シグルドは黙る
午後六時三十分 ラルフ
コインが反応しなかったときも、フェルドは黙っていた。反対に悲鳴じみた声を上げたのはラセミスタだった。彼女は機械を叩いて叫んだ。
「あり得ない!」
「あり得ない、の? あの、機械の故障とか」
リンが言い、ラセミスタはきっぱりと首を振った。
「それは絶対ない。他のマヌエルのコインを借りて試してみればいい」
その言葉のとおり、通りかかった魔女が持っていたコインを使うと、相棒のコインの在処を示すという光点はすぐに、〈アスタ〉のスクリーン上にぽつりと点ったのだ。リンは震える声で言った。
「じゃあ……エスメラルダの外は? いなくなってから――五時間? 五時間あれば、列車に乗って、アナカルシスのかなり遠くまで行けるんじゃない?」
ラセミスタはまた首を振った。
「反応が違う。方向を示す波長くらいは出るはずだから。今フェルドのコインからは、どの方向に向けても波長が出てない。つまり、マリアラのコインは――この世に存在しないことになってる」
「この世に――? あの、【毒の世界】とか【水の世界】とかは?」
「それもない。……あり得ない。ということは、コイン自体が破損した……? たとえば……」
ラセミスタは言葉を切った。
ラルフは、フェルドが黙って、機械から自分のコインを回収して、コインについている鎖を自分の首にかけるのを見た。
言葉を切っても、ラセミスタの考えを悟るのは簡単だった。あんな風に首元にかけている状態で、小さな硬いコインが破損するほどの衝撃を受けたとしたら、その持ち主がどうなっているのか、考えるのも恐ろしかった。
みんなそれを悟ったのだろう。今度訪れた沈黙は、ラルフの胸を押しつぶしそうに重かった。
ラセミスタは爪を噛んで、それから、立ち上がった。レイエルのひとりに頼んでイーレンタールの自室に押しかけ、酔いを中和してもらうと宣言した。彼女が選んだレイエルは、ミランダという名の、黒髪の、これまた綺麗な少女だった。イーレンタールの自室へ向かう間に、このレイエルが、シグルドを救った魔女であるということをラルフは知ったが、今は、ふうん、という感想しかもてなかった。
――そして。
酔いを無理やり覚まさせられたイーレンタールは、半泣きのラセミスタに詰め寄られても、マリアラの居場所については心当たりなど全くない、と、繰り返すばかりだった。
「だって、イーレン!」
「知らねえよ」イーレンタールは真剣な口調で、まっすぐにラセミスタの目を見て、繰り返した。「本当に知らねえ。何にだって誓う。本当だ。俺は校長と個人的なつきあいがあるわけじゃねえんだ」
「だって――」
「……本当なんだよ」
イーレンタールが肩を落とした。部屋中はひどい有り様だった。今日は大暴れよ、と言った〈アスタ〉は、大げさに言ったわけではなかったようだ。至る所に本やがらくたが散乱していて、コップや置き時計や瓶が割れたりしていたし、鼻をつくような匂いが充満していた。食べ物やべたべたした液体が盛大にこぼれている。何があったかわからないが、このイーレンタールという人物は、今日はよほどに嫌なことがあったらしい。
「ラス。……行きましょうよ」
ミランダが言って、ラセミスタの細い肩を抱いた。ラセミスタは泣き出していた。リンがもう片方の肩を支えて、ふたりでラセミスタを廊下へ連れ出した。シグルドが出て、ラルフはそれに続こうとして、フェルドが動かないのに気づいた。
フェルドは先ほどから、ずっと無言のままだった。非難するでもなく、ただイーレンタールを見ていた。イーレンタールは俯いていた。フェルドの視線を避けるように。
「……後でまた来ようよ、必要なら」
ラルフはそう言った。この部屋のにおいと惨状はあまりにひどくて、頭痛がし始めていた。フェルドは何も言わずに部屋を出た。その後に続いて、扉を閉めるとホッとした。
イーレンタールという人は、またこれから酔うのだろう、とラルフは思った。
ラセミスタもフェルドも、イーレンタールとはかなり親しい間柄、らしい。そのふたりにあんな目で見られるなんて、きっと、さっき彼をデイスイさせた出来事よりももっと、辛いことだろうからだ。
フェルドが口を開いたのは、先ほどの談話スペースに戻ってきてからだった。
ラセミスタを落ち着かせようと、ミランダとリンが一度自室に連れて行った。ラセミスタは部屋着に近い服装だったから、ちゃんと着替えさせて、暖かい上着を持ってくるとミランダは言っていた。三人の少女が消えると、フェルドはまず、机の上に山盛り残されたままの菓子から、チョコレートの棒を二本とって、ラルフとシグルドにひとつずつ渡した。それから、シグルドに頭を下げた。
「こないだに引き続いて……さっきはありがとう」
「ん?」
「いや、その。いろいろ協力してもらって、ミランダを、止めてもらって」
「ああ。どういたしまして」
「俺がもう少し早く、出て行けてたら良かったんだけど」
「そりゃしょうがなかったんだろ。……なんかさ」シグルドは苦笑した。「マリアラの相棒って、大変そうだな」
フェルドはしばらく考えた。
それから頷いた。
「まあね。でもミランダも似たようなものだろ」
「……ああ、そうだよな。まあそうじゃなきゃ俺、今頃生きてなかったわけだし。でもふたりとも一瞬も迷わないんだから相当だよ。魔女はみんなそうか? 保身を考えないのか?」
「普通は考えるだろ。……まあでも」フェルドはため息をついた。「左巻きだからなのかも。ダニエルもちょっとそういうとこあるし」
「イェイラは、」
シグルドが、反応を待つように言葉を切った。フェルドは少しの間、黙っていた。
それから言った。
「ずっと黙ってるんだってさ」
「黙秘ってやつか」
「どういう心境なんだろな。……そっか。左巻きでもあんなことできる奴がいるんだから、マリアラとミランダがああなのは、左巻きだからじゃないよな」
シグルドが何か言いかけたのにラルフは気づいた。
兄のような存在であるシグルドが、こんな風に言葉を探すところを、ラルフは多分、初めて見た。
なんだかおかしな感じだった。シグルドは世話役たちの中では一番年下だったし、同年代の若者たちは全員島を出て行っていたから、シグルドが同じ年頃の若者と話すところを見るなんて今までほとんどなかった。
シグルドは言葉を探し、逡巡し、慎重に口を開いた。
「……せっかく距離が近いんだからさ」
そして黙った。当然あって然るべき続きの発言は、いつまで経ってもなされなかった。
――なんだそれ。
ラルフはそう思ったが、何も言わなかった。チョコレートの銀紙を綺麗に破らずにむくことに心血を注いでいるふりをした。この人は本当にハイデンによく似てるなあ、と思いはしたけれど。
フェルドは意味がわかったのだろうか。その後に続いた沈黙にも怪訝そうな顔をしなかった。ただ、んー、という、相づちなのかうなり声なのかただの咳払いなのか、よくわからない音を喉の奥で鳴らした。
そこへベネットがやって来て、ラルフはちょっとホッとした。嵐の中で見ても、【魔女ビル】の明るい屋内で見ても、変わらず人相の悪い男だった。
彼はラセミスタとリンの居場所を聞いてから、ギュンター警備隊長からの伝言を伝えた。マリアラは未だ見つからないし、イェイラの取り調べも進んでいないし、グールドはまだ目を覚ましてもいないが、校長室の家宅捜索は順調に進んでいるとベネットは言った。
「それから、悪い知らせだ」とベネットは続けた。「スーザン=レイエル・マヌエルの遺体が上がった。やりきれねえ話だ」
空気が明らかに変わった。
スーザンという人間が誰なのか分からないが、マリアラが行方不明というこの状況で聞くには、人死にというのはあまりに重い情報だった。フェルドはもっとだろう。見ると人相が変わっている。
「……イェイラに話を聞かせてもらえませんか」
フェルドが声を絞り出し、ベネットは少し考えた。
「……マリアラの居場所については知らないと、それだけははっきり答えてた。俺も聞いたけど、多分嘘じゃねえと思う」
「信用するんですか。あの人は……今日の事件を起こすために、自分の相棒まで、」
「気持ちは分かるが、スーザンの死因はまだはっきりわからねえんだ。状況証拠だけで決め付けるのは禁物だ」
フェルドの形相を見て、ベネットは困った顔をした。
「……この仕事してるとさ、嘘ついてるかどうかってのは、なんとなく分かるようになってくんだよ。イェイラはマリアラが部屋に戻ったことを疑ってもなかった。行方不明だと聞いて、驚いてた。行き先の心当たりもないって言った。嘘じゃなさそうだ。その点は、だけど」
「……」
「とにかく隊長に話しとく。許可が出たら呼ぶから」
「……お願いします」
フェルドは言ったが、ラルフは、もし呼ばれるにしてもだいぶ先だろうという気がした。フェルドの目がすわっていたからだ。イーレンタールとは違い、イェイラは、マリアラを昨日も今日も殺そうとしたのだ。その上今も、何も告白せずにだんまりを続けている。今のフェルドがそんなイェイラに会ったら、何をするか分からない。
ベネットは行きかけて、振り返った。
人相の割に人のいい男らしい。彼は気の毒そうな顔をしていた。
「校長の部屋の書類とかは全部持ち出した。本部に持ち帰って調べる。今日のとこは校長の部屋でやることは済んだ。しばらく関係者以外は立ち入り禁止だ。……でもお前らなら誰も、見とがめねえから」
気が済むまでいくらでも捜していい、ということだ。ベネットが去り、ラルフは、居住まいを正した。
――フェルドに言わないでね……?
ごめん、とラルフは、頭の中だけでマリアラに手を合わせた。
――もう無理だ。これ以上は。




