入学式(1)
高等学校の入学式は、4月に入って初めての銀満月の朝、と、決まっているそうだ。
その日、ガルシア国首都ファーレンは、晴天だった。4月初旬と言えばエスメラルダはまだ冬だが、ここはすでに春爛漫。町はぴかぴかと光り輝いている。新入生たちの門出を祝ってくれているような、素晴らしい朝だった。
しかしラセミスタは、とうてい春の朝を楽しむような気分ではなかった。彼女は今、高等学校の正門に続く坂の下で途方に暮れている。緩やかなスロープを埋め尽くす大勢の人の列はいつ途切れるともしれず、延々と果てしなく続いている。最後尾がどこなのか、見当もつかない。
――今日って、入学式……だよね?
エスメラルダの常識では、入学式は新入生と教師だけの儀式である。だが今目の前に果てしなく並んでいる人々は、どう見ても新入生ではない。子供もいるし老人もいる。このお祭り騒ぎは一体何なのだろう。
マリアラと一緒に行ったショッピングモールでさえ、こんなに混んではいなかった。見渡す限り、華やかな衣装に身を包んだ人、人、人。新入生はラセミスタを入れて48人だと聞いていたのに、その数十倍の人々が、高等学校の敷地に入るための順番待ちをしている。
みんな笑顔だった。とても幸せそうだった。老若男女、ありとあらゆる年代の人たちが、一張羅に身を包んで並んでいる。しかしよく見れば、その中にちらほらと、ラセミスタが今着ているのと同じコートに身を包んでいる若者が見える。大丈夫――ラセミスタは自分を励ました。大丈夫、間違えたわけじゃない。今日は入学式で、間違いないのだ。
――あなたには参列者がいないから私が付き添いましょうか。
アーミナがそう言ってくれたことを思い出す。断ったりしないで、やっぱり付き添ってもらえば良かった。
エスメラルダ出身の女医、アーミナには、こちらに来てから知り合った。高等学校に就職してもう九年になると聞いている。たぶんこの状況をわかっていたから申し出てくれたのだろう。付き添いがいないと心細い思いをするかもしれないわよ、と、忠告もしてくれていたが――エスメラルダでは入学式や卒業式に、誰かに付き添ってもらうという概念がそもそもないから、忙しいアーミナに仕事に遅刻してまで来てもらうなんて、あまりに大げさすぎる気がしたのだ。
しかし実際、ここでは付き添うのが常識らしい。ひとりきりでこの列に並んでいる人は他にいないようだ。と言うか、新入生ひとりにつき、百名近い付添人がいるようにさえ思える。早いところ気を取り直し、最後尾を探して並ばなければ入学式に遅刻してしまうことは明白だ。が、一人きりであの人波にもぐりこめるような気がしない。参列者もいない新入生なんて、入学が認められないのではないか――そんなバカげた気後れを、感じずにはいられない。
どうしよう。このままじゃ遅刻だ。
マリアラがいてくれたら。性懲りもなくそんなことを思った。でもマリアラはいないのだ。当然だ。彼女との距離は数千キロは離れている。時差があるから、今頃はきっと寝ているだろう。フェルドもダニエルもララも、グレゴリーもいない。この国に来てもう半年経つのだ、その事実にはすっかり慣れたはずだったのに、今日はひとりぼっちの身の上がひどくつらい。せっかく高等学校の入学許可を手に入れたのに、物理的に中に入れる気がしない。
と。
がさ、と音がして、ラセミスタはそちらを見た。
いつの間にか、少し離れた場所に背の高い若者が立っていた。
彼もラセミスタと同じ色合いの、春物のコートに身を包んでいる。コートの裾から出ている黒いスラックスと革靴もラセミスタと同じ制服のようで、どうやら高等学校の学生だ。顔は、彼が広げてのぞき込んでいる地図に隠れてよく見えない。在校生ならば今さら地図に見入ったりしないだろうから、たぶん新入生だろう。
見上げると、ラセミスタの首が痛みそうなほどの長身だった。フェルドよりもずっと高い。ダニエルと同じくらいか、少し低いくらいだろうか。
彼のそばには付添人らしい人は誰もいなかった。たった一人で雑踏から離れて立つ彼の存在は、まるで命綱のように見えた。新入生なら、もうすぐあの列に並ぶために歩き出すだろう。この人があの雑踏に分け入るときに一緒に潜り込めば、一人で斬り込むよりは少しましかもしれない。
彼が行列に向かうタイミングを見逃すまいと固唾を飲むラセミスタの前で、彼は地図を見たまま、踵を返した。正門に続くスロープとは別の方向に歩き出す。「あのっ」ラセミスタは思わず声をかける。命綱が離れて行ってしまう。反射的にそちらに足を向ける。
「あの、どこ、行くの? 入り口はあっちだよね」
「こっちに別の入り口があるみたいだ」
出てきた声はとても落ち着いていた。イーレンタールより低くて、ダニエルより少し高い。
返答してから彼は地図から目を離し、ラセミスタを見た。
とても鋭い顔立ちだった。精悍、とはきっとこういう顔立ちのことを言うのだろう。しかし背の高さはダニエルを思い出させ、真っ黒な髪も目もフェルドを思い出させる。あんなに優しいダニエルだって外見は鬼瓦だ。久しぶりにダニエルとフェルドを彷彿とさせる面影を見たような気がして、勝手に親近感を覚える。
が、彼の方は驚いたようだった。ラセミスタの外見があまりに異様だったからなのか、その黒々とした瞳が見開かれる。予想どおりの反応に、ラセミスタは内心身をすくめた。
自分でも、この制服の着こなしはひどい物だとわかっている。制服もコートも、サイズはきちんと合っているのだが、もともとこの制服は体格の良い男性向けにデザインされたものだから、ラセミスタには完膚なきまでに似合わなかった。まるで子供が大人用の服を無理矢理縮めて着ているかのような滑稽味がある。我ながらふがいない。校長先生に、余計な波風を立てることはないからと勧められて髪も切ったのだが、ラセミスタの髪は細すぎて、短くなると重みが足りなくてふわふわと浮き上がってしまい余計無残に見える。驚かれるのも仕方がない。
「別の入り口があるの?」
訊ねると、彼は瞬きをした。「ああ」と頷いて、咳払いをひとつ。
「あの列の最後尾に並んでは遅刻しかねない。通用口があるみたいだからそっちに行ってみる」
「そうなんだ。あの、入れなくて困ってて……一緒に行ってもいい?」
「俺は構わないが、通用口に鍵がかかってたら無駄足になるぞ」
「いいよ」この命綱を手放してたまるか。「正門からは入れそうな気がしないもの。ええと、あの、新入生だよね?」
「そう」
「付き添いは?」
「いない」
「ああ良かった。付き添いがないと入っちゃいけないのかなって心配しちゃった」
「そんなことはない……と思う。もしそうなら入学式要領に書いてあったはずだ」
それはそうだ。ラセミスタは少しほっとした。何十人も付き添いを引き連れてきている新入生ばかりではない、一人で来ている人は他にもいるのだ、ということが、わかるだけでもありがたい。ラセミスタは彼の隣に並んで歩き出した。彼は地図を見て、それからまたラセミスタを見た。戸惑っていることがよくわかる。よっぽど異様なのだろう。子供が紛れ込んでいると思われていないだろうか。もう少し、せめてマリアラくらいの身長があれば良かったのに。
「新入生なのか?」やっぱり聞かれた。
「うん」
「……そうか。あ、俺はグスタフと言う」
ラセミスタは彼を見上げた。名乗ってくれた。こんなちっぽけで異様ななりをしたラセミスタのことを、新入生と認めてくれたらしい。
初対面の時はとにかく笑顔よ――リンの忠告がよみがえる。ラセミスタは精一杯の笑顔を浮かべた。
「ラセル=メイフォードだよ。よろしく、グスタフ」
「ああ。こちらこそ」
グスタフは頷いた。地図に目を落として道順を確かめ、折りたたんでコートのポケットにしまった。高等学校の石垣を左手に見ながら少し歩いて、また彼は言った。
「……本当に新入生なのか?」
「うん、そう」
そんなに何度も聞かれるほど異様だろうか。ラセミスタは頬をこすった。ラセミスタはエスメラルダでも小柄な方だったが、それでも異様なほど小さかったわけではない。ガルシアの人たちがエスメラルダの人に比べて大柄なのが悪いのだ。あたしのせいじゃないもん、と、言い訳のように思う。
それにしても、気をつけなければならない。校長先生には、“余計な波風を立てることはない”と何度も言われたものだ。ラセミスタは女性で、また留学生である。その二つの大きな差異を、あまりはじめから喧伝するのは良くないはずだ。もちろん女性であると言うことは一目瞭然であるから仕方がないが、留学生という差異については隠せるうちは隠したい。みんなと同じに、みんなと仲良く。人当たりは柔らかく、あまり敵視されないように。そんなに長く隠しておけることではないだろうが、みんなの中にうまく溶け込んでからカミングアウトすれば、異端でも受け入れてもらえる確率は増えるはず。
今朝までそう思っていた。――付き添いがいないという事実で、もうだいぶもくろみが潰えてしまった気がしないでもないけれど。
いやいや、と自分を鼓舞する。グスタフにだって付き添いはいない。大多数の中では異様でも、仲間がゼロというわけじゃない。
そしてグスタフは、見た目に反してかなり親切な人のようだった。こんなに足の長さが違うのに歩く速度を合わせてくれている。そんなところもダニエルを彷彿とさせる。一番初めにこういう人に出会えたのは、すごく運が良かったかもしれない。。




