薬草学(5)
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昼食後しばらくして、すべての標本が集まった。あとはテスト用紙を埋めるだけだ。
カルムは太陽を見上げて時間を計った。まだおやつ時というところで、日暮れまでは十分に時間がある。それならば、どこか他の四阿を探しても良いだろう。人がいない机とベンチがあれば、集中して回答を埋めることができる。
春の首都ファーレンはとてものどかだ。
こののどかな日だまりの中を歩いていると、否応なしに、十年前にここで過ごした日々のことを思い出す。
カルムの兄、ロルフ=リーリエンクローンが、この学校に在籍していた頃のこと。
あの頃カルムは、放課後になるとここに来ることが多かった。あの生け垣をくぐり抜けて入り込み、校内の探検に明け暮れた日々のおかげで、この校内については今でもかなり詳しい。エルザや庭師や、校内で働く大勢の人たちは、みんなカルムに優しかった。当時は副校長だったヴィディオ閣下はリーリエンクローン家の内情をよくわきまえていて、職員たちに、カルムを見つけても追い出さないよう根回しをしておいてくれたらしい。高等学校の学生たちはほとんどいつも旅ばかりしているので、校内ははいつも広々としていて、あの頃のカルムには、果てしなく思えるほどに広大だった。図書館に潜り込んだりいろんな研究室の教材を眺めたり、エルザにお茶に呼ばれたりと、とても楽しい毎日だった。
兄が旅から戻ってくると、さらに楽しくなった。
十歳も年上の兄は、カルムをとても可愛がった。旅先で見たり聞いたりしたことを面白おかしく話してくれた。たまの休みに、校内では買えない様々なものを買い出しに行くときは、必ずカルムも連れて行ってくれて、旅先で使ういろんな道具を見せてくれて、説明してくれて。
今思い返してみても信じられないくらい、本当に面倒見のいい男だった。
今、カルムは、あのときの兄と同い年になった。
十も年下の、生意気盛りの、好奇心の塊のような弟を、今の自分があれほどにかわいがれるだろうか。到底そうは思えない。
あの人ならばリーリエンクローン家の跡継ぎとしてふさわしかった。
ガルシアを動かす元貴族の人々は、“平民”に命じられるのをよしとしない。しかしロルフが後を継いだら、その軋轢はだいぶ弱まったはずだ。少なくとも母親は貴族だから。
しかし十年前の夏、兄は死んだ。
それ以来、カルムは高等学校に足を踏み入れなくなった。
もう二度とここに来ることはないだろうと思った、あのときの気持ちを思い出す。
小道から少し引っ込んだ場所に、良さそうな四阿を見つけた。
静かで、誰もいなくて、とても居心地が良さそうだ。
しかしすぐに、先客がいるらしいことに気づいた。机の上に、試験管ホルダーとテスト用紙がおいてある。異様な光景だとカルムは思った。持ち主の姿が見えない。
二メートル以上離れると失格だというルールを忘れたのだろうか。
そう思ったとき、机の下に潜り込んでいた人物がごそごそと這い出してきた。ラセルだった。少女じみた、というより、最高級の人形かと思うような、危うげな美貌は健在だった。これが男だなんて、いったいどうなっているのだろうか。人体改造の技術まであるのだろうか、学問の国エスメラルダの文化は計り知れない。しかし、今その人形じみた美貌はやけに薄汚れていた。髪が乱れており、顔や手に土埃が付いている。彼自身は全く気にした様子がない。ぺんぺんと適当に汚れや埃を払い、ラセルはテスト用紙にかがみ込んで、猛然とペンを走らせ始めた。
――何やってんだ。
ホルダーに整然とはまった試験管は、まだ空のものばかりだ。エスメラルダから来た留学生には、リストガルド大陸固有の薬草も多いことだし、標本集めにはかなり苦労するだろう、という事情はわかる。が、まさかはなから集めないつもりなのだろうか。いったい何を書いているのだろう。ここからではその文字の中身までは読めないが、かなりぎっしり書いている。それもどうやら数式のようだ。標本集めをそっちのけにして集中しているところを見ると、そもそもテストを受ける気がないようにしか思えない。
ひととおり書くとラセルは今自分が書いた文字をじっと見て、うん、と満足そうに頷いた。それからまたしゃがみ込んだ。今度は四阿の柱の根元を子細に調べ始める。
――変な奴。
いったい何をしているのか、とても気になりはしたが、話しかけるわけにもいかない。ラセルのことはひとまず置いて、別の四阿を探すことにした。まだ余裕があるとは言え、あまりのんびりしていられる時間でもない。
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午前中とは打って変わって、今、ラセミスタは楽しかった。やっぱり自分にできることは魔法道具しかないのだ。
さっきはあれほど時間の進みが遅かったのに、今は飛ぶように時間が過ぎていく。やりたいことはたくさんあって、日暮れまでというタイムリミットもまた、ラセミスタの闘争心に火を付けていた。
自分のふがいなさに落ち込みながらもそもそと昼食を食べていたとき、気づいたのだ。
この薬草園に、魔力供給網が張り巡らされている――と言うことに。
よく考えてみれば自明だった。季節は春だ。初夏も長雨の季節も盛夏も迎えていないのに、20種もの薬草(と蛇)を全て採取できるなんておかしい。ストラーダの表皮は、長雨の季節を過ぎて強く堅くなってからでないと表皮の内側に薬効のある粘液が分泌されなかったはずだし、問い18の木の実はこの季節には採取できないはずだ。――それなのに、カルムもグスタフも、ちゃんと採取していた、ようだ。
つまりこの薬草園の中には、様々な季節が、それと悟られないように点在している。
例えば“冬”はおそらく、さっき通り過ぎた、うっそうと茂った木立の中だったはずだ。空気がひんやりとして気持ちが良かった。たぶん、この時期に“冬”を迎えるよう調整されているのだろう、だって、広々とした日差しの中で急に空気がひんやりとした場所に来たら、こんなからくりが仕掛けられていることなどすぐにわかってしまう――
――それでか。
今さらピンときた。おそらく、カルムやグスタフと言った人たちは、もっと早い段階で、このからくりに気づいていたのだろう。これに気づいていたら、標本を探すとても大きな手がかりになる。季節から逆算して標本を探せば、もしかしたら自分ももう少し、見つけられるかもしれない――そう思いはしたのだが、すぐに自分を戒める。思い上がるな。むりむり。
薬草学において自分は凡人以下だ。ラセミスタの唯一の武器は魔法道具関連の知識であり、その他について思い上がるのは危険だ。
それにしても本当に楽しかった。長い過酷な受験勉強の後に降ってわいた、とても甘美なひとときだった。エスメラルダにいた頃は、屋外に、これほど大がかりな季節調整施設を作るなんて概念がそもそもなかった。でもここには需要があるのだ。庭園の美しさと薬草園としての機能を両立させるという概念は、エスメラルダでは想像したこともなかった新たな需要だ。ゾクゾクする。ガルシアに他にも多数存在するであろう未知の需要はきっと、エスメラルダにも様々な変化を起こすはずだ。
ラセミスタはせっせと答案を書いた。薬草学の試験としては、きっと最低点だろう。グスタフのおかげでせっかく採取できたオキリニギラヘビの薬の作成方法についても、書く暇なんて取れそうもない。でもグスタフとリーダスタが教えてくれたとおり、これは学生の力量を測るための試験だ。ラセミスタは魔法道具に関することしかできない。しかし魔法道具に関してならこれだけできるのだと言うことをアピールする。それがこの学校で生き残っていく、唯一の道だろう。
ライズ教官もライティグ教官もきっと呆れるだろう。ラセミスタの薬草学としての点数は、おそらく長い高等学校の歴史の中でも最低の部類に入るだろう。でも仕方がない。これが自分なのだ。どうか追い出さないでくださいと、没頭しながら頭のどこかでそう考えた。この薬草園は大幅に改良できる。ラセミスタの持てる全ての技術をここで生かしてもらえるなら、この薬草園を、もっときれいで、もっと素晴らしく、もっと様々な植物を育てられる場所に作り替えられる。一日に消費する魔力の結晶の総量も大幅に削減できる。答案を通してそれをアピールするしかない。ラセミスタを追い出さずに利用した方がずっとオトクだ、と、高等学校の経営者たちが悟ってくれるように。
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ヘトヘトになって部屋に戻ると、ベッドの上で、あの可愛らしい生き物が待っていた。
ケガをしているといっていたからだろう、生き物は、一日ほとんどずっと眠っていたようだった。食べ物と水は少々減っている形跡はあったが、トイレは綺麗だったし、部屋のどこかで粗相をした形跡もなかった。防犯装置が作動した今朝の噂が功を奏したのか、誰かが部屋に勝手に入るというようなことも、起こらなかったようだった。
ラセミスタが戻ってきたのに気づいて生き物は目を覚ました。毛皮の塊の隙間から、丸いきれいな瞳が覗いた。生き物は、ラセミスタを見てきゅうっと声を上げ、ぴこぴこと翼を振った。
シャワーも浴びられないほどくたくただったが、この歓迎を受けては目も覚めるというものだ。ラセミスタはよろよろとベッドに腰をかけた。すかさずその膝によじ登った生き物は、小さな牙の覗く口を開けて食べ物をねだった。ラセミスタは懐からパックを取りだした。ここにあるハムや野菜や果物、パンなどは、生き物の存在を知っている地方出身の新入生たちがおのおの夕食の時に確保してくれたものだ。彼らの心づくしを差し出すと、生き物はとても嬉しそうに食べた。にゃむにゃむあむあむと小さな声を漏らしながら。
膝の上で、生き物はずしりと重い。
そして、とても冷たい。
冷たさは、膝の上でかなりの量の食べ物を消費する間も、一向に変わらなかった。普通なら、ラセミスタの体温が移ったりするものではないだろうか。しかし、一日太陽の下で活動した体には、とてもひんやりとして気持ちが良かった。
ラセミスタは微笑んで、そっとその極上の手触りの毛皮をなでた。
手のひらの下で、生き物は気持ちよさそうに目を細める。マリアラに見せたい、と思う。この子を見たら、マリアラはきっと喜ぶだろう。可愛がってくれるだろうし、餌をあげたがると思うし、この子を無事に逃がすために、きっといろいろと骨を折ってくれるだろう……
――マリアラの手紙は、今日も届いていなかった。
自分に言い聞かせた。明日はきっと届くはずだ。
何しろガルシアとエスメラルダはもの凄く離れている。途中でいろいろなハプニングが起こって、どこかで足止めを食っているのだろう。マリアラは本当に筆まめな人だから、彼女が書くのをやめたなんてことはないはずだ。……絶対、ないはずだ。
ラセミスタは生き物の冷たい毛皮に頬を寄せ、寄り添いあって眠った。
どうにかしてこの子を無事に逃がしてやらなければならない。
が、それが上手くできたらきっと自分は泣くだろう。そんな気がしてならなかった。




