〈彼女〉はさらに話す
マリアラは呆気に取られた。
「え……引きずって、って、言った?」
『そうよ。文字どおり。すごい形相だわ、見る?』
「や、……やめとく」
『あなたって真面目なのね』ビアンカはくすっと笑った。『とても心配してるわ。これから捜し回るでしょう』
「……見つけてくれるかな」
ビアンカは沈黙した。
不自然な沈黙が落ち、マリアラは、座り直した。
三日三晩くらいなら生き延びられると、先ほど彼女には言ったけれど、でも、もちろん、出してもらえるなら早いに越したことはなかった。
でも。
この落とし穴の存在を、知らないものとして振る舞えと言われている、とビアンカは言った。
それは、〈アスタ〉のデータバンクにさえ、この穴の場所は載っていないということじゃないだろうか。知っている人間は校長と、マリアラと、他にあと誰なのだろう。
「……あの」
『……』
「この穴のことを知っている人って、他に……いるの?」
ビアンカは長々とため息をついた。
『いないわ』
ぞっとした。
「でっ、でもあの、校長の腹心とか……ああ、モーガン先生を捕まえようとしたひととかいるでしょう、校長の手先となっている、ザールみたいなひととか」
しばらく、間があった。
それから、観念したように、彼女は囁いた。
『生きている人間では、他に誰も知らないの。……本当なの。真鉄を未だにこんな場所に残しておくということの危険さを、彼は良く弁えている。頭のいい人なのよ、昔からね。だからこの穴のことだけは、絶対に誰にも教えない』
「……そうなの」
それじゃあ、と、思わずにはいられなかった。
フェルドとラセミスタがどんなに捜してくれても、ジェイドを締め上げて、警備隊長に頼んで、【魔女ビル】中をしらみつぶしにしてくれても、――見つけられない、と、言うことではないだろうか。
「コイン」
呟くと、彼女が言った。『え?』
「出張医療の時に、わたしの居場所を、フェルドのコインを使って捜したと聞いたの――狩人が鉄道を追いかけてきたのもそのせいだったそうなんだけど……でも」
ビアンカはまた沈黙した。可哀想にと、思ってくれているその気持ちが、その沈黙からあふれ出るようだった。
マリアラは呻いた。
「コインも魔法道具……だよね」
『……そうね』
絶望的だと、マリアラは考えた。
中から外に気づいてもらう手段がない。外からこの穴の存在に気づく手段も、ない。のだ。
「……どうしよう」
『諦めちゃいけないわ』ビアンカの声が強さをおびた。『きっと巧い方法があるわ。さっき、三日三晩なら生き延びられると言ったじゃないの。あなたは賢い子だわ。禁止事項に縛られたあたしから、あんなにたくさん情報を引き出せたじゃない。あたしたちを使うことを考えなさい。〈アスタ〉を。ね、いい? 諦めちゃだめ。どうにかして、〈アスタ〉に、あなたの居場所を示唆させるようにし向けるのよ。ね? いい考えでしょう。きっと巧い方策を考えつくわよ』
優しい人だと、マリアラは思った。声は力強く、優しくて、マリアラの胸にある不安をどうにかふくらませずに済むように、しようとしてくれているのが良くわかる。その内心がどうあれ。――そんな方法などないと、本当はわかっていながら、それをマリアラに悟らせないように振る舞おうとしてくれている。
だからマリアラは、微笑んだ。
「うん。頑張って考えてみる」
『そうよ。きっといい考えが浮かぶわ。あたしも〈アスタ〉も協力するから』
明るい声に、うっかり本当に、励まされてしまいそうになる。
ビアンカには初めから、わかっていたはずだ。マリアラがここを出る手段なんかないのだということを。なのに今の今まで、マリアラにそれを悟らせなかった。出られるのは当然のことなのだという風に、話してくれていたのだ。
――優しい人だなあ、この人は。
ここでこの人に会えたことは、本当に幸運なことだった。
いったいどうして、今もなお、こうして人格を残しているのだろう。
心臓はまだどきどき波打っていた。出られる方法を考えるにしても、もう少し落ち着いてからの方がいいだろう。今はまともに考えられない気がするし、すぐに浮かばなかったらパニックになってしまいそうだ。マリアラは呼吸を整えた。
「……あの。今はとにかく、あなたの話をもっと聞いてもいい?」
訊ねるとビアンカは、ホッとしたように言った。『もちろんよ』
「人格を保存するなんて、どうやったらできるの?」
『ああ……そうね、不思議でしょうね。といってもあたしも、本当はどうやったのか良くわからないの。あの時〈アスタ〉はまだいなかったし、あたしは死にかけていたから』
「あなたも死にかけたの……?」
思わず言うと、ビアンカは笑った。
『そりゃ人間だったんだもの、死ぬわよ。あたしは三十一歳で病死したの』
「……若っ!」
当時の平均年齢が何歳だったにしても、死ぬにはまだ早すぎる年齢だ。
ビアンカはくすっと笑った。
『でしょでしょ。全くひどい話だったわ。あの頃は、さっきも言ったけど、マヌエルが生まれ始めた頃だったのね。マヌエルって、初めは右巻きから生まれるんですって。アナカルシス近辺で、一番初めに孵化したマヌエルも、次のマヌエルも、風の右巻きだったの。それから次第に、少しずつ、孵化する人が増えていったんだけど……左巻きは滅多に生まれなかったのよ』
「媛の治療をしたという人は?」
『……彼女は』声が少し、悲しげになった。『あれ以来、エスメラルダには戻ってこなかったの。責任を感じていたんでしょうね。でも……あたしが病気になったと知ったら、多分来てくれたと思うわ。でも知らせる方法もなかったし、たとえ知らせることができていたとしても、間に合わなかったと思う。
あたしの病は、やっかいなものでね。伝染病でなかったことだけは、幸いだったけれど。初めは軽い風邪だと思っていたのよ。でも……いつまで経っても治らなくてね。今ではもう恐るるに足りない、どうってことのない病なんだけど、当時は恐ろしい病気だったんですって。あたしの友人……ああもう、面倒だわ。偽名をつけましょう。エルティナ、でどうかしら』
「……わかりやすいね。うん、じゃあそれで」
『エルティナを救った医師は、あたしの体調不良に気づいて、今すぐに……さっきの、左巻きのレイエルを捜せと言ったわ。今後進行するであろう病状まで教えてくれた。衰弱して、歩けなくなって、入浴も排泄も自力では出来なくなって、意識が混濁して、幻覚を見たりうわごとを言ったりするようになるとね――それから、レイエルが間に合わなかった時のための余命も』
「……ごめんなさい。こんな話までさせてしまって」
呻くと、彼女はさばさばと笑った。
『あら、いいのよ。だってもう大昔の話だもの。気にしないで。医師がそう教えてくれたから、あたしはいろいろと対処ができたの。
あたしの望みは、あの頃から――ずいぶん最近まで、たったひとつだけだった』
声に、ふと、壮絶な悲しさが宿ったように思えた。
不思議な言い回しだと、マリアラは思った。ずいぶん最近まで――まるで今は、違うのだ、というような。
『あたしは彼と同じになりたかった。大好きな大好きなあの人と同じように、いつまでも若くて、健康で、……彼と一緒にどこまでも行ける、身体が欲しかった。それだけ』
――待って。
マリアラは、ぞくりとした。
それは――誰の話なのだろう?
『エルティナはね、変な知識を持ってる人だったの。そろばんとか箸とか、おにぎりとかおでんとか、そういうものの概念をたくさん知っていたの。今リズエルが使っている端末の概念も知ってたわ。あたしが死に瀕して、彼にあんな――ひどいことをしておきながら、それでも性懲りもなく彼のことを愛してるって、年を取らない身体が欲しくてたまらないんだって、知った彼女は、あることを教えてくれたの。ええと……なんだったかしら……ろぼっと、だったかしら? そう、ロボットだわ。今で言う、魔法道具人形のことよ。あの頃は、アルフィラなんて夢のまた夢だった。でもエルティナは、その概念を知っていたの。人間そっくりに動き回れる人工の道具を、将来、時間はかかっても、人間は作れるようになるだろうって、千年前に彼女は予言したのよ。
あたしはそれに飛びついた。それしかないと思ったの。何年かかっても良かった。千年でも二千年でも、一万年でも、彼が生きている限りは、それに賭けようと思ってた。あたしはそのためだけに、人格を保存してもらって、外見と声のデータも保存してもらって……そして、この国の歴史の流れを、ずっと見続けてきたのよ』
「……」
『どうやってか……確か、ヘスの麻薬を使ったはずよ。あたしが次に目を覚ましたとき、ヘスを飲んでから七十年近く経っていた。エルティナもその夫も、あたしの仕事を手伝ってくれていた人たちも、もう亡くなっていたけれど、もうひとりの友人……そうね……ミネア、にしようかな。偽名よ、いい? ミネアがいてくれたから、あたしは目を覚ますことが出来たの。ミネアは彼……あたしの大好きだった彼と同じく、年を取らない身体を持っていた。それで、魔法道具の天才、今で言うリズエルのような人間を外国で見つけてね。あたしを宿らせる端末を作るために、エスメラルダにつれてきてくれた。彼女はとっても親切な人だった。その後も、そうね、頻繁にとはいかなかったけれど、二十年とか三十年とか、五十年とかに一度、あたしを訪ねてきてくれたの。おしゃべりをして、あたしが人間だったんだってことをちゃんと思い出させてくれたわ。いなくなるときには、じゃあまた来るわ、頑張るのよビアンカって、あたしのことを励ましてくれて――約束どおり、また来てくれたのよ』
マリアラは、考えた。
その人は……さっき、五十年前に死んだと、彼女は言わなかっただろうか。
その考えを肯定する、囁きが続いた。
『……死ぬまで、あたしと、エルティナとの、約束をちゃんと守ってくれた。今でもまだ信じられない。だって死んだところを見たわけじゃないんだもの。今でもひょっこり現れそうな気がする。大勢の人を守ろうとして亡くなったというところが、本当に、あの人らしいけれどね……』
「……そう」
『あの人より長生きするなんて、夢にも思わなかったわ。あたしはずっと、頭のどこかで、彼女に嫉妬していたの。ミネアはあたしの大好きな彼と、同じ身体を持っていた。年齢も釣り合う、若くて美人で、彼と同じ立場で、同じものを見ていられる人だったんだもの。あの人も彼ももういないのに……どうしてあたしはまだ、ここに残っているのかしら。本当に、最近、わからなくなるのよ』
「アルフィラを……」
マリアラは、咳払いをした。涙声になってしまっていることを、悟られなかっただろうか。
「ヴィヴィみたいな……アルフィラを、イーレンタールやラスに、頼もうとは思わないの」
『……思わないわ。だってもう、今さらだもの』
「……今さら?」
『あたしは彼と並んで立ちたかったから、いつか作られるだろうアルフィラを夢見て、人格を保存したの。……でももう、彼はいないもの』
「いないの……?」
だって。
年を取らない、寿命が人間より長い――その条件に当てはまる男性を、マリアラはひとり知っている。ひとりしか、知らない。
彼は今も、ビアンカのすぐそばにいるのではないのだろうか?




