薬草学(1)
マリアラに話したいことが山ほどたまっている。
彼女は元気だろうか。彼女の手紙は、いったいどこで足止めを食っているのだろう。
ガルシアに来てから、朝起きる時ちょっとだけ気が重い。
今までずっと間借りしていた王立研究院の客室は、部屋の作りが【魔女ビル】の自室に似ていたのだ。
二人部屋を一人で使わせてもらっていたからだろう。カーテンで仕切られた風景が、マリアラと同室のあの部屋に似ていた。目を覚ますといつも錯覚してしまった。もしかして全部夢だったのではないか。長い長いリアルな夢を見ていただけで、本当はあの恐ろしい事件も何も起こっていなくて、ラセミスタの左遷も起こっていなくて、カーテンを開けたらマリアラが寝ぼけ眼をこすっていて、おはようって、笑いかけてくれるのではないか。ごめん、寝ぼけてて、声かけずにカーテン開けちゃって。そう謝ったら、マリアラはきっと笑ってくれる。そしてもう一度カーテンを閉めて、今日の朝ご飯は何だろうねとか話しながら、着替えとベッドメイクをする。そんな期待を抱いてしまった。――ありえないってわかっていたのに。
しかし今日はそんな淡い期待を抱かずに済んだ。天井の様子が、ぜんぜん違うのだ。
目を開けると足元の天井に、鉄格子のはまった丸い穴が空いているのが見える。換気ダクトだ。あんな風にむき出しのまま設置するなんて、エスメラルダでは絶対にあり得ない。道理で隙間風が通ると思った。試験が一段落したら、何らかの対処をすべきだろう。
まだ薄暗かった。明け方になるかどうかという時分だった。右側に、ベッドを隠すための、天井まで届くついたてが見える。左側にはベッドの側机、それからカーテン――間仕切りのためではなく、窓を隠すためのもの――その向こうの壁に、制服が掛かっていた。足の先にはバスルームの扉。
そして決定的に違うのはもちろん、ラセミスタのすぐ隣で丸くなって眠る、あの白い生き物の存在だ。目覚めて現実を把握するその瞬間から、ここは錯覚の余地もなくガルシアの高等学校の寮だった。ありがたい、と思う。
生き物はすうすうと寝息を立てていた。昨夜と全く変わらず、ああなんて可愛らしい生き物だろうか。手を伸ばしてその毛皮にそっと触れた。万一にも起こさないように、細心の注意を払って。
今まで小動物とふれあったことは一度もなかった。そもそも動物自体あまり目にしたことがない。自分がこんなに小さな生き物が好きだったなんて、今まで一度も知らなかった。ぬいぐるみを愛でたこともなければ、人形遊びに興じたこともなかったのに。
授業を受けている間、ここでおとなしくしていてくれるといいのだが。
何か、かごとかに入れた方が良いだろうか。いや、かなり賢いみたいだとリーダスタが言っていたから、言い聞かせればわかってくれるだろうか。食べ物と飲み物を準備していけば良いだろうか。ケガをしていると言っていたから、あんまり動き回らないでくれると期待するしかないのだが。
生き物は一向に起きる気配がなく、ラセミスタの眠気もまだまだ残っていた。起きるには早い時間だし、もう一眠りしても良いだろう。そう思って、再び目を閉じたとき。
かち。
音が鳴った。ラセミスタは頭をもたげた。
聞き覚えのある音だった。いやまさか、と思う。初日からまさか。そんな。
ずん。
腹の底に響く振動を感じて、今度こそ飛び起きる。間違いない、安全装置が作動したのだ。――まさか本当に作動する日が来るなんて!
フェルドとダニエルが絶対に毎晩仕掛けろ絶対に忘れるな、と何度も何度も言っていた安全装置が、作動するときは、まずはじめに地響きを感じさせるようになっている。ダニエルはペンキを入れろと言い、フェルドはガラスの欠片を入れとけ、と言っていた。ガラスの欠片はさすがに危険すぎるから、代わりに柔らかなシリコン素材と忠告どおりのペンキを入れておいたのだが、それでも至近距離から浴びせかけるのは気が引けたからだ。当たり所が悪ければ失明する恐れだってあるのだ。地響きが鳴ればたいていの人は後ずさりする、もしくは尻餅をついたり飛び退いたりと言った、何らかの回避行動を取るはずだ。これで引き下がってくれればいいのだが、
しかしそうはいかなかった。どーん、という想定通りの音を立てて、扉が吹っ飛んだ。
わあああ、狼狽の声が複数、聞こえる。万一踏み込んで来られたら、いろいろと差し障りがありすぎる。小さな生き物も目を覚ましていたが、リーダスタの言ったとおり、やはりかなり賢いらしかった。ラセミスタを見ながら、じっと成り行きを待っている。
「おはよう、ごめんね、ちょっとじっとしてて。見つかると大変だからね」
囁いて、その生き物の上に掛け布団を掛けた。窒息しないよう隙間を空ける。生き物は本当に賢いようで、声も立てず、じっとしている。ラセミスタは安心して、急いで着替えた。制服がちゃんとハンガーに掛かっていたおかげで、着替えも素早くスムーズにすみ、消臭スプレーのお陰で、昨日の豪華なお昼ご飯の残り香に心を悩ませる手間も省けた。マリアラは偉大だ、と思う。
ついたての陰から覗くと、扉のあった場所にぽかりと四角い穴が開いていた。その向こうに尻餅をついているのは二人の若者だ。緑のペンキとキラキラ光るシリコン素材を山ほど浴びて、人相もわからないくらいになっている。扉のすぐそばにもう一人、座り込んでいるようだ。ラセミスタは振り返り、生き物が出てこないことを確かめてから、廊下に出て行こうとして。
「……にやってんだお前らー!!!」
リーダスタの怒鳴り声にぎょっとした。朝まだき、かつ少女の口から出るにしては、かなり差し障りのある罵声だった。
ラセミスタが廊下を覗くと、新入生たちが続々と部屋から出てくるところだった。リーダスタは部屋着の上に上着を羽織った服装プラス裸足で、らんらんと目を光らせて廊下に仁王立ちになっていた。ペンキを山ほど浴びた二人は慌てて立ち上がり逃げようとしたが、
「警告、動くな!」
リーダスタに鋭く叫ばれて足を止めた。彼女は激怒していた。動きを止めたペンキまみれの二人をじろじろ睨んで、それからこちらを見た。正確には、ラセミスタの足元だ。
「……んでお前も動くな。えっと、ミンツ、だったっけか」
そこでラセミスタは、自分の覗いている扉のすぐ横の壁にへばりつくようにして座り込んでいる若者を見つけた。
確かにミンツだった。ミンツはあまりペンキを浴びていなかった。顔に点々とペンキが散っていて、どうやら扉が開く前からこの体勢でいたらしいことがわかる。
「たの、頼む。見逃してくれ」
警告、と言われてからずっと金縛りに遭ったように立ちすくんでいたペンキまみれの若者が、かすれた声で言った。リーダスタは、はっ、と嗤った。
「見逃せるわけないだろ。あんたら新入生、じゃ、ないっぽいよね。まさか上級生? 高等学校生ってこんなレベルなんだ、ほんっとうに軽蔑したよ」
「ちが、違う。違うんだ」
ペンキまみれの二人はきょろきょろと逃げ場を捜したが、すでに廊下には新入生が大勢集まっていて、隙間をすり抜けて逃げるのは少々難しそうだった。と、手前の若者がこちらを見た。ラセミスタを見て、ああ、と何か納得の声を上げる。
「……えっとあのその」若者は必死の声で言った。「こ、こここれには深いわけが――」
「ちょっと通して。通して頂戴」
深みのある女性の声が新入生の人垣の向こうから聞こえ、ペンキまみれの二人は硬直した。緑のペンキ越しにも顔から血の気が引くのが見えるほどだった。
人垣がざっと分かれて、そこから登場したのはエルザだった。
昨日の、慈愛に満ちた優しい寮母の面影は、今はどこにもなかった。この人は本当にエルザだろうか、とラセミスタは考えた。寮母と言うより、まるで氷の女王のようだった。早朝に駆けつけたにもかかわらず、彼女の衣服もまとめられた髪にも、一筋の乱れも見られなかった。
身につけているのは簡素なワンピースなのに、どうしてだろう、まるで豪奢なガウンを羽織っているように見える。
彼女は、堂々たる足取りでつかつかとこちらにやってくる。その鋭いまなざしは、ペンキまみれの上級生ふたりにぴたりと据えられている。上級生が固唾を飲むのが聞こえる。へなへなと彼らの足から力が抜けて、二人はその場に膝をついた。まるで女王の許しを請う罪人のように。
「あああエルザ」かすれた声がひとりの学生の口から漏れた。「こ、こんな朝早く、なぜ――」
「それはこちらの台詞です」
エルザが発した声は、周囲すべてを凍り付かせるような冷たさだった。昨日聞いた優しい声と同じ口から出ただなんて信じられない。ラセミスタでさえ固唾を飲みたくなるほどの、痛いほどの怒りの気配。いたたまれない。
「ミンツ! なにやって、」
ポルトの声が言った。新入生の人垣はエルザを通したあと元どおりに閉じていた。その向こうから、ポルトの整った顔が覗いている。と、エルザが振り返った。たったの一瞥――ラセミスタの位置からはその一瞥は見えなかったが、ポルトの顔が青ざめたのは見えた。黙って下がっていろと視線で言われて、ポルトは黙った。あの王子様が誰かの視線で黙らされるなんて、昨日までは想像もできなかった。
その鋭い一瞥を、彼女は再びこちら側に向けた。ペンキまみれの上級生二人は、すでに正座の姿勢だった。
「おはようございます」
底冷えのする声でエルザは言った。
「こんなに朝早くから、ここで何をしているのです」
「え……ええと……」
上級生ふたりは顔を見合わせた。
また、いたたまれない沈黙が落ちる。エルザの放つ威圧の冷気は、時間の経過に従い、しんしんと深まっていく。
――あの子を捜しに来たのだろうか。
ラセミスタはそう考えていた。今もラセミスタの部屋の中でおとなしくしている、あの賢く白い、謎めいた生き物のこと。
昨日新入生たちは、あの子を捕まえるためにかなり大騒ぎしたようだから、別の階に聞こえていても不思議じゃない。それで、あの生き物を取り戻しに来たのだろうか。しかしラセミスタの部屋にあの子がいることまで知られているとはちょっと考えにくい。発信器はウェルチが捨ててきてくれたはずだし、いったいどうやって知ったのだろう。あの子には、もしかして、他にも発信器が付けられていたりするのだろうか。
しかしミンツまでがここにいるのはなぜだろう。
ミンツはいったい、ここで何をしていたのだろう。
この上級生とは別の目的であろうという気がする。体勢も居場所も、ペンキの浴び具合もぜんぜん違う。だとしたら、ミンツの目的はあの白い生き物ではないということになる。いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
と、
「ラセル」
優しい声をかけられて、ラセミスタははっとした。エルザはラセミスタを見て、つり上げていた眉を少し下げた。
「おはよう。朝から騒がせてごめんなさいね。ケガはなかった? 大丈夫?」
「え、ええ。それは大丈夫、です、けど……」
「本当に災難だったわね。でもあなたが心配することは何一つないから大丈夫よ。この人たちは、あなたに対して本当に卑劣な振る舞いをしようとしたの、でも」
うつむいていたミンツが顔をあげた。
「誤解です」
か細い、しかし必死の声音だった。エルザの眉毛が跳ね上がった。
「誤解? まだ夜も明けやらぬ時刻に人の寝室に乱入しようとしておいて」
「僕はしていません。僕は、その、……ただ、部屋の前で待っていただけなんです。本当です。ただ、ただ、空島の話をもっと聞きたかった……」
彼の必死の声には真実味があった。ミンツのかぶったペンキはごくわずかで、顔以外は彼の右側面に集中しているということも、その証言を裏付けた。エルザもそう思ったらしい、ミンツを見る視線が少し威圧感を減らしている。続いて出た声も、少し和らいでいた。
「人を訪問する時間じゃないと言うことはわかっているでしょ」
ミンツはうなずいて、そのまま頭を垂れた。
「わかっています。ただ……朝食前に、少しでも、話をしたくて……。僕、僕、エスメラルダの空島の話を記事で読んで、計算してみたことがあって。どんな島なんだろう、どんな技術なんだろうって、ずっと憧れで、だから、聞きたくて……ここで待ってるしかなかった」
ラセミスタはなんだか胸をつかれた。確かに昨日、ミンツはとても熱のこもった口調で、空島について訊ねていた。ポルトの許可を得ずに発言したせいで、ポルトにとても冷たい目で見られて、ラセミスタまでいたたまれない思いをした。だからミンツはもはやポルトのいる場所でラセミスタに話しかけてくることができなかったのだろう。ゆえに、ポルトのいない時間に直に話せるチャンスをさがした、その気持ちは痛いほど理解できた。
イーレンタールがラセミスタにとってはそうだったのだ。
ずきりと胸が痛んだ。イーレンタールがラセミスタの理想の太陽ではなかった――そう知ったときの衝撃は、まだまだ根深い。
魔法道具を究めるという道を選び初めて間もなかった頃、イーレンタールの存在を初めて知った頃。イーレンタールはラセミスタにとって理想の人だった。まだごく若いのに、すでに天才と呼ばれ、数々の偉業を成し遂げていた。イーレンタールが実在すると知ってから、会いたくて会いたくて、話が聞きたくてたまらなくて、胸を焦がすような思いをした。記者会見の会場に潜り込もうとして寮母に叱られたこともある。
エルザにもそんな渇望がわかったのだろうか、彼女のつり上げた眉は大分下がっていた。ミンツはエルザを見て、言葉を継いだ。
「それで、ここで待っていたら、あの二人がやってきて……止める間もなくドアノブに手をかけたんです。そしたら、……こんなことに」
上級生二人が必死の声を上げた。
「あのっ! 俺もそうです、エスメラルダの魔法道具の技術をただ見せてもらおうとっ」
「エスっ、エスメラルダの話とかっ聞きたくてっ、なあっ!?」
「ミンツ、顔を洗っていらっしゃい」
エルザは上級生二人には一瞥もくれなかった。そっと歩み寄り、ミンツの肩に手を添えて、立ち上がらせた。
「話をしたいなら、試験が終わるまでお待ちなさい。朝まだきに誰かの部屋の前で待つなんてとても不躾な行いですよ。考えてご覧なさい、よく知らない誰かが自分の部屋の前で自分が起きるのを待っているなんて。恐怖以外の何物でもないわ、そうじゃない?」
「は、はい。……すみません……。ごめん、ラセル」
ミンツは半泣きだった。いえいえいえ、とラセミスタは手を振る。こちらの方が謝りたいような気持ちだった。いったい何が起こるのかをよく考えもせずに安全装置を仕掛けたせいで、空島の話をしたかっただけのミンツを、こんな目に遭わせてしまうなんて。
「そんなのいいんだよ、ぜんぜん気にしてないから。エルザ、あの、そのペンキは普通に洗っただけじゃ取れないんです。まさかその、この備えが発動する日が来るなんて思わなくて――ちょっと待ってください、専用洗剤がありますから」
「それには及びません」エルザはきっぱりと言った。「それ相応のことをしたのですから、しばらくこのままでいるしかありません。人体に害はないのでしょう?」
「えっ」まさか断られるとは。「ええ、害はないですが、でも、」
ミンツは扉の正面にいたわけではないが、爆発の瞬間にそちらを見ていたからだろう、顔の正面にポツポツと緑のペンキがかかっている。制服は着替えれば済むとしても、顔は取り替えるわけにはいかない。
しかしエルザは頑なに首を振る。
「気の毒だけど、ラセルの部屋の扉を持ち主の許可なく開けたらこうなる、と言うことを、高等学校全体に知らしめる良い機会です。試験が終わって空島の話をするときに、その専用洗剤とやらをミンツに渡してあげてちょうだい。それまでこのままでいる、ミンツの戒めにはちょうどいいわ。さ、皆さん、朝の身支度に戻りなさいな。お騒がせして申し訳なかったわね」
エルザはぱんぱんと手を叩き、ミンツの背をそっと押して、自分の部屋の方へ押しやった。そんなあ、とラセミスタは考えた。ミンツは何も悪いことをしたわけじゃないのに、むしろこちらがひどい目に遭わせてしまったというのに、ペンキを落とすことも許さないなんて、あまりに厳しすぎはしないだろうか? ミンツがこれでは、上級生二人の方は、一体どんなペナルティが科されるというのだろう。




