入学式(12)
小さな毛むくじゃらの生き物だった。初めて見た――しかしどことなく既視感のある、純白の毛皮。真っ白の体毛の隙間から、つぶらな瞳がふたつ覗いている。
その瞳を見た瞬間、ラセミスタはよろめいた。
「か……っわいいぃ……っ」
まるで普通の少女のような、悲鳴に似た声が口から勝手に漏れた。
自分にこんな情緒があったとは。
新しい発見である。
「な、何、あれ!? なんて生き物!? この大陸固有の生き物なの!?」
「エスメラルダの方にもいないんだ?」
リーダスタが訊ね、ラセミスタは一瞬迷った。どこかで見たことがあるような――気がする。
しかし、その正体にすぐ思い至るほど、なじみのある生き物ではないことは確かだ。視線を外すことがどうしてもできなかった。ふわふわとした毛はいかにも触り心地が良さそうで、またサイズも両手の平に収まるサイズという小ささで、まるでぬいぐるみのように愛らしかった。
「すっごく可愛い……!」
呻くと、リーダスタがニッと笑った。
「だよね!」何か吹っ切れたように彼女は言った。「可愛いよね! ほんと可愛いよね……っ!」
「うんうん! 触りたい!」
「だよねー! でもケガもしてるみたいだし、怯えきってるし、向こうから寄ってくるまで無理に捕まえるのはやめた方がいいと思うんだ。それで餌付けしかないって話になって」
「そっか。どれなら食べるかなあ?」
二人はその場にしゃがみ込み、四つのパックを並べた。鴨肉、は、結構香辛料が利いていた。ソーセージやジャガイモのパイのようなものも、かなり塩気があった。猫にはネギ類やチョコレートが良くなかったはず、というような、漠然とした知識はあったが、この子は大丈夫なのだろうか。安全そうなのは、マッシュポテトくらいだろうか。そう思ったとき、リーダスタが息を吸った。
よろよろと、生き物がこちらに近づいてきていた。
とても空腹のようだった。ラセミスタは、できるだけ落ち着いた動きを心がけながら、そっとマッシュポテトの入ったパックを生き物の方に差し出した。生き物はよろけて、そして数歩走った。そのまま顔ごとマッシュポテトの中に突っ込んだ。
「落ち着いて……!」
ささやき声を気にする様子もなく、生き物はガツガツとマッシュポテトの山に食らいついていた。リーダスタがすぐそばで、息を詰めるようにして生き物を見ている。ラセミスタも生き物に視線を戻し、そのまま目を離すことができなくなった。生き物は一心不乱に食べていた。うにゃうにゃ、うみゃうみゃ、というような音が口から漏れている。どんなにお腹がすいていたのだろう、そう思うとなんだか泣きそうになる、そんな食べっぷりだった。ケガをしていて、その上飢え死に寸前と言うほど空腹で、どんなにつらくて苦しかっただろう。
マッシュポテトの塊を蹂躙し、下から現れた鴨肉に生き物が食いついた。辛いのも気にせず噛みつき、引きずりあげ、引きちぎるように振る。
「……あれ……」
その瞬間、毛皮に埋もれていた金属がチラリと見えた。真っ白な毛皮に埋もれてよく見えないが、小さな生き物の喉にしっかりとはめられたそれは、いかにも窮屈そうに見えた。ラセミスタは手を伸ばし、そっと生き物を抱き上げた。生き物は意外なほど冷たかった。もの凄く豪奢な手触り。
「触れるじゃん……!」
リーダスタが抑えた声で悲鳴を上げる。生き物は食べるのに夢中らしく、ぜんぜん暴れなかった。ラセミスタはパックを引き寄せ、膝に乗ったままその子が食べられるようにしてやった。それにしても、何というゴージャスな手触りだろう? とても冷たい。生き物の体温がぜんぜん感じられない。小動物というのはもう少し温かいものだと思っていたが、そうでもなかったらしいとラセミスタは思う。何にせよ、小動物とふれあうのはこれが生まれて初めてだ。
「ずいぶん偉い子だねえ」リーダスタは感心したようだった。「食べてるときに邪魔されて怒らないなんて」
「リーダスタ、ちょっとここ持って」
毛がふわふわ過ぎて、かき分けてもかき分けてもすぐに落ちてきてしまう。リーダスタが毛を押さえてくれて、やっと首輪のつなぎ目が見えた。金属はかなりがっちりとはまっていた。指が入る隙間もほとんどないほどだ。こんなはめられ方をしたら苦しいだろうに、はめた人はその程度のことを考える想像力もないらしい。
リーダスタが呟いた。
「首輪……」
「首輪というか、発信器が付いてる」
ラセミスタはそう言い、ポケットから小さなケースを取り出した。こちらに来るときに、マリアラとフェルドがプレゼントしてくれた工具入れだ。コンパクトだが、とても高級なものだった。発泡ウレタンの切れ目にラセミスタ愛用の工具を全て、きちんと収納できるようになっている。
「発信器!?」
カルムが声を上げ、リーダスタがすかさず言った。「来るなってば!」
「いやでもお前、発信器って、」
「見ただけでわかんの? すごいねえ」
「うんでも、あんまり性能がいいものじゃない、みたい、だけど……」
継ぎ目は少し複雑になっていた。生き物が万が一にも自分で取ってしまわないよう工夫が凝らされている。しかしもちろんラセミスタの敵ではなかった。数秒もしないうちに外れ、生き物は、解放感のためか、一瞬食べるのをやめて体を振った。ラセミスタは生き物を膝に乗せたまま、しげしげと首輪を見る。
「持ち主につながる手がかりはなし、と……首輪だけじゃなくて発信器まで付いてるとなると、結構大事に飼われてるってことだよね、」
「それどの程度までわかるんだ!?」
みんなの形相が変わっているのに今さらながらに気づいてラセミスタはぎょっとした。リーダスタによって厳命された彼らは近づいてこそこないものの、こちらに詰め寄りそうな形相だった。救いを求めてリーダスタを見ると、彼女は深刻な顔をしていた。ラセミスタはゴクリと唾を飲む。
「えっとこれ、どうしよっ、か……」
「ラセルはさっきいなかったんだもんね」リーダスタは真剣な声で言った。「あのね、ラセル」
「ラスって呼んで」
遮るとリーダスタはちょっと驚いたようだった。「え、え?」
「仲良くなった人にはみんなそう呼んでもらうことにしてるの。ちょっとホームシックに罹りそうだから、ラスって呼んでもらわないと泣いちゃう」
「あ、ああ……そう、なの? ラス?」
「うん」
「そっか、ラスね」リーダスタは真面目に頷いた。「それでラス、この生き物なんだけど、ラスはどうするのがいいと思う?」
リーダスタは居住まいを正した。
「……毛皮を剥いで高値で売るのがいいと思う?」
ラセミスタは呆気にとられた。「……はい? 毛皮?」
「うん、隠してもしょうがないから言うけど、この子の毛皮はね、すごい高値で売れるんだって。それも、ちょっとしゃれにならないくらい、ものすごい高値で売れるんだって。一生遊んで暮らせるくらいなんだって。あんまり現実味がないなってさっきまで思ってたけど、こうして発信器まで付けられてるとなると、確かに相当の高値で売れるんだろう。
だからね、ラス、選択肢は三つだ。ひとつ、ここでみんなでこの子を殺して毛皮を剥いで利益を山分け。ふたつ、発信器の持ち主に返す。みっつ、しばらく匿って、安全なところに連れてって、放してやる」
ラセミスタはちょっと考えた。
一つ目はあり得ない。だってこんな可愛らしい生き物を殺して毛皮を剥ぐなんて、どう考えても絶対にダメだ。二つ目はどうだろう。発信器を付けたのは誰なのだろう。発信器を付けたと言うことは、絶対に逃がすつもりはないと言うことだ。かなり窮屈に締め上げていた付け方を考えても、持ち主がこの子に思いやりを持っていないことは明らかだ。ラセミスタはジェムズを見た。ジェムズも今は新入生たちの間に立ってこちらを見ている。
「ジェムズさん。さっき、何か、軍人……さん? みたいな三人が、うろうろしてました……よね……?」
訊ねるとジェムズは深刻な顔で頷いた。グスタフがジェムズに訊ねた。
「軍人だって?」
「いや、平服だったから……体格からして軍人っぽいなって思っただけで、実際軍人かどうかは。でも何か小さなものを捜すみたいに、草むらを見て回ってた」
「この子を捜してたのかな」
ラセミスタは膝の上の小さな生き物に目を落とした。発信器の持ち主にこの子を返したら、この子はどうなるのだろう。毛皮を剥いで、高値で売るのだろうか。ラセミスタは身震いをした。
さっきヴァシルグのことを思い出したばかりだ。
皮を剥いで剥製にしてやるとあの男は言った。
――それは確かにわがままだったのかもしれないけど。
いつか言った自分の言葉を思い出す。マリアラがこの子に会ったら、どの道を選ぶだろう。そんなこと、考えてみるまでもなくよくわかっている。
「……しばらく匿って安全なところに連れて行って放してあげるのがいいと思う」
ラセミスタがそう言うと、リーダスタは、うん、と頷いた。彼女はそして、にっこり笑った。まるで大輪の花が咲くような、とても晴れやかな笑顔だった。
「だよね! そう思うよね!」
「一応聞くけど」チャスクが新入生たちを見回すようにした。「反対の奴は混じってないよな?」
おのおのみんな頷いた。カルムが一歩前に出た。
「それで、発信器だけど」
「そっか。それ壊さないとここにいるのがばれちゃうよね」
リーダスタがそう言い、ラセミスタは少し首をかしげた。
「うーん、でもこれ、そんなに精度が良くないと思うんだよね……。大まかな方角と距離がわかるかどうかってくらいじゃないかな。そもそもこれ、発信器として使われてるのかなあ?」
「いや発信器って言ったのラスじゃん」
「ふふ、そうなんだけど。これ、たぶん、個体識別用シグナルを発信するだけのものみたい。結構弱いものみたいだけど、ああ、でも、受信機の精度がいいかもしれないしなあ」
「ラス、壊せる?」
「いや壊すのはダメだ」とカルムが言った。「ここで壊したら、ここにその子がいるって宣伝するようなものだろ」
「じゃあ俺捨ててくるよ! 任してくれ!」
ウェルチが進み出た。とても大柄なウェルチはとても楽しげで、とにかく生き物に近づきたくて仕方がなかったようだった。生き物の様子を窺いながら、すすす、と近づいた。生き物の食欲はもう大分なだめられたらしく、今は毛繕いをしていた。ラセミスタの膝から降りる様子はない。はい、と大きな手のひらが差し出され、ラセミスタはそこに発信器を載せた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
「いえいえ、どういたしまして。ついでにさ、ちょっと触ってもいいかな、いいよね? ちょっとだけだからさあ」
言いながら手のひらを生き物に伸ばした。毛繕いをしていた生き物は、ウェルチの手が近づいてくるのに向けてカッと口を開けた。意外に鋭い牙が見えた。ウェルチはすごすごと引き下がる。
「行ってきます……」
「よろしくね~。しょうがないよ、ウェルチは真っ先にあの子脅かした張本人だもん」
リーダスタはそう言い、俺は大丈夫だよね、と言いながら生き物の前に手を差し伸べた。生き物はじっとリーダスタの手を見て、しばらく悩んでいるようだった。ややしてそこに、前足をそっと載せた。リーダスタは感に堪えないという顔をした。
「……抱っこしていい?」
リーダスタは両手の平を上に向けて、生き物を誘った。
ところが、生き物が何らかの行動を取る前に、階下からウェルチの大きな声がした。
「よう、祝賀会は終わったのか?」
少々不自然なほど大きな声だった。首都出身の者たちが戻ってくるのに行き会い、こちらに警告を発してくれたようだった。リーダスタはぱっと立ち上がり、「急いで!」とラセミスタに囁いた。
「あいつらが戻ってきたら大変だ。今夜はラスの部屋で寝かしてやって。言うまでもないけど、首都の奴らにはその子のことは絶対秘密だからね」
「え、あ、あ、……うん」
地方出身者と首都出身者の間のわだかまりは、今日一日でかなり深刻になってしまったらしい。ラセミスタはリーダスタに追い立てられて、生き物を抱えて立ち上がった。あまり対立が深まらないといい、とは思うが、この子を捜していたあの体格のいい軍人(?)たちのことを考えても、存在を知る人間は少ないにこしたことはない、という理屈もわかる。
ラセミスタの部屋は廊下の反対側、一番端だ。小さな生き物は、ラセミスタの両手の中ですっかりくつろいだ様子だった。持てなかった食べ物のパックはチャスクが回収してくれたらしい。グスタフやカルムや他の学生たちは談話室に入っていき、リーダスタが囁いてきた。
「さっきあそこでこの子捕まえるのに大騒ぎしたからさ、怪しまれないように整えとかないとね」
「そっか……」
「その子頼むね」ぽん、とリーダスタはラセミスタの背を叩いた。「ケガもしてるし飢え死にしそうなほど腹減らしてたし、すごく疲れてると思うんだ。ゆっくり寝かせてやって」
「うん」
リーダスタはラセミスタの部屋の三つ手前の部屋の前で立ち止まった。彼女の部屋はここらしかった。彼女には、と、ラセミスタは考えた。グスタフたちは、彼女にも“同じ寮なのか”と何度も聞いたのだろうか。
「お休み、リーダスタ」
囁くとリーダスタは、うん、と頷いた。
そして、微笑んだ。
「エスメラルダはいい国だね」
「えっ?」
「今日、すごくそう思った。お休み、ラス。早く入って、首都の奴らが来ないうちに」
「……うん」
確かに階段の方から大勢がやってくるような音がしている。談話室の見回りを終えた新入生たちも次々に廊下に出てきて部屋に戻っていく。ラセミスタは急いで自分の部屋の扉を開けた。個室はとても狭かったが、なかなか居心地が良さそうだった。
小さなテーブルと、椅子がひとつ。その奥についたてが置かれ、その向こうはベッド。右手の壁は、カーテンで覆われている。ラセミスタは枕の上に生き物をそっと載せた。丸くなって、もうすっかり眠り込んでいた生き物は、枕の上でもぞもぞして、居心地良く丸くなり直して、自分の前足とお腹の隙間に鼻先を突っ込んだ。可愛いな、と、ラセミスタは思った。あくびが出た。荷ほどきをしなければならないが、そんな余裕もほとんどないほど疲れていた。
カーテンを開けてみると、そこにはシャワーブースと、トイレと、小さな洗面台が隠されていた。スーツケースを開け、洗面用品を出し、シャワーを浴びようとして、
――絶対忘れるな。部屋に入ったら真っ先に仕掛けろ。
フェルドとダニエルの厳命を思い出し、ため息をついた。フェルドはラセミスタの性格をよくわきまえていて、防犯装置は段ボールに詰めずにスーツケースの一番目立つところに入れろと言い、入れるまで見張っているという徹底ぶりだった。小さく縮めているので邪魔ではなかったが、受験勉強のさなかにもスーツケースを開けるたびにフェルドとダニエルの心配性を思い出して苦笑していたのだが――いよいよそれを取り出して、セットする日が来たというわけだった。
「面倒くさいなぁ」
しかし今夜は仕方がない。あの小さな生き物を捜して、軍人(?)たちが夜中に乗り込んでこないとも限らないわけだし。
窓と扉に防犯装置を仕掛け、シャワーを浴びたらもう、荷ほどきなんて考えもできないほどくたくただった。それでもマリアラの薫陶を思い出して脱いだ制服をハンガーに掛け、消臭スプレーをかけ、一大任務を終えた達成感と共にベッドに倒れ込んだ。枕の隅っこに頭をのせて、明かりを消して、薄明かりの中でゆっくりと上下する小さな生き物の毛皮を眺めた。
おかげさまで、ホームシックもヴァシルグの記憶も、どこかへ飛んでいったようだった。なかなか幸先がいい、と、眠りに入る寸前に考えた。少なくとも、初日から完全に孤立して、みんなから阻害されて、誰とも会話を交わさないような、そんな事態に陥ることだけは免れた。
高等学校の寝台はなかなか寝心地が良かった。ラセミスタはあっという間に眠りに落ちた。




