りを捧げてから、丁重にその革袋を取った。中に入っていたものを見て、グスタフは思わず声を上げた。クィナの実がひとつ。握りこぶし一つ分くらいの大きさの、黒パンがひとつ。“充分”とは言えないが、まごう事なき食料である。


 空腹にせかされて、そのまま船着場に座り込み、黒パンをちぎって口に入れた。堅くてずっしりした、クルミとライ麦のパンだった。奥歯で噛みしめ、時折水をすくって飲みながら、しばらく一心不乱に食べた。少し悩んだが、空腹にせかされるままにクィナの実も食べてしまった。クィナは良く熟していて、堅い皮はペリペリと小気味よい音を立てて剥がれた。中から現れた果肉は甘くて酸っぱくてみずみずしくて、とてもおいしい。


 ――お前そんなにやせっぽちでどうするんだ。高等学校のカリキュラムは過酷だ。ちゃんと食べないとついて行けないぞ。


 おととい、アルゴー教官はラセルの制止も聞かずに彼の皿に食べ物をこれでもかと積み上げた。どう見てもラセルの胃袋の容量を遙かに超えた量だった。ラセルが作る羽目になったパックは四つもあった。

 つまりアルゴー教官の“充分な量”というのは、人よりずっと多く見積もって間違いないはずだ。

 それならば、黒パンとクィナ以外にもきっと、食料が隠されていると考えてしかるべき、ではないだろうか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ