間話 ナイジェル校長代理の動向
ラセミスタがガルシアへ行ってちょうど一週間。ナイジェル校長代理が正式に、校長の座に就任した。
その日が来るまで〈彼女〉は、心のどこかで淡い期待を抱いていた。ナイジェルに成り代わるためにレイキアに出かけた“あの男”は、何か失敗したのでは。戻って来たナイジェルは実は本物なのでは。だってナイジェルはガストンとギュンターに目をかけていた男だ。グムヌス議員らと協力して、エスメラルダを秘密裏に牛耳る“エルヴェントラ”を放逐しようと秘密裏に働いていたほどの男だ。“あの男”にそう易々と負けるわけがない。“あの男”の企みに気づいて、レイキアで返り討ちにしてくれたのではないか。――と。
しかし。
「――ああ、やれやれ。やっとこれで一安心だ」
独りきりになるとすぐに、ナイジェル校長の姿が若返っていくのを見て、〈彼女〉は落胆した。わかっていたし覚悟もしていたが、一縷の望みが打ち砕かれる瞬間はいつも辛い。
“ナイジェル”は若々しい本来の姿を取り戻すと、いつもどおりの仕草で、肘掛け椅子に座った。背もたれに背を預け、ため息をひとつ。苦言を呈するときの癖まで、“カルロス”だった頃と変わらない。
鈴を振るような、涼やかな声も。〈アスタ〉を叱責するときの抑揚も、以前のまま。
「〈アスタ〉。なぜラセミスタをガルシアへ行かせた。回避できなかったのか」
『回避する必要があるとは思いませんでしたから』
〈アスタ〉が従順に答えている。ちっ――軽い舌打ちをひとつして、“ナイジェル”は座り直した。
「だがまあ……まあ、そう、いつかは排除しなければならなくなっていただろうから、時期が早まっただけとも言えるかな。逆に好都合だったかも知れない。ふん。合格の見込みは?」
『今年入学できる可能性は28%と算出しています』
「へえ? 意外と高いんだね。ラセミスタはガルシア語も――いや、あちらとしてもリズエルの入学は願ったりだろうから、アナカルシス語の試験問題くらい用意するかもしれないが」
『アナカルシス語の試験問題を用意された場合の合格可能性は57%です。現在のところ、あちらからその申し出はなされていません』
「そんなに上がるのか。腐ってもリズエルだな……」
“ナイジェル”は机に肘をつき、両手の指を組み合わせた。そこに額を当てて、しばらく何か考えている。昔からこの人の頭脳は明晰だった。苦い思いで〈彼女〉はそれを見つめた。こんなにも長い時間が過ぎたのに、この人の頭脳は衰える兆しさえ見せない。
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルと、マリアラ=ラクエル・マヌエルの現状を報告してくれ」
ややして彼は低い声でそう言った。〈彼女〉は戦慄し、〈アスタ〉は従順に答える。
『通常どおりシフトに入っています』
「外へ出て行く素振りは?」
『今のところはありません』
「夏だから出動も少ないだろう。休暇申請は?」
『通常、初年度から三年目までの夏は様々な研修を受けるのが習わしです、ですから――』
「ああ、そうか」
そう聞いて“ナイジェル”は愁眉を開いた。〈彼女〉はため息をつく。フェルドもマリアラも真面目過ぎるのだ、と、嘆きたい気分だった。
多分ラセミスタの“左遷”に責任を感じているせいもあるのだろう。他にも、もう事件はおおむね解決したのだと思っているせいもあるだろう。イェイラもザールもグールドも逮捕され、全ての元凶である“校長”は亡命した。だから急いで出て行かなくても大丈夫だ、と。
自分たちのやりたいことよりも、やらなければならないことを優先する彼らの真面目さが、〈彼女〉は歯がゆい。
彼らは新人だ。出動の少ない夏には、だから様々な研修が設定される。ハウスの中に入っている魔法道具の使用訓練も多いし、救助対象者の見極め方や対応ロールプレイ、万一恫喝行為に及ばれたときの対処法など、新人が身につけなければならないスキルや情報は多岐に亘る。
そして、ここ数年アナカルシスで猛威を振るう怖ろしい病気が、今年はエスメラルダにも流入するだろうという予測もなされていて。
「――ミランダ=レイエル・マヌエルの現状を報告してくれ」
“ナイジェル”は淡々と指示をし、〈アスタ〉も従順に情報を提供する。
『医局はワクチン製作に追われ例年にない忙しさで、休暇も付与できない状況です』
「……ああ、そうか!」
彼が歓喜の声を漏らした、その時だ。
こんこんこん、とノックが鳴った。ちっ、と彼は舌打ちをする。変声器を口元に当て、
「誰だね?」
「ヘイトスです。会議のお時間です」
「もうそんな時間か。すぐに行く」
彼は立ち上がり、鏡の前に行った。まだ“ナイジェル”の外見に慣れていないのだろう。“カルロス”に化けるときよりもかなり時間をかけて彼は外見を調整した。前校長の遺した問題は山積みで、“ナイジェル”が仕事に追われる状況はまだまだ続きそうだ。前のような独裁的なほどの権力を取り戻すのは、まだ先のことになるだろう。それだけが救いというものだ。
扉の前で待っているヘイトス室長に聞こえないよう、彼は〈アスタ〉に囁いた。
「マリアラもワクチン製作の一員に加えろ」
『相棒がいる左巻きには出張医療の要請をする方が一般的ですが』
「ダメだ。二人を外国に出すことは絶対に許さない」
『――承知いたしました』
「だが国内での訓練には積極的に参加させろ。三日病の惨禍は来年には現実のものになるだろうという理屈を付ければ、若いラクエルにも三日病治療の訓練を受けさせる理由になる。フェルディナントは革命祭り編隊飛行パレードの一員に加えろ」
囲い込む気だと、〈彼女〉は思う。
三日病は最近レイキアやアナカルシスで流行している怖ろしい病気だ。子供が罹れば三日ほど熱が出て全身の発疹が出るだけで、けろりと治ってしまうのだが、大人が罹れば致死率が70%にも上るといわれている。感染力が強く、特に夏に流行する。左巻きの魔女でなければ治療ができないので、アナカルシスやレイキアに派遣されている左巻きたちは、ここ数年てんてこ舞いの忙しさだ。夏の出張医療も頻繁に行われている。“ナイジェル”を初めとした元老院の重鎮たちは、アナカルシスで猛威を振るう三日病の惨禍によって、狩人の活動を一気に辞めさせることができるのではないかと期待しているらしいが、エスメラルダでも対岸の火事として笑っていられる状況ではない。
一度罹れば生涯免疫が獲得できると言われているが、安全性の高いワクチンを作成するのが難航を極めていた。アナカルシス、レイキアと合同で研究を進め、つい先日、ようやく安全性に問題のないものが開発され、認可されたばかりだ。それ以来、製薬所も医局もフル稼働でワクチン製作を進めているが、材料の確保も難しく、充分量を確保できるようになるまでにはあと数年はかかるだろうと言われている。
マリアラはシフトの傍ら、医局での製薬や治療訓練が科されることになる。
フェルドの科される編隊飛行パレードは、秋に行われる革命祭りの花形だ。大勢のマヌエルたちが編隊を組んで空いっぱいに様々な模様や軌跡を描く、祭りの一番の目玉イベントだ。当然練習に追われることになる。“ナイジェル”が元のような絶対的な権力を取り戻すまで、彼らに“余計なこと”を考えさせる暇を、与えないつもりだ。
――何とか、伝える方法はないかしら。
そんなものない。〈彼女〉はただの亡霊であり、もはや、なにもできることはない。
何度も思い知っているのに、今度もまた、考えずにはいられなかった。




