間話 ミランダの旅立ち(1)
【水の砂】リーザの逃亡から十日が過ぎ、ようやくリンが退院した。
その日々は、医局のレイエルたち、特にミランダにとって、なかなか辛い日々だった。治療を拒否されるなんて、医局へ配属されて以来、全く初めてのことだった。
リンのケガは確かに大したことはなかった。手のひらの傷と、こめかみを殴打された時の擦過傷と打ち身、縄梯子から落とされた時の打撲、くらいのものだった。でも何よりひどいのは心の傷だった。ラルフがつれて行かれたのは自分のせいだと思わずにはいられなくて、自分だけ魔女の治療を受けて元気になるなんて許せないのだろうとジェイディスが言っていた。即日退院したいと言い張ったそうだ――確かに入院が必要なほどのケガではなかった――が、頭を殴られたのに検査も拒否していたから、なんだかんだと理由をつけて、入院させられていた。ひとりにするなんてとんでもない、と、みんなが思うような状態だった。痛みを抱え、憔悴した様子ながらも、リンは参考書を病室に持ち込んで、必死で受験勉強をしていた。こうなった以上、ぜがひでも今年の十月に保護局に入局するのだと、覚悟を決めたらしかった。
だが昨日、シグルドから連絡があって、ようやく事態が変わった。
ラルフはどうやらもうアナカルディアにはいないらしいとシグルドは言った。【風の骨】らしき人間と一緒に、イェルディア行きの鉄道に乗っているのを、駅員仲間が目撃したということだった。それを聞いてリンはようやく治療と検査を受け入れた。医局中の人間がほっとした。
そして今日、あっと言う間に退院だ。リンはミランダに会いに来て、照れ臭そうに笑いながら謝罪した。
「八つ当たりをする気はなかったの。でも……辛かったよね。ごめん」
「何言ってるの、バカね」ミランダは涙目になりそうなのを必死で堪えた。「ケティに会いに行ってやってね。研修も中断してるし、それがなくてもホントに……それからマリアラにも。マリアラもフェルドもすごく心配してて、何度もお見舞いに来たでしょ? あれねえ、リンのところまで行ったのは三回に一回くらいだったの、あんまり会いに行くと迷惑だろうからって、でもよくここまで来て様子を聞いて行ってたのよ。ああそうだ、ケティよりマリアラの方が先がいいかも。今日は午後から担当時間に入るって言ってたと思う。今は待機だから、魔女の詰め所にいるんじゃないかしら」
「詰め所……? 二十階の? 行けないよ、恐れ多くて」
「わかる」ミランダはくすっと笑った。「じゃあちょっと待ってて。一緒に行ってあげるわ。ジェイディスに断ってくる」
しかし、それはできなかった。ちょうどその時、珍しく〈アスタ〉を介さずに、元老院議員のグムヌス氏が来局したからだ。リンは笑って、じゃあまずはケティに会いに行くね、と言って帰って行った。
リンを見送ってから、グムヌス議員のところへ行った。
グムヌス氏はジェイディスに、哀れっぽい口調で、体が痛くてたまらないから個室にしてくれないかと頼んだらしかった。ミランダは心配になってその病室へ急いだ。グムヌス氏は意気軒昂な人だが、実は結構な老齢だ。四月に入ってまだどかどかと雪の降る、陰鬱で冷たくじめじめしたエスメラルダの気候で過ごすには、かなり辛いものがあるのかもしれない。グムヌスくらいの年齢の元老院議員は、もうとっくに引退して、アナカルシスやレイキアといった、もっと温順で過ごしやすい気候のところへ居を構え、悠々自適の余生を過ごすのが一般的なのに。
ノックをして、扉を開けると、グムヌス氏は立っていた。ミランダを見てにっこり笑った。それから今していた行動を再開した。手にした何か小さな複雑な機械を部屋のさまざまな部分へ向けている。一体何をしているのだろう。ミランダは扉を閉め、お茶でも頼もうかと注文パネルの方へ歩み寄り、そして、注文パネルの隣にある〈アスタ〉のスクリーンの下、入力端子の部分に、小さな棒状のものが刺さっているのを見た。
――なにかしら、これ。
「抜かないでおくれ」
グムヌス氏はそう言って、ほっとしたように手にした何か小さな複雑な機械を降ろした。
そしてミランダを見て、笑いかけた。
「盗聴器も仕掛けられていないらしい。〈アスタ〉も締め出した。これでようやく話ができるよ」
「あの……」ミランダは我ながら、間抜けな声を上げた。「お話、ですか? ……治療は、どうしましょう?」
「ああ、それはぜひ頼むよ。長い冬の圧力で老骨がつぶれそうなのだ。だが治療しながらでも話はできる。そうだろう?」
「……はい……」
グムヌス氏は何か内緒話をしに来たらしい――
ようやくそこに思い至って、身震いをした。
寝台に横たわったグムヌス氏は、やはりひどく疲れているようだった。つぶれそうというのは大袈裟だったが、筋肉がこわばり、関節がひしぎ、血管が硬くなり始めていた。前回の治療からまだ二週間だ。ミランダは心配になった。
「グムヌス議員、随分お疲れですね。引退をお考えにはならないんですか」
「ふふふ」グムヌス氏はおかしげに笑った。「……ああ、……いい気持ちだ。私にそんなことを指摘して機嫌を損ねないのは今じゃ君くらいのものだ。確かにエスメラルダの冬はもうきついね。老害などと陰口を叩かれているのも分かっている」
「……そんな! そんなつもりじゃ」
「いやいや、君にそんなつもりがないのはわかっているさ。だが私にはね、まだやり残したことがあるのだ――私の生きている間には、どうやら無理だったらしい。無念だ。だがね、目の前にある可憐な命を救うことだけはどうやらできる」
「……?」
「ミランダ」グムヌス氏は静かに言った。「今日このまま、誰にも会わずに、エスメラルダを出なさい」
言っている意味が分かりません、と、ミランダは思った。
グムヌス氏はしかし、まじめだった。というよりむしろ、真摯だった。
「悪いが少し調べさせてもらったよ。君が最近、ひと月に一度ほど逢瀬を重ねている若者のことをね」
逢瀬!
急に言われて、ミランダは真っ赤になった。
それを見て、グムヌス氏はいとおしげに笑った。
「八ヶ月前のあの災禍の時に、君を守って活躍したとか。ガストンが彼に腕章を渡したらしいね。その後もひと月に一度やってきている。――エスメラルダのルクルスだね。今はアナカルシスのリファスという駅で、まだ見習いだが、ふた月前の検定試験で見事に合格して、この四月――来週から、ウルクディアの駅に新人駅員として配属になることが決まっている。近々出発だ。そう、明日か明後日には」
「ど……どうして、」
「淋しいだろうね、ミランダ。今までも会いにくるのに片道四時間もかかっていた。それがさらに二時間増える。往復では十二時間、一日の半分だ。おまけに正規の駅員とくればいろいろと忙しいだろう。ひと月に一度の逢瀬――若者にはかなりつらい頻度だろうね――それがさらに、……間が空くことになるだろうね」
「……はい……」
先月会った時に、伝えられていた。ウルクディアに配属が決まったこと――シグルドは、なんでもないことだというように、言ったのだ。来月もまた、会いにきていいか、と。
もちろん、と答えることができたのは、マリアラから背中を押されていたからだ。
でも不安だった。あまりに負担が大きいのではないだろうか。そのうち疲れて、間が空いて、そして――その先に控えているのは、淋しさと、哀しさと、別れの痛み、かもしれない。そう、考えずにはいられなかった。
「彼ならば君を託すのになんの不安もない」
グムヌスは、優しい声で言った。
そして懐を探って、封筒を取り出した。差し出されて、受け取った。中を見てご覧、と視線で言われて、封のされていなかった封筒を開け、中身を取り出した。――鉄道のチケットが、二枚。
一枚はエスメラルダからリファスへの。
もう一枚は、リファスから、ウルクディアへのものだった。




