地図作成(1)
消灯時刻から一時間ほど経った頃だろうか。
ラセミスタは生き物がうごめく気配で目を覚ました。
もぞもぞもぞ。もぞもぞもぞ。
具合でも悪いのだろうか、少し切羽詰まった様子だった。ラセミスタは跳ね起き、枕元の明かりを付けた。生き物はラセミスタを見て、きゅうー、と情けない声を上げる。
「どうしたの? お腹痛いの?」
抱き上げてみるとお腹がぱんぱんに張っている。体は相変わらず冷たく、発熱している様子もないし、吐いたりけいれんしたりする様子もない。ラセミスタの乏しい経験からは、排泄を促せば良いのではないか、という考えしか浮かんでこなかった。昨日作った箱形のトイレを探した。机の上に、昨日置いたままになっていた。中のティッシュはとても綺麗で、使われた形跡はない。
しかし、部屋の中で出した形跡もない。
――ということは、昨日からぜんぜん?
ラセミスタは慌てた。今まで一度も排泄をしていないのに、気づきもしなかったなんて!
「あのね、これ、トイレ。トイレだよ? お腹の中のもの、出していいんだよ?」
きゅうー。きゅうー。
生き物は哀れっぽい声を上げる。ぶるぶる震えて、とても苦しそうだ。どうしよう、どうしたらいいんだろう。
“この子、俺の言ってることがわかるみたい”
リーダスタが言ったことが、急に耳によみがえる。そう、本当に、この子は賢い。ラセミスタの指示を完璧に理解している、という確信がある。お腹がぱんぱんに張っていて苦しいのに、“出していい”という言葉だってわかっているのに、どうして。
生き物は突然羽ばたいた。簡易洗面台の方へ飛んでいく。
――あたしだったら。
急に、ラセミスタは思った。
――ティッシュを敷かれただけの箱に排泄物を出すなんて、絶対に嫌だ。
そう、この子は本当に賢い。
その賢さが、思う以上のものだったとしたら?
「……待って……!」
押さえた声で叫び、寝台から飛び降りた。簡易洗面台へ舞い降りようとしていたその子を捕まえて、トイレの扉を開く。便座の蓋を開けて、ラセミスタは言った。
「ここならして大丈夫だから! 水を流せば綺麗になくなるから! あたしは外に出てるからね、どうぞごゆっくり!」
きゅう。
生き物のか細い返事を背に、ラセミスタは後ろ手に扉を閉めた。慌てた後遺症と心配で、胸がドキドキ鳴っている。
数分後。
かりかり、とトイレの扉をこする音がして、ラセミスタは急いで扉を開けた。
そこにはすっかり落ち着いたあの子が、ちょこんと座っていた。扉が開くとゆっくり外に出てきた。ちょっと気恥ずかしそうに見える。
トイレの水が流された音はしなかったが、それは当然かも知れない。だってこの子には、充分な身長と機能的な前足がないのだ。しかし便座の蓋は閉められていて、ラセミスタは、ああ、と嘆息した。あの子の尊厳のために、蓋を開けずに水を流す。
「……本当にごめん」
見くびっていた。外見があんまり小さくて可愛らしいから、小動物と同じ扱いでいいと思い込んだ。まさか排泄を見られたり人の手によって片付けられることをよしとしないレベルの賢さだなんて、考えてみもしなかった。
「明日から……出かけるときは、あそこのドアと、トイレの蓋を開けておくね」
寝台によじ登ろうとするその子をすくい上げながら、ラセミスタは囁いた。
「それで、用が済んだら、さっきみたいに蓋を閉めておいてね。そうしておいてくれたら、用を足したんだなってわかるから。帰ってきたらすぐに流すからね。それなら衛生的だし、あなたも気兼ねせずに済むでしょう?」
きゅう。
まごう事なき回答をして、生き物は恥ずかしそうに枕の上にうずくまった。
ラセミスタは自分に言い聞かせた。
これからは、この子の許しを請わずに勝手にこのゴージャスな毛皮を堪能するような振る舞いも、控えるべきだ。
明かりを消し、その子が空けてくれている枕のスペースに頭を載せる。目を閉じて、まだ心配の余韻に跳ね回る心臓が少しずつ落ち着いていくのを感じながら、考えた。
――今まで考えが足りなくて、本当に申し訳ないことをした。
*
今朝、ラセルは朝食に来なかった。先日まで間借りしていた王立研究院に『どうしても見に行かなければならない』郵便箱があるのだという。意味がわからない。王立研究院の方でも、ラセルがここの寮に引っ越したことは把握しているのだから、郵便物は当然転送してくれるものだと思うのだが。
それでもラセルがいないのは正直、気楽だった。向けられる上級生たちの視線も半減する。何より、昨日の朝食時のことを思い出すと、なんだかいたたまれない気持ちになる。たぶんチャスクも同様だろう。
ポルト=カイマンにラセルが言った言葉が漏れ聞こえた時、エスメラルダはいい国だな、とまた思った。行ったこともなければ見たこともないくせに悪口を言うべきではない、と言うラセルの意見はもっともだ。爽快だ。あの時のポルトの顔ときたら。拍手喝采したいくらいだった。
しかしその後の自分たちの話はどうだ。その場にいないカルムのことをあーだこーだと品評するなんて、ポルトのことを笑えない。ラセルはどう思っただろう。エスメラルダの風潮では、あれも恥ずべき行為だったかもしれない。ラセルは“巻き込まれるって何?”と聞いた。巻き込まれたこともないくせに――そう思ったのではないだろうか。落ち込む。
ラセルは何も悪くないのに、顔を合わせないで済むことにホッとしている自分が、ますますふがいない。
今朝のメニューはスクランブルエッグとコンソメスープだった。生あくびをかみ殺しながら、すっかりなじんだ面々ともそもそ朝食を取っていたとき――
ポルト=カイマンとその取り巻きたちがやってきた。
わざわざこちらのテーブルのすぐそばを通り過ぎながら、聞こえよがしな声で言った。
「あーあ、本当に、エスメラルダには幻滅したよ。――まさか薬草学の試験を放棄するなんてな」
食堂中がざわめいた。そうそう、とリデルが受ける。
「試験放棄なんて、長い高等学校の歴史の中でも初めてなんじゃないの?」
「試験管は空っぽ、答案は全部無効だなんて。エスメラルダが国を挙げて送り込んで来た、天才のはずなのに」
「今、アナカルシスとエスメラルダの間で、ガルシアの地下資源を巡って利権争いが起こってるらしいよなあ」
「なんか、アナカルシスのスパイが潜り込んでるらしいよな。この国の重鎮の誰かを狙うらしいって噂になってたぜ」
「エスメラルダも焦ったんじゃないか、エスメラルダの息のかかった卒業生を、なんとか高等学校から排出しないとって
「けどあんな人材しかいないなんて、学問の国が聞いて呆れるよ――」
「お前らも気をつけた方がいいぜ」
リデルがそう言った。まっすぐにこちらを見て。
入学式の日の醜態を、これで取り返せるとでも言うかのように。優越感を漂わせる低い声で。
「エスメラルダにあんまりどっぷり深入りするのは得策じゃない。アナカルシスも大国だし、エスメラルダとは国土面積が桁違いだしな。それにエスメラルダは、あんな人材を送り込んでくるほどガルシアを舐めてる」
「まあ、エスメラルダのおもりはお前たちに任せるよ。あんなやつ、俺たちの仲間に入れる価値はない。行こうぜ」
言いたいことだけ言って、ポルトたちは気持ちよさそうに歩み去った。
リーダスタは呆気にとられていた。言われっぱなしで逃げられるなんて、とても不本意だった。しかし、“放棄”という単語が衝撃過ぎて、言い返す言葉を思いつかなかった。
「……放棄ってほんとか?」
チャスクが呻くように言い、ウェルチが、さあねえ、と言った。
「昨日の答案提出の時、俺もちょっと変だなとは思った。薬草学の答案には見えなかったから。……まあカリキュラムがぜんぜん違うんだろうしなあ」
ジェムズは無言だった。グスタフは、呟くように言った。
「……試験の結果なんて、あいつらどうやって知ったんだろう。実技試験の結果って、公表されるものなのか」
「そんな話聞いたことないけどな。まあ、お貴族様には特別のルートがあるんだろ」
リーダスタはそう答えて、スクランブルエッグにフォークを突き刺した。はかない手応えを通り越して、かつん、と皿が鳴る。
昨日、ラセルが提出した答案を見たとき、リーダスタもおかしいと思った。どう見ても薬草学の答案じゃなかった。午後に一度四阿の近くで見かけたが、四阿の下に潜り込んで、何かごそごそやっているようだった。ラセルは、おそらく薬草を探しもしなかったのだ。
それにしてもポルトたちの底意地の悪さには辟易する。貴族特有の独自のルートで入手した成績を言いふらすなんて。それも本人のいないところで。
まあ、ラセルはポルトたちの仲間に入れられるのを嫌がっていたようだから、これでポルトから誘われることがなくなるのはケガの功名と言うべきだろうか。
*
王立研究院まで足を運んだのに、マリアラの手紙は今日も来ていなかった。明日も王立研究院の郵便受けをのぞきに行かなければ。明日にはきっと届くはずなのだから。
そう自分に言い聞かせながら新入生の群れに紛れ込む。背の高いグスタフとウェルチは見つけやすくて助かる。ラセミスタがその二人のところへたどり着いたとき、「おはよう諸君!」朗々たる声を上げながらアルゴー教官が入ってきた。遅刻を免れたことに、ラセミスタはホッと息をつく。
「今日の試験は簡単だ。地図作成の試験だからな。皆に、それぞれ地図を描いてもらう」
アルゴー教官は今日も楽しげだった。ラセミスタはアルゴー教官の視界に入らないよう、できるだけ、グスタフとウェルチの背後に縮こまった。アルゴー教官は声も大きく、放たれた声はビリビリと肌を打つ。大柄な二人の後ろにいればその衝撃が緩和されてとても助かる。そうしながらも指示を聞き逃さないよう耳をそばだたせた。
アルゴー教官はちょっと身を引くようにして、自分の背後にずらりと並んだ大きな扉を示して見せた。
「中は個室になっている。その中の地図を描いてほしい」
新入生たちがザワついた。ラセミスタは首を伸ばして“個室”を見た。アルゴー教官と助手の背後の壁に、白い細長い扉がずらりと並んでいる。一枚一枚の間隔は狭く、それほど広いスペースが用意されているようには見えない。
「手持ちの道具や魔法道具は中では全て役に立たない」
アルゴー教官はますます楽しげに声を張った。
「だから筆記用具や製図用紙も全て中にあるものを利用する。食べ物や飲み物も隠してある――充分な量あるから心配するな、嘘じゃないぞ。期限は基本的には真夜中だ」教官はにやりと笑った。「それまで生き延びられればな」
周囲からまたざわめきが起こった。不安そうな新入生たちの顔を見渡して、アルゴー教官はますます楽しげだ。と、教官の隣で控えていた助手が、呆れたように声を上げた。
「本当に死んだりはしないから安心して。ただまあ、あんまり無茶すると、精神的ショックが尾を引くことになるかもね。中で意識を失えば、それで試験は終了だ」
あの扉の中へは手持ちの道具は使用可能な状態で持ち込むことができない――ということはつまり、試験は仮想空間で行われるのだろう。いったいどういう風になっているのか、あの扉の向こうにどんな風景が構築されるのか、身体はどうなるのか、どんな技術が使われるのか、気になってうずうずする。食事も隠されていると言ったが、それは仮想的なものに過ぎないはずだから、身体の方は今日は一日飲まず食わずと言うことになるのだろうか。いや、今の段階で水分補給をさせないところを見ると、身体の方にも何らかの対処が施されるようになっているはずだ。食べ物はともかく、朝から夜半過ぎまで一切水分補給がないなんて、いくらこの学校でも無茶だ。と言うことはつまり、扉に入るとすぐに空間が密閉されて、中に特殊な処理を施された液体が充填される可能性が高い。栄養補給も排泄物処理もそれで片が付く。ああ、どういう仕組みを採用しているのだろう? 扉の中に入らずに、外から分解させてもらえないだろうか。そんなことできないのはわかっているが。
「さあ、行ってきたまえ。どの扉を選んでもいい。難易度はまちまちだ。運を天に任せるんだな」
アルゴー教官は本当に楽しげだ。先生というのはいい商売だな、と、ラセミスタは思った。
みんなが扉の方に進んだ。ポルトたち首都出身の者の概ねは、序列どおりに整然と。そのほかの者たちは好きなようにそれぞれ扉を選んだ。ラセミスタが選んだのは左から十五番目の扉だった。扉に手を当ててみる。目を閉じて耳を澄ませる。手のひらに、確かに、かすかな振動を感じる。ガルシアにはまだ言語処理の技術が浸透していないと聞いた。と言うことはつまり、この魔法道具は全て熱処理で作られているのだ。職人の感覚だけが頼りの、エスメラルダでは遙か昔に使われなくなった技術。ラセミスタの感覚からすれば骨董品である。
熱処理で慎重に慎重を重ねて練り上げられた、これほどに巨大で精緻な魔力構築網。
芸術だ。
技術者はいったいどんな人なのだろう。会ってみたい。教えを請いたい。その人の仕事を間近で見せてもらって、その精神と技術を学びたい。
「どうした。怖じ気づいたのか?」
アルゴー教官がそう言った。気づくと他の新入生たちは、みな扉を開けて中に入った後だった。ラセミスタは急いで扉を開けた。この中で感じる全てのものを、吸収し尽くす心構えで。




