リンはスプーンを掲げる
三日後 リン
リン=アリエノールは緊張していた。
腕章も着けず、仕事でも研修でも授業でもないのに、【魔女ビル】の十階以上に上るなんて、生まれて初めての経験だ。
エレベーターが来た。ホールにいた人たちがぞろぞろと乗り込むのに合わせて、慣れている様子を装って中に入る。乗ったのは七人ほどだ。カルテを持った白衣姿のおじさんは、たぶん医師か薬剤師なのだろうが、三階で降りていった。スーツ姿の偉そうなおじさんたちが三人、七階で降りた。十階でもうふたりが降りて、後に残ったのは、ラセミスタと同じくらい背の低い、女性だった。黒々とした髪を短く切っていて、色白の整った顔立ちは、可愛いと言うより颯爽とした雰囲気だ。首元に鎖がかかっているのが見えるから、たぶん魔女だろう。
――魔女だってエレベーターに乗るよ。
以前マリアラから聞いた話を思い出した。
――【魔女ビル】の中、箒に乗って飛ぶのは気が引けるもの。わたしは降りるときはたいてい階段だけど、上がるときはさすがに……
あれ、でも、待てよ。
リンはちらちらと横目で彼女をうかがった。
なんだか、見覚えがあるような。いや、はっきりと知ってる顔だ。でも、誰だっけ。
と、目があった。彼女はにっこりと笑った。あたたかな笑顔に、なんだかホッとする。
「こんにちは、アリエノールさん。先日はどうも」
彼女が丁寧に挨拶して、リンはようやく思い出した。マリアラの【親】である、ララという名の、右巻きのラクエルだ。
「あ、こ、こんにちは。すみません、すぐわからなくて」
「いえいえ、前回もこないだも、いつもなんだか、大騒ぎだものね。……そっか。今日はちょうど、お休みだったの?」
「いえ、やっぱり研修中なんです。あと数日で終わるんですけど……今回の研修ではずっと出張所巡りをしていたんですけど、先日から本土に戻ってきてまして。今は、昼休みです」
「あら、じゃあ、あまりゆっくりは出来ないのね」
「いいえ、それがね、指導官がとってもいい方で。事情を話したら、昼休みの他にもう一時間下さるそうなので、あと……」リンは時計を見た。「一時間四十五分、あります。デラックスに挑むには充分な時間じゃないでしょうか」
「……」
ララはすぐには賛成しなかった。しばらく考えて、苦笑した。
「マリアラとラスとミランダとあなたの、四人がかりでなら……まあ、そうねえ、何とか時間内に、攻略できるかも知れないわね……」
「……そんなに?」
わくわくして訊ねると、ララはリンを見て、くすっと笑った。
「相手にとって不足なし、という感じね。頑張って」
「はい、頑張ります」
リンは嬉しくなって、にっこりした。マリアラとフェルドの【親】というだけあって、やはりとってもいい人のようだ。
それからリンは、訊ねた。
「マリアラ、もう、元気ですか? なんだか長引いて、やっと今朝退院できたって、聞きましたけど」
「そうね、次の日にはもうすっかり良くなっていたのよ。でも酸素欠乏というのは、脳に後遺症を残す怖れがあるそうで、専門医がアナカルシスに出張中だったってこともあって、検査を受けないと退院させられないって言われちゃったそうなの。でも大丈夫だったのよ、そもそも、検査も念のために行われただけだし。発見が早かったし、左巻きのレイエルが手を尽くしたんだし、本人はもう元気なのにってブツブツ文句を言ったそうだし、検査の結果も全く問題ないという話だから、もうすっかり元気だと思うわよ」
「会ってないんですか?」
訊ねると、ララは一瞬、ほんのわずかな一瞬だけ、口ごもった。
それから、普通の口調で答えた。
「そうなの。今から行こうかな、と思っていたんだけど、デラックスのお邪魔をしちゃいけないわね。また今度にするわ」
「え、でも――」
「いいのよ。あたしはいつでも会えるんだもの」
そして彼女は、階数表示を見た。つられて見上げると、マリアラたちの部屋があるという十六階の表示が、近づいてきている。十三…………十四…………十五、と、ララが手を伸ばして、十九階を押した。ちん、と軽い音を立てて、十六階で止まる。扉が開いて、リンは降りた。振り返るとララはエレベーターに乗ったまま、ひらひらと手を振った。
「胃に気をつけて。……研修も、頑張ってね」
「ありがとうございます」
リンは笑って頭を下げた。扉が閉まる。その寸前に見えたララの表情に驚いた。
彼女がまるで、泣き出しそうに見えたのだ。
が、見直す間もなく見えなくなってしまった。エレベーターが遠ざかる音が聞こえる。
「悪いことしたかな……」
思わずつぶやいた。魔女にはシフトがある。ララもきっと、忙しかったのだろう。ようやく時間を作って【娘】の顔を見に行こうとしたのに、リンの来訪でそれを延期させることになってしまった。あの表情は、それでかもしれない。いや、見間違いかも知れないけれど。
でもありがたいことではあった。リンには二時間しか休み時間がないのだ。先日の騒動で二日も研修がつぶれたお陰で、ガストンは残りの研修の日程に、その二日間に予定されていた分を詰め込まなければならなかった。今日の一時間分も併せて遅れを必死で取り戻さなければならないのに、これ以上それを増やすわけにはいかない。
ラセミスタから聞いたとおりの道順を通って廊下を歩いていく。角を曲がる。ちょうど、少し先の扉からフェルドが出てくるのが見えた。扉の中からは賑やかな女の子たちのおしゃべりが聞こえていた。フェルドも一緒に食べればいいのに、遠慮しないでいいのに、と言う声に苦笑で答えて、フェルドは扉を閉めた。賑やかな声が遠ざかり、彼はため息をつく。
リンは声を上げた。
「やあやあ、調子はどうかね」
フェルドは顔を上げて、こちらを見た。一瞬だけ身構えるような、後ろめたいような顔をしたので、リンは屈託なく笑って手を振って見せた。
「早速デラックス、食べにきたよ。一緒に食べないの?」
フェルドはほっとしたようだった。リンを仲間外れにしたことを気にしているのはわかっている。でもフェルドは、ああするのが最善だと思ったのだろうし、当然謝罪もできないだろう。だからリンがわだかまりをもっていないというところを見せれば、それ以上あの件を蒸し返す必要はないのだとわかるだろう。フェルドはうなずいて、苦笑した。
「リンにはあんま時間がないだろうからって、先に注文したのが今届いたとこなんだよ……ラスの奴、張り切ってデラックス以外にもいろいろ頼んでてさ、俺、同じ部屋にいるだけで頭痛がしてきた。ここで飯なんか食っても味わかんないだろうから、自分の部屋で食って来る」
「そーなの? そんなにすごいの、デラックスって」
フェルドはうなずいた。どことなく、げっそりした様子で。
「担がなきゃ運べないパフェなんて初めて見たよ……」
「担がれてきたの? パフェが!?」
「部屋の前までは台車できた。まあ見てみろよ」
じゃあな、と手を振って、フェルドは行こうとした。その前に、リンは声を上げた。
「あの」
「ん?」
「……グールドの裁判、日付が決まったんだって。まあ、形式上のもので、判決なんか決まり切ってるけどね。今までの被害者について調べ上げるのに時間がかかるから、ひと月後に予定されてる。ザールたちの取り調べは難航してる。中でもイェイラは、まだ黙秘してるから、なかなか進んでないみたい。……ガストン指導官が、あなたに伝えてくれって言ってたから」
「そっか。わかった。ありがとう」
「ナイジェル副校長が、急遽、出張先のレイキアから戻って来られたの。ガストン指導官はとても喜んでた。元老院の中にも、ガストン指導官の仲間がいたんですって、ひそかに連絡取り合っていた人達が……ナイジェル副校長はその筆頭だったの、だから、これからいろいろと……上手く行くだろうって。校長が亡命した以上、その業務のすべてを副校長が代行する事になるしね、そのまま校長に就任することになるだろうって。だから」
「……そっか」フェルドは微笑んだ。「わかったよ」
「ガストン指導官は」リンは居住まいを正した。「あなたとマリアラに、本当に申し訳ないって……それから、本当に感謝してるって、言ってたわ」
「それはこっちの台詞。ガストンさんに伝えてくれ。お陰でシフトにも戻れることになったし、いろいろ事態が改善して、ほんとに感謝してるって」
「……シフト?」
聞き返すと、フェルドは笑った。
「俺の検査は昨日で全部終わった。明後日からシフトに復帰」
「そうなの!? よかった……! おめでとう!」
「お陰様で。あとはヴィヴィが治れば完璧なんだけどな。ちょっとややこしいところが損傷してて、材料揃えるのと神経の修復に手間取ってるんだってさ」
その時、ばたん、と扉が開いた。ラセミスタがひょい、と顔を出して、
「ちょっと行って……あ!」
リンに気づいて、ぴょんと背筋をのばした。続いたのは、少し上ずった挨拶だった。
「や、やあリン! ようこそ!」
「あー、やー、どもども。ごめん、立ち話してて遅くなっちゃった」
「いいい今ちょっと見にいこっかなって、思ったとこなの。ど、どぞ、入って入って」
ぎこちないが、一生懸命、自然にふるまおうとしてくれている。フェルドは苦笑して、ぺしっ、とラセミスタの額を弾いた。
「緊張し過ぎ」
「う、うるっさいなフェルドは!」
「そんじゃ」
フェルドはリンに笑みを見せた。本当に感謝してるとその目に言われて、リンも笑みを返した。どういたしまして、と。
「いらっしゃい、リン。待ち時間がもったいないから、先に頼んでおいたの。今きたところだよ」
部屋の奥で、マリアラがにこにこしていた。ミランダは手ずからお茶をいれてくれていたが、顔を上げて微笑んだ。リンも微笑んで、中に入った。ラセミスタが緊張しつつも、リンを促した。
「ここ、座って。ほら見て、どう? これがデラックス!」
じゃーん、とラセミスタがカーテンを開けると、そこには生クリームと果物とアイスクリームとプリンとチョコレートでできた山がそびえていた。リンは絶句して、そして。
「す、す、……す、」
「んふ」
ラセミスタが得意そうに笑う。リンは歓声をあげた。
「すっ、……ごーい! 何これ、何これ!? きゃー! まさかここまでとは! 目の当たりにするとすごい迫力だね……! 雑誌で見たよりはるかにすごいね……!」
「それからほらこれ、見て見て! きっと好きじゃないかなって思って、注文しちゃった!」
ラセミスタが指さした先には、憧れのコオミ屋の菓子詰め合わせ(しかも一番大きいの)が鎮座していて、リンは叫んだ。
「どうしよう! 罰が当たる! 隕石が落ちてくるかも!」
「大丈夫! みんなで食べれば怖くない! さあ座って座って!」
菓子のお陰か、だいぶぎこちなさの消えた声でラセミスタが言い、満面の笑みを浮かべて長柄のスプーンをリンに差し出した。
「はいっ、どうぞ!」
「ありがとー! マリアラ、退院おめでとー!」
「あ、ありがとう」
マリアラは苦しそうに言った。笑いたいのを堪えているらしい。ラセミスタがスプーンを構え、リンも構えた。まるで剣士が誓いの儀式でもするかのように。マリアラがくすくす笑いながら同じように構え、最後にミランダが倣った。
「よっしゃー!」リンは叫んだ。「いくぜ野郎どもー!」
「おー!」
「おー!」
「おー!」
誰からともなく、かちん、とスプーンが打ち鳴らされる。四本のスプーンはそのまま、真下にあったデラックスにそれぞれ突き立てられた。ひと口食べて、リンはぞくぞくした。この味が、このクオリティが、このバケツのような巨大な入れ物の底の底まで詰まっているわけだ……!




