列車の中(3)
ラルフはため息をついた。
「あんたって本当にお姫様だね。自分の行動がどんな波紋を呼ぶのかってことに頭が回らないんだね。俺がおとなしくしてんのはさ、さすがに同い年の女の子が目の前で殺されたりしたら後味が悪すぎるからってだけだよ。でもだんだん、どうでもよくなって来た。こんな綺麗な姉ちゃんの顔を思いっきり殴れるような人間の言葉をさ、信じるって方が間違いだよね。……これ以上この姉ちゃん殴ったり、きんきん声でわめいたりしてみろ。撃とうが撃つまいが、もう構うもんか」
メイとイリエルの箒が、リンのポケットの中で息をひそめているのを感じた。もしリーザがラルフにつかみ掛かるなどして、ケティから手を放したら、その瞬間に事件は解決していたかもしれない。けれどリーザはそうしなかった。ラルフの実力を良く知っているらしい。
「……わかったわ」リーザは猫なで声で言った。「あたしもちょっと頭に血が上っちゃったのよ。非常事態だし、こいつったら本当に間抜けなんだもの。あたし、間抜けな人間が一番嫌いなのよね」
「あっそ。俺は嘘つきが一番嫌いだけどね」
「【風の骨】には懐いてたじゃないの」
「あの程度の嘘じゃ嘘つきとは言わない。あの人は確かに嘘をつくけど、自分のした約束まで平気で破るようなクズじゃないよ」
そこで、すぐ隣に座っているリンは気づいた。気づいてしまった。
ラルフの足がかすかに震えている。
平気なふりをして、牽制しているだけだ。まだ熱も引いてない。まっすぐ座っているだけでも辛いのだろう。ラルフが呼吸を整えているのにも気づいて、リンはそっと右手をあげて、自分の口の端を拭った。切れて、血が出ているらしい。
――あたしは平気で人を傷つける人間が一番嫌いだ。
そう考えたときだった。
先ほどリーザが手のひらを当てていた、彼女の上着、左側のポケットの中で、何か音が響いた。ざ――という、波の音のような、かすかな音だ。
リーザは微笑んだ。血の気の失せた、凄惨な微笑みだった。
「まあ、あんたの好みなんかどうでもいいわ」
波のような音は未だ、彼女のポケットの中で続いていた。何が入っているんだろう。リーザはケティを引きずりあげて立たせ、再び運転席の方へ行った。リンは条件反射のように、ポケットから水の玉を取りだしてラルフに渡そうとしたが、手が震えて取り落としてしまった。ラルフが拾おうとして、体勢を崩して、自分も座席から転がり落ちた。ごめ、と呻いたとき、運転席の扉を開け放ったリーザが大きな声で言った。
「次、ヴェルナー駅よね。そこで停めて」
リンもラルフもギョッとした。リンは立てなかった。ラルフは立ち上がってよろめいた。そしてふたりは同時に叫んだ。
「な――!」
「ジルグ=ガストンがこの列車を追ってるのはわかってる。たぶんこの車両に箒も複数、乗ってるんでしょうね。ジルグ=ガストンともあろうものが、みすみす狩人を逃すようなお人好しじゃないでしょ」
リンの表情を見て、リーザはくすくす嗤った。
「だから降りるのよ。迎えが来たわ」
列車が速度を落とし始めた。リンはよろめいて、また立ち上がろうとして、手錠に左手を捕まえられながら通路に出ようとした。手ばかりでなく足も引っ張られて倒れ込みそうになる。
「迎えって――」
その時だ。聞き馴れない男のダミ声がどこからかかすかに聞こえた。
『――砂! 【水の砂】!? ご無事ですか!?』
リーザはとても嬉しそうに笑った。
「ほぉら、聞こえた? ――無事よ! 今列車に乗ってる! もうすぐヴェルナーに着くわ!」
『良かった――こっちももう――着きます!』
ざあざあ言う音とダミ声が途切れ、また復活した。ぶつぶつと音が飛び、良く聞き取れない。リーザはリンを見た。
「種明かしをするわね。あたし、発信器を持ってるの。魔法道具じゃないわよ? 狩人にもリズエルみたいな存在がいてね、彼らが知恵を絞って作り出してくれたものなの。そして、今聞いたでしょう。通信機も持ってるわ。アナカルディアにある程度近づいたから、通信が回復したみたいね。
いーい、あたしはね、正真正銘のお姫様なのよ。あんたみたいな没落貴族の間抜けとは身分が違うの。狩人はみんな、あたしを崇めてくれてるの。それでね、あたしの位置を示す発信器が動き始めたら、そりゃもう、大急ぎで迎えを寄越してくれるってわけ」
――どうしよう。
リンは考えた。どうしよう。どうしたらいいのだろう。ガストンたちがこちらに向かっているとは言え、到着まで少しは時間がかかるだろう。ケティを取り戻さないといけないのに、手錠が邪魔で、おまけに殴られたせいで脳震盪を起こしたようで、体の芯がふらふらして定まらない。考えが浮かばない。どうしたらいいかわからない。
視界の隅で、みるみる駅が近づいてくるのが見える。あっと言う間に距離が詰まる。
「着いたわ」
リーザは嗤う。そして、鍵をふたつ、放ってよこした。
「ラルフ、その間抜けの手錠を外して。一緒にここを出るのよ。……早くしなさい!」急に金切り声になった。「急いで! ぐずぐずするとこの子の目をくりぬくわよ!」
見るとリーザはケティを羽交い締めにしている手に、いつの間にかナイフを握っていた。ラルフがリンの足の手錠を、続いて左腕の手錠を外した。自由になっても、目眩がひどくて真っすぐ立っているような気がしなかった。よろよろとリーザの方へ近づくと、ポケットの中で二本の箒が浮き上がったのを感じた。飛び出す気だ――
「そこで止まって」
リーザはやはり抜け目がなかった。リンとラルフをかなり離れた場所で止まらせて、じろじろとふたりを眺め回した。
「間抜けのポケットに入ってる箒、ゆっくり出てきなさい」
命じて、銃をナイフに持ち替えて、ケティの目の辺りでひらめかせた。リンは言った。
「箒なんか――」
「たぶん二本はいるでしょ。余裕を取って三本にしておこうかな。この子の目と鼻で間に合うわね。一本出てきたらひとつの箇所にナイフを突き立てるのをやめてあげる」
「いないって、」
「あら、そうなの? いないの? ふうん。じゃあ一本も出てこないんだから、ケティは目も鼻も全部失うことになるというわけね。どこからにしようかな、と」
それを聞いて、メイが潜んだままでいられるわけがなかった。イリエルの箒も観念したように出てきて、それでも、リーザは満足しなかった。二本か、と呟いて、
「じゃあ右目だけにしておきましょうか。片目があれば用は足りるものね」
それで、運転席に潜んでいた箒も出てきた。リーザは三本を元の大きさに戻らせて、客車の一番端に追いやった。リンは呻いた。
「……三本いるってどうしてわかったの」
リーザは微笑んだ。
「わかるわけないでしょ? ケティにとってはいてくれて本当に良かったわよね。もしかして四本目もいるのかしら。耳をふたつ入れて、五本にしておけば良かったわ。そうしたらあんたたちにも、あたしが本気なんだってわかったでしょうに」
一瞬意味が分からなかった。
悟って、リンはうめいた。
「……うわ……」
本当に潜んでいようがいまいが関係ない、ということだろうか。自分で勝手に数を定めておきながら、その分の箒が出てこなかったら、潜んでいなかったとしてもその分ケティにナイフを突き立てたと、いうことなのだろうか? 二本しかいなかったら、今頃ケティの右目がなくなっていたということなのだろうか? リンは心底ぞっとした。こいつは、リンの常識で図れる相手ではない。
リーザが狩人と合流したらケティを放してくれるなんて、絶対に有り得ない。
その思考を読んだかのように、リーザは笑った。
「運が良かったわ。アリエノール、あんたも連れていってあげるわね。あんたには人質の価値は無さそうだけど、まあ、多いに越したことはないもの。見栄えは悪くないから、みんな喜ぶでしょうし」
――どういう意味だ。
「今すぐにでも取り引きに入れそうね……」
くすくす笑いながら、リーザはケティを引きずって、こちらを見ながら後ろ向きに列車を降りようとした。足音が響いて、ホームに上がる階段を数人の男たちが駆け上がってくるのが見えた。足音はどんどん湧いて、かなりの人数が集結しつつあるらしい。狩人だろうか。本当にリーザを迎えに来たのだろうか。取り囲まれてしまったらおしまいじゃないか。リーザがちらりとそちらを見、一瞬、眉をひそめた。
その瞬間、体が勝手に動いた。
リンは飛び出した。ケティとナイフの透き間に手のひらを滑り込ませて握り締めた。痛みは感じなかった。ラルフが動いてくれると信じて、リンはナイフを握った手に渾身の力を込めて引いた。リーザがナイフを振ろうとしたが放さなかった。ケティの小さな体が自由になり、リーザの懐の中からよろめき出た。リーザの左手が銃を構えたが、ラルフがケティを抱えて床に倒れ込んだ。リーザは舌打ちして、銃を、
「この――!」
リンの首筋に叩きつけた。急所、だったらしい。目の前が真っ暗になった。一瞬、意識が飛んで、リン! と叫んだラルフの声で我に返った。どうやら床に倒れていた。奇跡的にナイフはまだ放していなかった。リーザの足がリンの肩を踏み抜き、手が離れた。リーザが叫んだ。
「間抜けのくせに、よくも……」
けれど、そこに怒号が起こった。駆けつけていた男たちが列車の入り口を取り囲んでいた。そこでリンは信じられない声を聞いた。シグルドの声が聞こえたのだ。
「ラルフ! リン、大丈夫か!?」
「どういうこと!? ――こないで!」
体が浮いた。リーザはリンの体を踏み越えるように反対側の入り口に移動して、リンを引きずった。首元に冷たい感触が押し当てられた。気づくとリンは座り込んでいて、上半身を後ろからリーザに羽交い締めにされていた。右斜め前、座席の陰にケティとラルフの小さな顔が上下に並んでいて、正面に、車両の扉を取り囲む男たちの顔が見えた。シグルドがいた。間違いなかった。どうしてだろうと、リンも思う。




