間話 ラセミスタの引っ越し準備(下)
今日、ふたりは日勤のはずだ。お昼休みは一時間。
ここ数日の引っ越し準備で、不文律が出来上がりつつある。始めの三十分はせっせと働いて、残りの三十分はお昼ご飯を食べる。注文して食べることもあったが、今日はフェルドがバッグを持って来ている。あの中身は一体何だろう。
「そう言えば例の道具、間に合いそうなのか?」
せっせと本を詰めながらフェルドが言った。うん、とラセミスタは頷く。
「グレゴリーが作ってくれるって言ってた。あたし自分で作りたかったんだけど、とにかく防犯装置を優先しろってうるさいんだもん」
「まあ……そりゃあそっちが優先だよな、酔い止めは、なくても死ぬわけじゃないもんな」
フェルドはしみじみと言った。いつもダニエルが口うるさすぎる、心配性にもほどがあると文句を言うくせに、防犯装置の必要性に関しては、フェルドもダニエルと同意見らしい。自分も結構心配性じゃないか。
「いやーあたしにとっては酔い止めの方が死活問題なんだけど」
「そうだねえ」とマリアラが言った。「二泊三日も鉄道の旅をして、イェルディアから【扉】を通ってレイキアに行って、また二日、馬車に揺られて移動して……次の【穴】を通ってリストガルド大陸に着いたら、さらに五日間も馬車の旅なんでしょ」
フェルドが振り返る。「馬車じゃないよ。リストガルドのは、マティスが引くんだから」
フェルドとしてはそこは譲れない線らしかった。マティスという生き物は、エスメラルダにもアナカルシスにもレイキアにもいない、未知の大型草食獣だ。ずっとフェルドが見たがり乗りたがっていたその謎の生物に、長年引きこもってきたもやしっ子の自分の方が先に会うことになるとは。人生って不思議だ。
「すごいねえ。マティスって実在するんだねえ。図鑑で見たことあるけど、すごく賢そうだった」
「リストガルド固有種なんだよなあ、あっちに行かなきゃ見られないんだもんなあ。いいなあ俺も乗りたい。写真送ってくれ」
「いいよー」
なんだかんだと話しながらラセミスタは防犯装置を作り、フェルドとマリアラはせっせと荷を詰める。なんて穏やかで、平和な三十分だろう。
カップケーキと同じように、この時間を閉じ込めておければいいのに。
“新鮮丸ごとパウチサービス”の元になったカップケーキは、もうとっくに荷に詰めてある。もらったときの新鮮さと美味しさを閉じ込めたまま、これからも、ガルシアへ行っても、ラセミスタの心を支えるお守りになってくれるだろう。
思い出も閉じ込めておければいいのにと、ラセミスタは思う。いつでも呼び出せて、いつでもこの時間をもう一度体験できる、そんな道具を、いつか作れればいいのに。
楽しい三十分が過ぎると、もっと楽しい昼食の時間だ。
机の上を片付けて、フェルドが持って来てくれたバッグを開ける。手を洗って戻って来たラセミスタは、その中身を見て歓声を上げた。手を洗い終えたマリアラがパネルでご飯とお味噌汁を人数分注文している。
こないだマリアラが買って来てくれた揚げ物だ。ショッピングモールで『絶品なのよ~!』と勧められたという、とんかつと、メンチカツと、エビフライ。今日は唐揚げと牡蠣フライもついていて、しゃきしゃきのキャベツも山になっている。
「こないだ美味かったから」
簡単にフェルドは説明したが、ラセミスタはとても嬉しかった。前回食べたのは、南大島で大騒ぎがあった、その夜だ。マリアラはイェイラに“あなたは足かせなのだ”と言われたばかりで混乱していたから、到底味わうどころではなかっただろう。時間も遅かったし、次の日に大騒ぎも起こったから、実のところどんな味だったか、美味しかったかどうかも、あまり覚えていない。
フェルドが湯煎の準備をした。彼が手を洗いにいく間にラセミスタが食べ物を湯煎にかけた。ご飯とお味噌汁が届いたので取りに行った。マリアラがお茶を入れてくれて、戻って来たフェルドが大皿の上にキャベツと揚げ物を盛り付ける。ラセミスタはソースとタルタルソースと醤油とからしを準備。
全てがきちんと調い、三人は椅子に座り、手を合わせた。声まで揃う。
「いただきまーす」
「わあっ、いいにおい!」
新鮮丸ごとパウチサービスは上手く機能していた。揚げ物は本当に揚げたてそのままで、肉汁も失われずに保たれていた。エビフライに噛みつくと、衣がさくっと音を立てた。メンチカツを口に入れたフェルドが声を上げる。
「あちっ」
「美味しい……!」
「さくさくだねー、ほんっと揚げたてと変わらないね。うーん、あたしの発明結構すごくない? すごいなーあたし、やるなー! 天才だなー!」
おどけて言って見せるとマリアラは笑い、フェルドも笑った。「自分で言うなよ」
あつあつサクサクの揚げ物を、ほかほかご飯と一緒にお腹いっぱい食べながら、ラセミスタは、もう思い残すことはない、と思った。マリアラとフェルドはこれからも一緒に仕事を続けていけることになったし、校長は亡命したし、グールドは形式的な裁判の最中だ。このまま処刑されることになるだろうから、もうマリアラがちょっかいをかけられる状況にはなり得ない。ザールもイェイラも逮捕され、平穏な日常が戻ってくる。ラセミスタがいつか戻ってこられるその日まで、ふたりはここで楽しく、仕事を続けながら、時折世界一周を進めたりしながら、待っててくれる。――はずだ。
それならば。
――それならば。
あたしがこの場にいられないことくらい、どうと言うほどのこともない。
気に病むほどのことじゃない。
「美味しいね」
「美味しいねえ」
ラセミスタが言うと、マリアラが応じてくれる。大好きな兄だけではなく、大好きな友達とも一緒に、笑い合って美味しいものを分け合える環境。ほんの一年前まで夢見ることさえできなかった境遇だ。
――いつか喪うことになるのなら、初めから手に入れるべきではない。
久しぶりに――本当にごく久しぶりに、“人食い鬼”の言葉を思い出した。あの頃、ラセミスタは毎日のようにそう思っていた。例え誰かと仲良くなれても、その誰かはすぐにラセミスタに呆れ、ラセミスタに合わせるのが億劫になり、やがて離れていく。そう思い込んでいた。一度手に入れたものを喪うのは、初めから手に入れられないよりも絶望的なのだ。あの絶望を恐れるあまりに、ラセミスタは心の中に“人食い鬼”を飼うようになり、同室の子を避けて、縮こまって、逃げて隠れて。
でももう、“人食い鬼”の声は聞こえない。マリアラと仲良くなる前に戻りたいなんて思わない。この広々とした世界の色を知った後で、また閉じこもりたいなんて、絶対に絶対に、思わない。
この穏やかな場所に、二度と帰ってくることが、できなくなるとしても。




