マリアラは誓う
でも、それはもっと残酷なことなのかも知れないと、すぐに思った。マリアラをここに落とした人物、長年この国に君臨してきた人物について話すとき、ビアンカの優しい声には確かに憎悪が混じっていた。強ばった、硬い、冷たい声で、彼のことを話した。おそらく亡命したのであろう彼に、既にひとかけらの好意も、持っていないようだった。
『……いないわ』彼女は、やはりひどく、冷たい声で言った。『死んでしまった。……いなくなってしまったの』
それは。
大昔に愛していた彼とはもう、別人になってしまったと、いうことなのだろうか。
『ねえ、マリアラ』
次に聞こえた声は、もう元の、優しい声に戻っていた。
『……ごめんなさいね。なんだか本当に、興奮してしまって。こんな風に人と話すの、本当に久しぶりなんだもの。あなたって聞き上手ね。エルティナみたいだわ』
「そ……そう?」
『あの人も本当に聞き上手だった。ふふ。……あなたがここを出たら、あたしのことは忘れて頂戴』
本当に優しい人だ、とマリアラは思った。
ここを出たら、と彼女はいった。出られることを、一筋も疑っていないような言い方だった。
『あたしのことを誰にも話さないで。〈アスタ〉に、あたしを出してって、頼まないで。あなたと話せるのは今だけ。この穴の中でだけ、よ』
「そうなの……? どうして?」
『あたしは亡霊だもの』ひどく哀しげな声だった。『もうここに残っている意味なんかないのに。あたしの賭は失敗したの――それなのに、ここに居続けている。ミネアも死んだ、彼ももういないのに、あたしにはもう、なんにも出来ないのに』
「……そんな」
『……でもね、マリアラ』彼女はひどく、優しい声で言った。『亡霊は退治されるべきものじゃない? 高僧とかがあたしの霊を慰めて、たくさん友だちのいるあの世という場所へ、送ってくれるはずじゃない? ――でも、あたしは、そうされたくないの』
「……そうなの」
『逃げるみたいでいやなのよ。ここにいられる内は、いて、ミネアや彼の代わりに、この国がどうなるのかを見ていたいの。だってこの国がこんな風になってしまった原因の一端は、確かに、あたしの愛した彼にあるんだもの。せめてエルカテルミナの責務が果たされるまでは……だから……あたしのことを、誰にもいわないで。誰にも、話さないで。フェルドにも、ラセミスタにも』
「校長、にも?」
聞かずにはいられなかった。
ビアンカは、冷たい声で言った。
『当然よ。あたしを……恐れるでしょうから』
「そう、なの?」
『そうよ。たぶんあたしが残っていることを知ったら、イーレンタールに命じて削除させようとするでしょう。だから……お願い』
「……わかった」
頷くと、ビアンカは、言葉を重ねた。
『本当に? 誰にもよ。ダニエルにもララにも、ラセミスタにもミランダにも、フェルドにもよ』
「うん。誓うよ。あなたはわたしの、恩人だもの」
『……ありがと』
ようやく、声に柔らかさが戻った。温かな声で、彼女は言った。
『エルカテルミナに頑張って欲しいの。協力はほとんど出来ないけれど……でも、それは本当のことよ。あたしの心からの気持ちなの。フェルドを応援してあげて。もうひとり、左、が生まれたら、彼女を……たぶん女性だと思うわ……大切にしてあげてね。エルカテルミナは本当に大切な存在なの。かつてはエスメラルダの国民全部が…………として、大切に大切に守ってきたのよ』
「女性、なの?」
『そう。エルカテルミナは……元々、女性の、担うものだった。今までに生まれた左は例外なく女性だったわ。ねえ、マリアラ』
「うん?」
『あなたは本当に偉かったわね。出張医療で……彼女を、助けたんだものね』
「……ビアンカも、左の、エルカテルミナは、ミランダだと思う?」
『今までの経験からいえば、彼女である可能性が一番高いわ。まず右が生まれるの、マヌエルと同じようにね。そして、その右の周囲にいて、仲の良い、同年代の、魔力の高い水の左巻きが、今までの左の条件だったわ。彼女に未だに相棒が生まれないのは、いったいなぜだと思うの』
「……」マリアラは思わず座り直した。「そのせいで……相棒がいないの?」
『そうよ。フェルドと同じく、彼女もたまごの段階からカルロスに目をつけられていたんだもの。たまごの段階からデータを操作して、イリエルとして孵化する可能性が一番高いと思わせて、【親】にイリエルが指定された。全部そのせいだったのよ。可哀想に、彼女は、自分が変わり種だからだって、思っているんでしょうね。……気をつけて。二度目の孵化が来るまでに、彼女をエスメラルダから出してあげられたらいいんだけど』
「でも……校長は、エスメラルダを出たんでしょう? しばらくは、大丈夫なんじゃないのかな」
『……まあそうね。それにミランダが本当にそうなのかどうかだって、実際わからないんだわ。彼女はダミーである可能性もある。カルロスが長年、エルカテルミナの責務を阻止し続けたから、そろそろ別の条件を持つ左が、生まれるかも知れないしね。でも今のところ、一番可能性が高いのは間違いない。カルロスは彼女を疎んじている。出張医療で……これはギュンターとガストンが今、調べているところだと思うけれど。カルロスは、出張医療で、ミランダを生け贄にしようとしたのよ。狩人に出張医療の情報を流して、リファスでミランダを殺させようとしたの。一石二鳥だったんだわ。出張医療を打ち切る口実にもなるし、エルカテルミナ候補を殺すことにもなるんだもの。――でもあなたが一緒にいた。だからミランダは、無事だったのよ』
「……」
『カルロスはあなたが一緒に行ったことを知らなかった。知っていたら襲撃を取りやめさせたかも知れないわね。あなたはカルロスにとって重要な存在だったから』
「……フェルドの足枷だったから」
『そう』
マリアラは呼吸を整えた。ひどい――本当に本当に、ひどい話だ。
『カルロスがいない間はいいけど……でも、気をつけてね。カルロスは昔から、本当に頭のいい人なの。今回もたぶん、何らかの方策を練って、帰ってくると思うわ』
「どうやって?」
『推測は出来る。……ごめんなさい。それは言えない。彼はエルヴェントラなの。あたしはその、道具なの。どんなにあなたの役に立ちたいと思っても、エルヴェントラに確実に不利益になりうる情報は口に出せない――』
「……そっか」
ふたりの間に、哀しい沈黙が落ちた。
人間と変わらない思いやりと感情と、話術があるビアンカは、マリアラにとってはもはや、〈アスタ〉のモニタを通して話している、生身の人間と変わらなかった。〈アスタ〉以上に本物の人間だという感触があった。その彼女が――今は憎んでいるらしい人間の、『道具』として行動を規制されるということは、ひどく残酷なことであるような気がする。
沈黙はしばらく続いた。
その間、マリアラは、どうやらぼんやりしていたらしい。
ようやく我に返って、それから、何度か話の糸口を捜そうとしたが、どうしてだか、頭に浮かんでこなかった。さっきまではいろいろと聞きたいことを思い浮かべていたような気がするのに。
チョコレートをつまもうとしたが、もう食べたくなかった。水を口に含んだが、口の中を湿らせただけで、お腹がいっぱいになってしまった。コップを置いて、マリアラはハウスの床にそっと横たわった。なんだか疲れた。哀しくて寒くて、なんだかとても、億劫だ。
ビアンカの声が聞こえた。久しぶりに聞いた気がした。
『マリアラ?』
「……ん」
『眠いの?』
「……かな。昨日、あんまり良く眠れなかったの」
『……そう?』ビアンカは少し沈黙した。『もうとっくに夕暮れね。あなたが落ちてから――五時間ちょっとか。ねえマリアラ、大丈夫……?』
「うん。だいじょうぶ。少し休みたいだけ」
『じゃあ、寝る前に、ね、マリアラ?』
「ん」
『毛布をかけた方がいいわ。巾着袋があったのは本当に運が良かったわ。寝袋があるでしょう。毛布も。ね、捜しなさい。そのまま寝たら風邪を引くわよ』
「……いいよ」
『良くないわよ』
「出られたら……すぐ治してもらえるもの」
――出られなかったら、風邪引いたって構わないもの。
その言葉は言わなかった。八つ当たりをする気はなかったからだ。ただ単に、なんだか急に眠たくなってしまっただけだ。ビアンカの声が焦りを含んだ。
『ね、マリアラ!? 起きて! ちょっとの間だけよ! ほら、頑張って! 起きなさい、起きなさい、起きなさいっ!』
「……ん」
確かに寒かった。マリアラは出来るだけ縮こまって、膝を抱えて、目を閉じた。
『息が出来ないの!? どこも辛くないの!? ねえ――酸素!』ビアンカの声が悲鳴になった。『そうよ〈アスタ〉、酸素が減ってるんだわ! 酸素ボンベも持ってるはずよね!? マリアラ、起きなさい! え、頭痛!? 頭痛はあるの!? マリアラ――立ちなさい、二酸化炭素は下に溜まるのよ、横たわったらだめよ! 起きて、起きて、起きて――』
悲鳴が脳を素通りしていった。大丈夫だと、マリアラは思った。息苦しい感じは全然しなかったからだ。
ただ眠いだけだった。もう何も考えられなかった。音が遠のいて、静寂が訪れた。




