入学式(9)
リーダスタは新入生なので、寮の最上階まで階段を上らなければならなかった。
高等学校の寮は意外に質素だ。この建物が、貴族の子息だけが通っていた時代に作られたとはちょっと信じがたいが、それが事実だ。建物全体は堅牢な石造りだ。が、絨毯などは敷かれていないし、ホールからシャンデリアが下がっているということもなかった。それでも間口はたっぷりとられていて広々としていた。リーダスタが住んでいた家に比べると天井がとても高い。それ故に階段も長い。満腹の胃を抱えてえっちらおっちら果てしない階段を上っていく。新入生たちがチラチラとこちらを窺っているようなのが少々解せず、不快だったが、あまりに満腹で、また一日の疲れがどっと出てきていて、その不快な視線にいちいち目くじら立てるような心境でもなかった。
ようやく階段を上がりきる。高等学校の正式カリキュラムは、ほとんどずっと外に出て、旅をして、戻ってきてもしくは旅先でレポートを書く、という流れの繰り返しだと聞く。確かに調査などでヘトヘトになって帰ってきた後にこの延々たる階段を上らなければならないのはつらいだろう。一番立場の弱い新入生は一番上に追いやられるという理屈もわかる。
「はー……腹いっぱい」
踊り場で思わずつぶやくと、周囲から同意の声が上がった。アルゴー教官にめちゃくちゃに食べさせられていたエスメラルダの留学生は大丈夫だろうか。そういえばさっきから姿が見えない気がする。振り返ってざっと見ると、グスタフやウェルチ、チャスクといった、地方出身の新入生たちの概ねは一緒にいるが、やはりラセルはいないし、ジェムズの姿も見当たらない。どこ行ったんだろう、そんな疑問がぽつんと浮かぶ。
踊り場を抜けて廊下に出る。広々とした廊下が南北に貫き、その両脇に、個室がずらりと並んでいる。リーダスタが割り当てられた個室は、この階段を右に出た少し先に作られた、談話コーナーのさらに少し先だ。
談話コーナーは広々とした空間になっていた。部屋にはごく最低限の給湯設備しかないが、談話コーナーにはちゃんとしたキッチン設備が備えられていて、食堂の開いている時間に帰ってこられなかった時にはここで食事を作ることができる、と、さっき説明を聞いたばかりだ。キッチンは、かなり大きかった。厨房設備と言っても良さそうな広さがあった。冷蔵庫も何台かある。トラブル回避のために、初めに使い方を話し合って決めた方が良いと忠告も受けたが、首都出身の者たちと意思疎通を図るのは大変そうだ。というか、面倒だ。どうせあいつらはまだ“祝賀会”とやらに繰り出していて戻ってきていないようだし、明日からは数日試験が続くためにそんな暇はないだろうから、話し合いをするにしてもまだ先延ばしで良さそうだ――と思いながら自分の部屋の方に歩を進めようとする。と。
「……あれ?」
目の隅に、何かが見えた。ソファの下で、何かが動いたのだ。
「猫がいる……?」
「猫?」
先を行っていたウェルチが振り返った。ウェルチはかなり大柄な若者だ。いつもニコニコ笑っていて、あんまり可愛くはないが、親しみの持てる顔立ちをしている。
「猫ってどこに?」
「そこ、そのソファの下」
少し離れたところにランダムに配置されたソファは布張りで、柔らかそうだった。ウェルチはいそいそと談話コーナーの中に入っていった。小動物が好きそうな顔をしてるよな、と、リーダスタは考えた。少々ひがみっぽい気分だった。その図体のくせに猫が好きとか臆面もなく言えるのがムカつく、と、ウェルチが甘い声を出しながらソファの下にかがみ込むのを見ながら考えた。ごつい体格のくせして小さなふわふわした生き物を愛でるとかギャップ萌え狙いかよムカつく。お前みたいな体格の人間は俺が今までしてきた数々の苦労とは無縁で、だから脳天気に可愛いものを可愛いと愛でたりできるわけだよな、あーほんとしみじみとムカつく。神様は不公平だ。
「あっ」
ウェルチが声を上げた。しゃあっ。鋭い威嚇音をあげ、“猫”はウェルチの横をすり抜けて談話コーナーの開けた場所に飛び出した。猫――いや、ウサギだろうか? 真っ白な背から二対の翼のようなものが飛び出しているのが見えたが、よく確認する前にその生き物は違うソファの下に駆け込んでしまった。と、リーダスタの隣からグスタフが談話コーナーの中に足を踏み入れた。何だよお前も小動物好きなのかよその図体のくせして、とリーダスタは思う。グスタフはぐるりと談話コーナーを見回した。どこに何があるのかを把握しようとするような動きだった。と、手近なソファに手をかけた。ぽん、という音を立ててソファが縮む。
「あ、その手が!」
ウェルチが声を上げ、自分も目の前のソファを小さく縮めた。チャスクが、他の新入生たちが、続々と談話コーナーに入っていって仲間に加わる。次々にソファが縮められ、小さな生き物の隠れ場所が減っていく。何なんだこいつら、とリーダスタは思う。みんな楽しそうだった。腹いっぱいでヘトヘトで、やっと休めるところだというのに、次々に参戦者が増えていく。「そっちだ!」「あっちくしょー!」「そこそこっ、捕まえろ!」楽しそうだなあ、とリーダスタは思う。
部屋に戻っていた他の新入生たちまでが騒ぎを聞きつけて出てきていた。「何これ何の騒ぎ?」談話コーナーの入り口で傍観しているリーダスタに、新入生が声をかけてきた。「いやなんか、猫――っつーかウサギみたいな小さな生き物がさ」そう言うとそいつは、「えーそれ捕まえんの? 俺も混ぜろー!」楽しそうに参戦していく。出遅れた、とリーダスタは思っていた。なんだか、仲間に入るタイミングを逃してしまった。
今や談話コーナーの家具は全て小さく縮められ、小動物の姿はむき出しになっていた。あんまりすばしっこくて、その姿はほとんど残像にしか見えない。大柄な若者十数人の手をかいくぐり、ちょこまかちょこまか逃げ回る。と、それはついに談話コーナーからの脱出を図った。入り口にたたずむリーダスタの方に、まっしぐらにかけてくる。
――なんだこれ。
初めて真っ正面からその生き物を見て、リーダスタは呆気にとられた。
今まで一度も、見たことがない生き物だった。
ウサギの耳のように見えたのは、どうやら翼――らしい。体全体が真っ白で、大きさは両手の平に乗るくらい。つぶらな瞳。小さな丸い鼻。その二つ以外は本当に真っ白だ。毛皮がふわふわで、もの凄く触り心地がよさそう――
――めっちゃ可愛い……!
リーダスタはよろめきそうになった。目が合っただけで心臓をわしづかみにされたような気がするほど、その生き物は可愛かった。愛らしかった。大柄な若者たちに追い回されて恐怖におののくその目が、リーダスタに助けを求めている。ように見える。すげえ可愛い。抱っこしたい。なで回したい。
「リーダスタ、捕まえろ!」
チャスクが怒鳴る。リーダスタは両手を広げ、その生き物は、リーダスタの手の下をかいくぐり足の下から廊下に飛び出した。「あー!!!」みんなの怒号が上がる。
「何やってんだ! ちゃんと捕まえ――」
「うっせー!!」
怒鳴ってリーダスタは廊下に向き直る。やばい駄目だ自重しろ、長年の経験がリーダスタに囁いた。リーダスタは体が小さい。外見も、どうやら女っぽい。そして昔から、ぬいぐるみだの小動物だのレースだのフリルだの、可愛いものが大好きだった。自分が男であるという自覚があり、今まで好きになる相手は全員女性だったのだが――その内面とは関係なく、リーダスタの外見で可愛いものをおおっぴらに愛でたりすると、否応なしに迷惑なレッテルを貼られる、という苦い経験を、幼い頃から嫌になるほどしてきた。どんなに勉強して学年トップに君臨しても、スポーツや格闘技で成り上がっても、“可愛いものが好き”で“自分も可愛い外見をしている”と言うだけで、格下の存在であり虐げても構わないと思い込む単細胞のバカは、どこに行っても一人はいたもので。
ここにもきっといる。
いるに違いない。
――しかし。
「可愛いものを可愛いっつって何が悪いんだー!!」
長年の経験が囁く忠告をかなぐり捨てるようにリーダスタは走り出した。小動物はおびえきっている。それはそうだ、あんな大きな人間たちによってたかって追い回されては、可愛い可憐な生き物にとっては恐怖でしかない。ケガしたりもっと怖い目に遭わされたりする前に、優しく保護してやらなければ。
小さな生き物はとてもすばしっこかった。階段に逃げられる前に新入生が二人先回りしており、小さな生き物はそこを素通りした。と、少し先の扉が開いて、カルムが出てきた。生き物がその足元をすり抜けて行く。祝賀会は終わったのだろうかとリーダスタは思った。それとも、リーリエンクローン家では祝賀会はやらなかったのだろうか。リーリエンクローン家の跡取り息子は父親と折り合いが悪いというのはちょっと有名な話だ。それなら夕食に来れば良かったのに。
いや今はカルムの夕食事情についてかかずらっている暇はない。リーダスタはカルムの開いた扉の横を駆け抜け、カルムは呆気にとられた声を上げた。
「な、……何だ?」
「そいつ! そいつ捕まえろー!」
リーダスタの後から追いかけてくるチャスクがわめいている。追っ手がもう一人増える、とリーダスタは思う。長い廊下を走り続け、そろそろ廊下の端にたどり着こうとしている。リーダスタは足を止め、怒鳴った。
「止まれー!!」
「おっと――」
リーダスタの気迫に驚いたのか、それとも突如立ち止まったリーダスタに激突しないためだろうか、新入生たちは勢い余ってつんのめったりリーダスタの横に倒れ込んだりしながらなんとか止まった。リーダスタは周囲を見回した。生き物は行き止まりにへばりつくようにして毛を逆立てている。高いところに梁が見えているが、あそこに飛び上がらない限り、もう逃げ場はない。生き物の背中に、小さな翼が二本、ぴんぴんと背中から飛び出しているのが見える。飛べるほどの大きさはなさそうだ。威嚇するような姿勢だが、それでも最高に可愛らしい。
毛を逆立てて、けなげにも自分をできるだけ大きく見せようとしながら、生き物は震えていた。
おびえている。
不思議な瞳の色をしていた。様々な色が大理石のように渦を巻く、とてもきれいな瞳だった。
「あのさあ、」
声を整えて、リーダスタは言った。
「こんな風に大勢で追いかけ回したら恐怖以外の何物でもない、そりゃおびえるのが当たり前だろ。可哀想だと思わないの? この子捕まえて、まさか食う気じゃないんだよね?」
「いや食うわけないだろ」チャスクが突っ込んだ。「捕まえて、そりゃ、その、その、……えー、外に逃がしてやろうと……」
若い男はみんな大抵ノリやすい、と、リーダスタは考えた。もちろん自分を含め、である。
大多数の新入生たちは、たぶん、捕まえたらどうしようなんて考えてもいなかっただろう。逃げるものを見たら追いかけたくなる、捕まえたくなる、理由なんてそれくらいで十分なのだ。ゲームのように達成感を得ようとして、大騒ぎをして、みんなでわいわいできればそれでいいのである。いかに高等学校の新入生だろうと、その辺りはそこらの若者と変わらない。何しろ初日なのだ、打ち解けるには絶好のイベントだ。リーダスタだって、バカにされるのではと言う気後れがなかったなら、きっとみんなに混じって楽しみながらこの子を追い立てていただろう。真っ正面からこのこの瞳を見なかったら、この子の気持ちに思いをはせる暇もなく盛り上がってしまっただろう。
可哀想だと言われて、確かにと考えたのだろう。みんなちょっとしゅんとしている。
と、グスタフが言いにくそうに言った。
「確かに怖がらせて悪かった。でも放っておくわけにはいかない」
「まあそりゃそうだけど」
もし今夜この子の存在に気づかなかったら、寮の管理人や掃除人に見つかっていた可能性が高い。そういう人たちに捕まったら、この子はどうなるだろう。翼の生えた真っ白な生き物なんて、リーダスタは今まで見たことも聞いたこともない。つまり、もの凄く珍しい生き物だ。動物園に連れて行かれればまだいいが、首都に大勢いる元貴族の道楽として飼われたり剥製にされたりしたら。
「捕まえて、安全に外に逃がしてやるんだよね? そのためには怖がらせるんじゃなくて、こっちが味方なんだって教えてあげないと」
「それはそうなんだが、外に逃がすのはやめた方がいい」
グスタフがそう言い、リーダスタはグスタフを見上げた。「なんで?」
「あの生き物はすごく貴重らしいんだ」言いにくそうにグスタフは言った。「前に一度ミンスターで見たことがある。友人が保護した生き物にそっくりだ」
「へえ……?」
「その生き物を友人が保護した、次の日に地区に泥棒が入り」声が低くなった。「近くの森に密猟者が入れ替わり立ち替わり現れた。そのうち長老のところに来客が来て……長老の側近から密かに連絡があり、友人はその生き物を連れて山に行った」
圧力をかけられたのだ、とリーダスタは思った。ミンスター地区の長老が、むげに追い払うことができない相手から。
しかし長老は、唯々諾々と差し出すこともよしとしなかった。だから、グスタフの友人が保護していると言う事実をなかったことにするしかなかった。こっそり連絡をして、山に逃がすよう指示をした。
ミンスターの長老が抗えず、しかし唯々諾々と従いたくもない相手と来れば、自ずとその対象も想像できてくる。




