ガストンの叱責(1)
ラセミスタがガルシアへ行ってから七ヶ月経った。
エスメラルダは真冬を少し過ぎたあたり。しんしんと雪の降る、寒い寒い日の昼だった。
今回の研修も四日目に入り、ケティは既に、ミランダと医局にすっかりなじんでいた。医局の魔女たちはミランダを始めとしてみんな親切で優しく、将来自分たちの仲間に加わるケティのことを、妹のように可愛がっている。特にミランダの可愛がりぶりときたら大変なものだった。彼女はずっと一番年下だったらしいので、妹分が来てくれて嬉しくてたまらない様子だ。だから今日の昼休みに、リンがガストンに呼び出されても、ケティは自分も行くとは言わなかった。
お陰でリンはひとり寂しく、雪を見ながら、動道を駆使して、ガストンのいる西海岸の出張所を目指している。
動道はいつもながら混雑している。冬の間は、ふだんは歩くような人達も動道を使うのでいっそう混雑がひどい。ケティが残ってくれてよかったとリンは考えた。ケティはまだ九歳で、背が低いし、ラルフほどすばしっこくもないから、この混雑ぶりでは大変な目に遭っただろう。
――ラルフ……
リンは雪を見つめた。最近よく、魔法道具の恩恵にあずかるたびに、ラルフのことを考える。
こないだの大事件から八ヶ月。ラルフには一度も会っていない。ルクルスは、と、リンは考えた。苛酷なエスメラルダの冬をどう越すのだろう。海は荒れるし雪に閉ざされるし、娯楽もあまりないだろうし――防寒着も充分じゃないかもしれないし、魔法道具がないのだから、暖を取るのはたき火や暖炉じゃないだろうか。火鉢とか。
今リンが考えたことをラルフが知れば、憐れみなんかと激怒されそうだが、でも、それでも。ぬくぬく守られて優遇されてる、甘ったれな一般市民としては、ラルフのことを考えるとなにかと肩身が狭い。
ラセミスタはどうしているだろう、と、また考えた。ガルシア国にも、エスメラルダほどの高度な魔法道具文化はないはずだ。冬はやはり煖炉を使うのではないだろうか。
ミランダの話では、時差があることとラセミスタがかなり多忙であるために、〈アスタ〉を通じての連絡はしづらいそうだ。が、消息は聞こえてくる。ラセミスタが今いるのは王立研究院というところで、彼女はまずそこの嘱託研究者の身分を得たようだ、ということ。それから半年の間必死で丸暗記したお陰で、今年の高等学校入学試験を何とかパスしたらしい、ということ。しかしやはり女性であるからなのか、それともエスメラルダやアナカルシスとの国際問題の余波があるのかどうなのか、国の偉いさんたちが彼女の入学を渋っているらしい、ということ。
リンは暗澹たる気持ちになった。女性というだけで差別を受けるなんて、リンは生まれてこの方考えたことすらなかった。区別、ならば分かる。例えばリンの目指している保護局警備隊は、男性の方が採用人数は多い。だがそれは、真冬の治療院や街中の休憩所や様々なお祭りや【国境】といった場所で、“睨みを利かせる”のが主要な任務のひとつに入っているからだ。ベネットならばひと睨みで萎縮させられる犯罪者予備軍も、リンに睨まれたって痛くもかゆくもないだろうし、ベネットのような外見の持ち主は、女性よりも男性の方に多いと言うことは客観的な事実である。
。
しかしラセミスタが赴こうとしているのは学校なのに。入学試験だってパスしたのに、それでも“女性だから”という理由で入学を渋る人がいる。それも国の重鎮たちの中にいるという。ラセミスタは入学式への列席を許されるかどうかも分からないという――ただ女性だというだけの理由で! そんなところで、彼女はいったいどうやって、自分の居場所を見つけるというのだろう。
でもラセミスタは立派に戦って、高等学校への切符を手に入れた。頭の硬いお偉方たちを説得するのに、あちらの人たちも頑張ってくれているそうだ。高等学校の校長先生は、ガルシアの誇りにかけても絶対に入学許可を出させてみせると言ってくれたそうだ。良識のある人たちは、男尊女卑の風潮を遺憾に思っており、ラセミスタの入学をきっかけに、その風潮を少しずつでも変えていきたいと思っているらしい。ラセミスタの入学は、それほどに重い意味のあることなのだ。
――あたしも、頑張らなきゃ。
たかが保護局員にくらいなって見せなければ、ラセミスタに顔向けができないというものだ。
気づくと動道が空き始めていた。海岸が近い。リンは速度のゆるやかな方へ移動して、タイミングを計って、動かない地面に降りたった。慣性をやり過ごしてから、帽子とマフラーと手袋を装備して、動道の壁の外へ出た。
寒さが、押し寄せて来る。
灰色の空を見上げた。尽きる事なく静かに雪を降らせ続ける雲を見て、今日はもうしょうがないから明日は勘弁してくださいと、むだと知りつつ祈っておく。明日はミランダと一緒に沖島へ荷運びに行く予定になっているのだ。雪の中空を飛ぶなんてあまりやりたくない。
今度の研修は魔女のたまごと一緒に、魔女に密着して仕事を体験させてもらうというものだ。前回も一緒だったケティを指名できて快諾してもらえた上、ケティはレイエルのたまごだから、ミランダに指導を頼めたという、非常にやりやすい研修となった。もしケティがイリエルだったなら、女性のイリエルの知り合いはいないから、ケティともども、かなり緊張に満ちた研修になったに違いない。
「うー、寒ぅ」
呟きをひとつして、リンは足早に歩いた。歩道はこの季節は常時発熱しているから雪が積もることはないが、周囲の塀や木立には雪がこんもりと積もっていた。屋根のあるところを選んで歩いたが、海岸までのかなりの部分は屋根なしの場所を歩かねばならない。一応傘も持っているが、なんだか面倒で、リンはえいっと屋根の下から飛び出した。ふわふわさらさらと雪が降り注いで来る。
リンは走りだした。毎日充実している。忙しいし、正直、楽しい。エスメラルダの変革は水面下で進んでいるらしいが、ラルフの境遇が改善されるまでには至っておらず、ラセミスタが呼び戻されるなんてことが起こりそうな気配すらないのに、リンは毎日楽しく過ごしているのだ。そのことに罪悪感を持つのは傲慢なことだろう。ラルフもラセミスタも、バカじゃないかと笑うか怒るかするだろう。でも後ろめたさは消えなかった。
底に滑り止めの、そして内側にもこもこのついた靴のお陰で、足が滑ることもなければそれほど冷えることもない。そんな装備にさえ後ろめたさを覚えながら、リンは全力でかけた。松林を抜け砂浜に出ると、そこはさすがに発熱していないから雪が深い。朝雪かきされたらしい通り道にもかなり積もっている。雪を踏みわけ乗り越え乗り越え踏み分け乗り越え、はあはあと息を切らしながら出張所の軒下に駆け込むと、ちょうど出てきた人間と鉢合わせした。
イクス=ストールンだった。
「……」
「……」
ふたりは無言で睨み合った。保護局員志望仲間が評したとおり、針猫と鱗鳥が鉢合わせしたかのような迫力と沈黙とで。
長いことリンは、イクスを立ててきた。こちらは年下だし後輩だし、無用な波風など立てずに済むならその方が良かったからだ。でも最近考えを改めた。雪山がそのきっかけだったが、ラセミスタから、フェルドがイクスらと同室だった時に行った三倍返しについての話を聞いたことも大きかった。
――泣き寝入りをしても相手が喜ぶだけだから、手出しをしても何の益もないってことを彼らの骨髄にたたき込むって……
手出ししない限りは放っておくが、つっかかられることまで我慢する気はない、ということを見せ始めたとたん、イクスは大っぴらにリンを目の敵にし始めた。でもお陰で状況は、今までよりはずっと良くなったのだ。イクスがあからさまにリンを敵視するようになってから、リンの味方はさらに増えたし、イクスの陰湿な嫌がらせの効果は逆に減ったからだ。イクスの陰口の信憑性が失せて、信じる人も指導官もほんの一握りになったから。
けれど、今日は運が悪かった。よりによってイクスがあの研修中だったなんて。
「……」
イクスはじろじろとリンを見て、そして。
嫌な感じにニヤリと笑った。




