薬草学(2)
シリコンとペンキの海の中に正座したままの二人は、エルザが自分たちの方を振り返るやいなや口々に声を上げた。
「おっ、俺たちもエルザ、魔法道具を見せてもらおうとしただけで――」
「嘘ばっかり」リーダスタが吐き捨てるように言った。「もしラセルがいなきゃ俺んとこ来てたんじゃないの? 高等学校生が聞いて呆れるよ」
「私も全く同意見です」
エルザの声はまた、氷のように冷たかった。上級生二人は縮み上がった。ラセミスタも縮み上がった。この二人がいったい何の用でラセミスタの部屋に来たのかラセミスタにはまだ見当も付かないのに、エルザもリーダスタも怒っている。いったい何が彼女らをこんなに怒らせているのか。ダニエルとフェルドはこの事態を想定していたのだろうか。
「紳士たるべき高等学校生に、まさかこんな卑劣な人間が二人も紛れ込んでいたなんて。――あなた方もよくおわかりだと思いますが、今日から新入生たちは実技試験に入ります」
え、と思った。
試験って、何?
「もしこの罠が仕掛けられていなくて、あなた方の企みが成功していたらどうなっていたか。ただでさえ受験勉強を乗り越えたばかりの新入生たちなのに。万全の精神状態で試験に臨ませてあげるのが上級生としても勤めじゃないの、それを――あなたたち、これは国際問題になり得るのよ。本当にわかっているの? それとも、もしかしてあなたがたはエスメラルダの留学生をこの国から追い出したい思惑を持つどなたかの命令で、わざと、あえて、この事件を起こしたということかしら? だとしたらスパイ行為よ、ゆゆしき問題だわ!」
「ち、ちが――」
「いい顔立ちになったこと。永遠にそのペンキを顔の正面につけたまま生きなさい」
本当に冷たい声だった。
「そのペンキが薄れる日が来たら、私がこの手で、顔に卑劣という文字を彫り込んであげます」
「い、い、いや、その――」
「可愛らしくて弱そうな誰かを見たら踏みつけにして、自分の優位さと強さを誇り、それを自分の手柄のようにみんなに自慢しようとする、その汚らわしい性根にはお似合いの刻印だわ。さ、いらっしゃい。校長先生のところへ行きましょう。高等学校生でいられる時間もあとわずかだと思いなさい。ラセル、皆さん、この場所はこのままにしておいてね。片付けはこの人たちが退学になる前にさせますからね。あなた方は早く準備をして、朝食をしっかり取って、試験に行きなさい」
エルザは本当に情け容赦がなかった。とりつく島も、猶予も、わずかな慈悲も、一切感じさせなかった。上級生二人はそれ以上弁明する機会も気力もなく、エルザの後を悄然とついていった。正面から浴びたペンキの緑が、まるでふたりを蝕む毒のように見える。
ラセミスタは呆然としていた。事情がよくわからないことが起こりすぎて、どうすれば良いのかさっぱりわからなかった。落とせないペンキを浴びせかけられた被害者が、あろうことか退学になろうとしている。と言うか、そもそも試験って何? 入試はこないだ終わったばかりではないか。
あの白い生き物がラセミスタの部屋にいると、エルザも知っているのだろうか? だから怒っているのだろうか? あの子を守るために、二人を退学にしようとしていると言うこと? 混乱していると、近づいてきていたリーダスタが言った。
「おはよー、ラセル、じゃなくてラス。災難だったねえ」
「おはよう、リーダスタ……」ラセミスタは声をひそめる。「あの、あの人たち……あの子を捕まえに来たってこと……?」
「はっ?」
リーダスタは目を丸くする。
そして、呆れたような顔をした。
「……エスメラルダってほんと平和な国なんだね」
「え、ええっ?」
「あのねえラス、今回のことにあの子は一切関係ないよ。あいつらはね、ラスが噂どおりなのかどうかを確かめに来たんだ」
「噂――?」
噂って何? 噂になっているのだろうか? 何が?
「ラスはさ、すごく可愛いからさ」
突然言われてラセミスタは目を丸くする。「は?」
「他に何の理由もないよ。ただすごーく可愛いから、それを確かめに来たってだけだよ。それも寝込みを襲うような卑劣なやり方でね! ねえ、エスメラルダでこんな目に遭ったこと一度もないの? そりゃー何よりだったけど、ここでは自衛した方がいいよ……っていうか、してたんだよねちゃんと。初日から対策を怠らなくて、偉かったねえー」
ラセミスタは少し考えた。可愛い、と言う自分への評価に関しては、うぬぼれでもなんでもなく、実際のところ疑問の余地はなかった。ラセミスタは幼い頃からとても可愛い子供だと言われて育ってきた。雑誌などの特集でも、その形容詞を使われることが多かった。マリアラも、ミランダもリンも、マリアラのおかげで見つけたスタイリストも、その賛辞を言葉の端々に付けることが多かった。
しかしラセミスタにとってはどちらかと言えばコンプレックスである。最年少のリズエルが顔で選ばれた、といった陰口には深く傷ついたし、スタイリストにコーディネートをお願いするようになってからはファッション関連の雑誌からの取材申し込みが増えて、本当に煩わしかった。あんな少女にあんな魔法道具が作れるわけがない、と言った侮りや不信にも、ほとほと悩まされてきた。“適性があったから、リズエルの広告塔として雇われたのだろう”とか、“本当はイーレンタールが作っているのを話題作りのために”だとか。人々はラセミスタが“可愛い”というだけでその腕を疑うような発言を平気でし、ラセミスタはその一つ一つに反論して回ることもできない。こんな顔に生まれなきゃ良かったのにと、思ったことも一度や二度ではない。
そして、そんなことが理由でガルシアでは寝込みを襲われかけたのだ、という。それでは、可愛いと言うことにいったい何の意味があるのだろう、と思わずにはいられない。
しかし、それならば。
彼らが面白半分で“噂どおり可愛いかどうか確かめに来た”というだけだったのなら余計に、過剰防衛だったのでは、と心配になってくる。
「あの人たち、退学になっちゃうの……?」
そう訊ねるとリーダスタはあっさりと頷いた。
「そーなんじゃない? 当然だよ。高等学校生は頭がいいだけじゃだめなんだよ。だってこの国の最高学府なんだから。何万人って人間の中からたった五十人くらいしか入れない、唯一無二の場所なんだ。人の寝込みを襲ってマウンティングしようとするような卑劣な奴は、高等学校生にはふさわしくないよ」
彼女は心底腹を立てているようだった。マウンティング、と言う言葉の意味は今ひとつよくわからなかったが、彼らの行いはここでは“卑劣”と言う認識になるらしい。確かに“可愛いから”という理由で寝込みを襲われてはたまったものじゃないから、ガルシアの風習は理にかなっている。
と、
「ラス。この物質は何でできてるんだ?」
グスタフが昨日と全く変わらない言い方でそう訊ねた。彼は床にかがみ込み、その場に散らばった破片をしげしげとのぞき込んでいた。ラセミスタはそのそばへ行って自分もかがみ込んだ。指先で、破片をひとつ拾い上げる。
「これはただのシリコン素材。ぱっと見ガラスの破片に見えるでしょう、派手な方がいいって兄に勧められて……いや、兄は本当にガラスの破片を入れろって言ったんだけど、それはさすがに……」
「俺も本物のガラスの破片で良かったと思うけど」
「えっ、そ、そう?」
「確かにこの素材ならケガはしないだろうな。だから、あいつらの処遇について、ラスが気に病む必要はない。大けがさせないでやったんだからありがたいと思え、でいい」
どうやらグスタフも怒っているらしかった。ラセミスタは少し、ホッとした。過剰防衛だったのでは――その気後れはまだ胸にあったものの、リーダスタもグスタフも当然だと思ってくれるなら、少し気が軽くなるというものだ。ラセミスタにはガルシアの常識が足りないし、エスメラルダの常識も足りないという自覚もある。この二人がそう言ってくれるなら、マリアラもきっとそう言ってくれるだろう、という期待が持てる。
「そうそう」言いながらリーダスタもしゃがみ込んだ。「でもねえラス、次はね、扉の外に見えるように仕掛けた方がいいよ、開けたらいかにも爆発しそうに見えるように。そしたら冗談半分の奴らはそれで諦めるんだから」
「ああ、なるほど……」
確かにそれはそうだ。留守の間にまた仕掛けた方が良いだろう。外に見えるようにものものしく仕掛けておけば、あの子の安全も確保できる。
同じことを考えたのだろう。グスタフが声をひそめて聞いた。
「あの子はどうした?」
「うん、さっきの爆発で起きたけど……本当に賢いみたいだね、話がわかるみたい。朝ご飯と水を置いて、この部屋から出ないようにねって言い聞かせておいたら、留守の間くらいは大丈夫だと思う」
「じゃあこれ仕掛け直そうよ」リーダスタはそう言って立ち上がった。「この防犯装置の噂はきっと今頃すごい勢いで広がってるだろうから、もうラスの部屋に無断で入ろうと思う奴は出ないでしょ。ケガの功名だったかもね」
グスタフとリーダスタは部屋着だったので、すぐ来るからと言って一度部屋に戻って行った。ラセミスタは周囲を見回した。気に病む必要はないと言ってもらえたおかげで少し気が楽になり、防犯装置の首尾を確かめる余裕が出てきた。昨夜はヘトヘトだったので少々不安だったのだが、防犯装置はほぼ想定どおりに作動していた。やるなあラス、と、ラセミスタは悦に入る。
ラセミスタの部屋は廊下の一番端だ。部屋から見て右側に突き当たりの壁がある。大きな窓が切られていて、窓には当然ガラスがはまっているので、扉の吹き飛ぶ方向には細心の注意を払う必要があった。ちょうつがいの向きと、正面の人的被害の軽減を踏まえて、右前方のかなりタイトな角度に吹き飛ぶよう調整したのだが、かなり上手くいっていた。ガラスにペンキは付いているが、ひび割れ一つ入っていない。
――ペンキは大量に入れておけ。誰が扉を開けたのか、周囲の人間に広く知らしめられるように。
ダニエルはそう言っていた。今思えば、ダニエルも“可愛いから”という理由でラセミスタの部屋に乱入しようとする輩が出現することを懸念していたに違いない。グレゴリーも、フェルドもそれを心配していたのだとすれば、男の人たちの常識はかなり殺伐としたものだ……と言う感想しか持てない。少なくとも女の子であれば、そんな理由で朝まだきに誰かの部屋に乱入しようとするとは思えない。男の子って大変だ。
リーダスタとグスタフはすぐに戻ってきた。ウェルチとチャスク、それからジェムズもやってきた。彼らが扉のペンキを落としちょうつがいを取り替える任を担ってくれたので、ラセミスタは部屋の窓の方に防犯装置を仕掛けることができた。「うわーこれすごいねー! するする落ちるー気持ちいいー」リーダスタが明るい声を上げている。あのペンキの専用洗剤は本当に使用感が良い。お気に召したようで何よりである。
生き物は枕の感触が気に入ったようで、枕から降りようとしなかった。ラセミスタはベッドメイクを終えたベッドの上に枕を戻し、机の上に昨日のパックを開いてのせた。部屋にあったコップに水を入れ、小さな箱を用意して中にティッシュを丸めて入れた。トイレのつもりだが、わかってくれるだろうか。
「今日は一日出かけてくるからね」
そっと手の平を伸ばすと、生き物は自分から額の辺りをラセミスタの手のひらに押しつけた。よしよしよし、とラセミスタは生き物を撫でる。
「帰ってくるまで、ゆっくり休んでいてね。食べ物と飲み物はそこにあるから、お腹がすいたら食べるんだよ」
生き物は返事をしなかった。不思議な色の瞳で、じっとラセミスタを見るだけだった。様々な色が大理石のように渦を巻く、本当に不思議な色の瞳だ。ラセミスタは生き物に手を振って、急いで廊下の方へ戻った。扉は元どおり付け直されて、ペンキもすっかり落とされていた。エルザが上級生たちに廊下の掃除をさせる際に使ってもらえるように、専用洗剤は廊下の隅に置いておく。
「みんな、どうもありがとう、手伝ってくれて」
みんなは、何か待ち望むような面持ちで待っていた。ラセミスタは一同の期待にお応えして、廊下側の、良く見える位置に、予備の防犯装置をしかけた。ちょうつがいに爆薬を仕掛け、導線を起動装置に接続する。起動装置の下には爆薬を仕掛けた箱を仕込み、箱の中にはペンキとシリコン素材をたっぷり注ぎ込む。ダミーを織り交ぜたコードをねじらせて這わせ、ドアノブにセット。“触れるな危険”と書いた張り紙を貼って、起動装置を作動させる。
「おお、鮮やかー」
「すげー、所要時間五分」
ウェルチとチャスクが口々に言った。ラセミスタは笑った。今日は二日目なのに、こんなに打ち解けられた友人ができるなんて。自分にしてはかなりの快挙である。
「じゃあ朝飯に行こっか。試験前に腹ごしらえしとかないとね」
リーダスタがそう言い、先に立って歩き出す。ラセミスタは固唾を飲んだ。みんな、リーダスタの言った“試験”と言う言葉に、何の疑問も呈さない。どうやらここでは、これから試験が始まるということには疑問の余地がないらしい。
「あの……今日ってこれから……授業が始まるんじゃないの?」
「えっ?」
リーダスタは驚いて振り返り、グスタフは目を見はった。ジェムズは口を開け、ウェルチとチャスクは顔を見合わせている。やっぱり違うらしい。ラセミスタはもじもじした。
「いやあの……入学式要項には、入学式の日の日程しか書いてなかったし、その後については指示に従うようにとしか……」
「え、知らないの? ほんとに?」
「今日はこれから……と言うか、今週はずっと実技試験だ」グスタフが言った。「普通は地区の入試対策本部に通達されるはずだが……エスメラルダの学務か何かから、聞いていないのか」
「き、聞いてないです……」
ラセミスタは身を縮めた。ラセミスタはここに“左遷”された身であり、他のみんなが受けているであろう故郷の組織のバックアップに当たるものは、一切受けられていない。それは事実だったが、まだ出会って間もないみんなに知られるのは情けなかった。リーダスタは、うーん、と唸った。
「つーか、俺もはっきりとは聞いてないかも……? チャスク、どっかでアナウンスってちゃんと聞いた?」
「……聞いてない気がする」
「うーん、ガルシアでは常識だから、気ぃ留めてなかったなあ」
「そっか、知らない……よねえ、それは……そっか……」
「実技試験は、新入生の力量を測るためのものだと聞いてる」
グスタフが説明を始めてくれた。やはり親切な人だと、ラセミスタは思う。
「そもそも高等学校で授業を受けることはないぞ」
「え?」
「高等学校のカリキュラムは独特なんだよ。一年のうち校内にいるのは三分の一くらいしかないんだってさ」
「ええっ」
「外に出て、課題をこなす。課題を提出して合格すると、点数がもらえる。どんどん課題をこなして、定められた点数を無事に貯め、春を迎えると二年生に上がる」
「……貯められなかったら、」
「そこで退学だ」
「ひい……」
ぞっとする。ラセミスタは、魔法道具に関する課題しか受けられない(ほかの課題を取ったって点数がもらえるはずがない)。いろんなジャンルの課題を取ることを前提に点数や出題が調整されていたら、進級なんて無理だ。
「しかし、高等学校の先生たちも鬼じゃない。そのために設定されているのが今日から始まる実技試験だ」
グスタフは穏やかな口調で続けた。リーダスタがうんうんと頷く。
「今日から始まる試験はね、さっきグスタフが言ったけど、新入生の力量を測るためのものなんだよ。課題によってはリストガルド最大の火山、ヴェロキア山の火口まで行って、そこにしか生えない鈴音草の生態を半年間に渡り調べるとか、そういうのもあるわけ。もちろんそれができる奴もいるけど、普通の人間は無理じゃん? どう考えても無理な課題を間違えて取っちゃったりしないように、実技試験の成績に応じて、取れる課題が制限されるんだ。で、できそうな課題とか、頑張れば無理じゃなさそうな課題とかが多めに出題される。そうやって調整してもらえるわけ」
「そっか……」
それなら少しは気が楽だ。進級は難しそうではあるものの、絶望的という事態にはならないで済むだろう。ラセミスタはホッとした。




