王宮にて
アナカルディアの王宮に来て、五日目の朝が来た。
エスメラルダとは違い、アナカルディア近辺はそれほど雪が深くない。そしてそれほど寒くもなかった。当然だと、ノールドは笑って言った。もうすぐ四月だ。エスメラルダではまだ冬かもしれないが、アナカルシスではもう春だと。
この五日間、ラルフは別に、身体の自由を奪われたりはしていなかった。
リーザはラルフの将来を案じて恩返しのためにここにつれてきたと言ったが、あのリーザのことだ、絶対に嘘に違いない。と、思っていたのだが、それにしては待遇が悪くなかった。ちゃんと寝台が与えられたし、ふかふかとまではいかないが乾いた敷き布団と毛布と枕が揃っていた。身動きもしにくいほど狭いが、一応個室だった。食事も三食ちゃんとたっぷりと出た。ノールドの工房へ行けばおやつまで出た。ルクルスの居住区で育ったラルフには、少々居心地が悪いほどの好待遇といえる。
体調はもうどこも悪くない。そろそろ抜け出してリファスを目指すべき頃合いだろう。けれど、ウィナロフが戻ってこないのだった。ラルフがここにつれてこられたとき、ウィナロフは入れ違いのようにエスメラルダへ出かけた直後だったらしいのだ。ノールドの話では、ウィナロフには狩人として課せられる仕事はほとんどないし、部下もいないし、秘書もいないし、いつもひとりきりで行動しているから、予定は全く読めないというのだった。
リーザが言っていた。エスメラルダを出たルクルスが、再び入国を認められることはあり得ない、と。そしてそれが真実だと、ラルフは知っていた。シグルドがこないだエスメラルダに入ることが出来たのは、駅で狩人に襲われるところだったミランダを担いで駆け込んだからだ。その後警備隊長がシグルドの身元を保証したから、エスメラルダの中に留まっても咎められることがなかったに過ぎない。ルクルスの居住区を出た若者は二度と帰らない。育ての親に会うことも、普通は二度とない。
だから、ラルフはウィナロフを待たずにはいられなかった。ハイデンとウェインとネイロンに、それからルッツをはじめとする友人たちに、無事でいるから心配しないで欲しいことを、伝えてもらわなければならない。そして何より、狩人になるつもりなんかないのだということを、ちゃんとリファスのシェロムを頼ってまっとうな職に就くつもりだと言うことを、絶対に伝えてもらう必要がある。
ハイデンはいつも、子供たちに言っていた。狩人になんかなるべきじゃないと。本当にそうだとラルフは思う。だからラルフが、狩人に勧誘されたのに、それを蹴って駅員になるつもりだということをハイデンが知れば、きっと喜ぶだろうし、子供たちに伝える材料になるだろう。
――それでも。
ノールドは実際、それほど悪い人間じゃなかった。
ラルフはだから毎日、じりじりするような気持ちでウィナロフを待っていた。これ以上ノールドに世話になったら、狩人も悪くないなんて思ってしまいそうで怖かった。
そもそもノールドの仕事は魔女を狩ることじゃなかった。ルクルスでも使える様々な機械を整備・開発することだったのだ。ラセミスタと似たような仕事をしている、ということになる。
ラルフの体調が戻ったことを知ってから、ノールドは毎日ラルフを迎えに来る。そして工房へ連れて行って、様々な細々した仕事を手伝わせてくれるのだ。ラルフはずっと、自分の手先が壊滅的に不器用であると言うことに引け目を感じてきたのだが、ここに来て初めて、それが良かったと思っていた。もしラルフが人並み程度に手先が器用で、ノールドの役に立つように働けてしまっていたら、ノールドは喜んで、ラルフを助手のように使っただろう。ラルフもその仕事にやりがいを感じてしまっただろう。そうしたらもう、ウィナロフが帰ってきても、ずるずるとここに留まり続けてしまっていたかもしれない。
でも実際、ラルフの指先は壊滅的に不器用だった。こん棒や帆綱はあんなにやすやすと言うことを聞くのに、一体どうしてなのだか自分でもよく分からない。島にいたとき、ラルフは針に糸を通すことさえできなかった。ここでも墨汁を補充したら半分はこぼす。漏斗を使ってもなぜかこぼれる。墨を磨ったら机の上が大惨事だ。ノールドは笑って、ラルフに小間使いをさせることにした。お前が本当に心底まじめにこぼしてるんだってことは、態度を見てりゃわかるからなと言いながら。
伝言や、道具の材料を運ぶのはおもしろかった。そして楽しかった。狩人の住んでいる場所あちらこちらを覗いて回れるし、何よりここはもう、春だった。雪などどこにもなかったし、王妃宮、というらしい建物は、古びてはいるが、かつて王妃が住んでいたというだけあって、壮麗で雰囲気がある。王宮と来たら迷路のようで楽しくてたまらない。探検しているだけで一日があっと言う間に過ぎる。用を済ませて戻れば、ノールドがにこにこしてねぎらってくれる。ノールドが作るさまざまなものを、解説してもらいながら眺め、自分にも使えるのだということに誇らしい気持ちを覚え、テストをするときには手伝わせてもらえ、おやつ時には温かい茶と菓子を食べる。工房にいる他の人たちも、おおむね親切だったし、エスメラルダ出身のルクルスも少なからずいて、ハイデンたちの近況を聞きたがったりして、聞かれるままにそれを披露して――毎晩眠る時には泣きたくなるのだ。ウィナロフが戻ってこないことを、言い訳にしているだけだということを思い出すからだ。
リーザは頭が空っぽなわけではないと、毎晩思い知る。
魔女を狩るために訓練したり待機したりしている人間にラルフを預けていたら、ラルフはとっくにここから逃げ出せていただろうに。
今日もラルフはノールドに、整備油や動力油、ネジや歯車といった品物の補充リストを持たされて、事務方へ顔を出した。ここにいるのは、でっぷり太ったエマという名のおばさんだ。ラルフを育てた女の世話役と同じ匂いがして初めは苦手だったのだが、彼女は豪快に笑う肝の太さと、ラルフの靴や衣類の穴に気づく繊細さを兼ね備えた、やはりとてもいい人だった。彼女はラルフをねぎらって、にこにこしながらチョコレートをひと粒よこした。それからラルフのつま先をチェックした。
「今度のはいいみたいね」
ラルフはうなずいた。
「うん。痛くないよ」
「よかった。今の時期に窮屈な靴を履いていたら体が歪むからね」
「これホントに、もらっちゃっていいの? 出て行く時に、返した方がいいんじゃないの?」
「いいのいいの」エマは少し淋しげに笑った。「お古なんだし、履いてもらった方が靴も喜ぶわよ。ノールドに、全部揃えるのに三日かかるって伝えて」
「はーい」
返事をして、ラルフはきびすを返した。長居はできない。ラルフがここにいるのは暫定的なことなのだということを思い出させるたびに、エマが淋しそうな顔をするからだ。
彼女は子供はいないらしい(昔はいたのかもしれない)。でっぷり太っているし、世話役と同じ匂いなのに、今はその匂いが嫌じゃない。そして手が、とても温かいのだ。きっと体も温かいだろう。それから柔らかいのだろう。そう考えて、ラルフは苦笑した。もう九歳なのに。小さな子供じゃあるまいし。
女の人は柔らかいのだということを、ラルフは最近知った。
ルクルスの子供を育てるのは男の世話役だ。だから、少なくとも物心付いてからは、大人の女に抱き締められたことは、マリアラに出会うまで一度もなかった。マリアラもリンも柔らかかった。こないだ凍死しかけた後、世話役の女達に寄ってたかって温められたときもやっぱり柔らかかった。だからエマもきっと柔らかいに違いない。あの柔らかさはちょっとやばい。
だから、工房に戻って、ノールドのそばに目の吊り上がったウィナロフがいた時、ラルフは心底ほっとした。




