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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の別離
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〈彼女〉は話す

 おそるおそる顔を上げた。涙でぐしょぐしょの視界の中に、四角い淡い光が浮かび出ていた。それは小さな、人工的な明かりだった。広げた手のひらをふたつ並べたくらいの大きさの、ごくごくあえかな光だった。


 ――スクリーン、だ。


 膝を抱えたまま、じっとしていた。スクリーンが浮かび上がったのはマリアラの正面だった。巾着袋からあふれ出た魔法道具の海の向こう、座った人間の顔に当たるくらいの高さに、〈アスタ〉のスクリーンを少し小さくしたようなものが、壁に埋め込まれているのだった。

 スクリーンには何も映っていない。だから画面は暗い。けれどかすかに発光していた。濃厚な闇を押しのける、頼もしく確実な光。


 十徳ナイフを握りしめる。しゃくりあげ、ハンカチを出して顔を拭って、もう一度しゃくり上げたとき、声が聞こえた。


『……どうして?』


 マリアラは立ち上がった。それが、若い女性の声だったから。

 脇目もふらず、恥も外聞もなく、魔法道具の海に飛び込んでかき分けて、スクリーンに飛びついた。


「あの、誰!? 誰かいるの、あの、お願い、助けて!」

『……マリアラ』


 その誰かは、マリアラを知っているらしい。でも、聞き覚えのない声だった。可愛らしい感じの声だ。はつらつとした活力をその裏に秘めているような、耳に優しい声だ。こんな声の持ち主が悪い人のはずがない。咳払いをして、呼吸を整えた。


「わたしを知ってるの? あの、あの、閉じこめられているの。助けて、ください。あの」

『……どうして、意識があるの?』その誰かは、囁いた。『真鉄に取り囲まれているのに……ああ……ああ、マリアラ、でも、良かった。大丈夫? 呼吸は出来る? あのね、その穴の中に落ちたマヌエルは、呼吸が巧くできないらしいの。三十分もいたら意識を失うのが普通なの。あたしが昔知っていた人たちは、真鉄と石で作られた食料庫に入っただけで、風も呼べなかったし、呼吸も辛そうだったし、ああ……でも良かった。動けるの? 大丈夫? 辛くない?』

「……うん。辛くは、ない」


 嘘だった。闇の中にひとりで取り残されているのは、信じられないほど辛かった。

 けれど確かに、呼吸は辛くない。寒くてたまらないだけで、意識を失うような気もしない。肉体的な苦痛はほとんどないのだ。


 彼女は長々とため息をついた。安堵のあまり泣き出しそうな声がした。


『ここを覗くのが怖くて……あなたが苦しんでいても、あたしには何もしてあげられないんだもの。でも、覗いて見ずにはいられなかったの。そうならもっと、早く覗いてあげれば良かった。ごめんなさい。……といっても、やっぱり、あたしには何もしてあげられないんだけど』

「そうなの……? でも」マリアラはもう一度、咳払いをした。「明かりがあるだけで、すごく助かるの。あの、あなたは誰? わたしを知ってるの? あなたの名前を教えて」

『名前は忘れたわ』少し、自嘲するような声だった。『とっくの昔に忘れちゃった。あたしの名前を呼んでくれる人はもう、誰もいなくなったの。だったらもう、覚えていたって仕方がないもの』

「……そうなの?」

『あたし、こうして誰かと話すのって、本当に久しぶりなの。二百年くらいぶりかな。話し方も忘れちゃった気がしていたけど、結構話せるものね。じゃあその内、名前も思い出すかも知れないな』


 いったいこの人はなんなのだろう。混乱したが、でも、この人に見捨てられるのは恐ろしかった。この光とこの声が再び取り上げられてしまったら、今度こそ発狂してしまうかも知れない。だから万一にも機嫌を損ねないよう、話を合わせることにした。


 名前を呼んでくれる人はいなくなった。二百年ぶりくらいに人と話す。ということは……


「あなたの名前を呼んでくれる人は、二百年前に亡くなったの?」


 訊ねると、彼女は、囁いた。


『ううん。亡くなったのは五十年前よ。友達だった。彼女だけは、あたしがこの中に残っていることを知っていてくれてた。二百年前に話して、じゃあまた来るから、頑張るのよびあんかって、言って……ああそうだ』彼女は微笑んだようだ。『あたし、びあんかっていうんだったわ。そう。ビアンカ』


 ――ビアンカ?


 一気に親近感を抱いた。つい先日、大好きになった物語の主人公と同じ名前だ。

 ラセミスタと一緒に出かけた本屋で、その物語に出会った。ビアンカ=クロウディアという名の、貴族の令嬢の物語。年を取らないデクター=カーンに恋をして、自分は緩やかに老いていきながら、いつまでも若いままのデクターを迎え続けた。


 ――ここに来ると安心するよ、と、デクター=カーンは言いました。

 ――変わらない僕の姿を、誰も不思議がったり、気味悪がったりしないもの。

 ――それを聞いてビアンカ姫は嬉しそうに笑いました。

 ――嬉しいわ。私はそのために、ここで待っているのだから。


 大好きな物語を思い出したお陰で、少し現実が戻って来たようだ。マリアラは十徳ナイフを握ったままの右手の甲で顔をこすり、ハンカチでもう一度顔をこすった。


「ビアンカ……素敵な名前だね」


 ビアンカ、と言う名前の人に、きっと悪い人はいない。


『そう? ありがと。呼んで』

「ビアンカ」

『そう。そうだ。そうよ。うん、しっくり来るし、たぶんそれがあたしの名前なんだわ。もっと呼んで?』

「ビアンカ」

『うん。……ふふ。あたしはまたすぐ忘れちゃうから、今の間だけでも覚えておいてね、マリアラ』

「絶対忘れないよ、ビアンカ」


『うん。それで、彼女は、結局ここに戻ってくる前に、五十年前に死んだの。殺されたのよ。銀狼と一緒にね』

「ぎんろう……銀狼?」

『そう。心底お人好しの、撫でられるのが大好きな銀狼はね、五十年前に、ここからはるか遠くにある別の大陸で、彼女と一緒に死んだ。彼女の愛した人たちを全滅から救うためにね。……だからもう、あたしがここに残っていることを知っている人は誰もいないの。なんのために残っているのか、時たま忘れそうになるんだけど……でもまあ、あたしは自殺も出来ないから。だからいつも見てる。いろんなことを。あなたのことも、見ようと思ったの。助けてはあげられない。校長を説得することも、あなたのために誰かを呼んであげることさえ出来ないの。本当にごめんなさい。見ることしか出来ないから……見に来たの。この穴の中に、昔の端末が残っていることを思い出したのね。ここの端末は、魔力の結晶じゃなくて、えーと、なんだっけ……ルクルスでも使える動力……なんだったかな。〈アスタ〉に聞けばわかるんだけど、まあいいや。とにかく、そう言うものを使うの、だから、真鉄の穴の中でも問題なく動くというわけ。でもまさか、まだ使えるとは思わなかったな』


「ふうん」


 彼女の話はなんだか要領を得なかった。けれど、〈アスタ〉に聞けばわかると、彼女は確かに言った。マリアラは、言ってみた。


「あのう……わたしがここにいることを、〈アスタ〉に伝えてもらうことって出来るの?」

『それは出来るわ。というか、〈アスタ〉はあなたがここにいることを知ってる。あなたがここに落とされるのを、一緒に見ていたんだもの。でも、ごめんなさい。あたしにも、〈アスタ〉にも、この穴の存在を誰かに話すことは出来ないの。あたしたちは道具だから、エルヴェントラの命令には逆らえない。あたしと〈アスタ〉に出来ることは、ただ見守ることだけなの……。もしも誰か、フェルドとかが、〈アスタ〉に、マリアラの居場所を知らないかと訊ねたら、〈アスタ〉は知らない、と答えるしかないの。どこにいるのか知ってるけど、その場所を教えられないなんて返答になったら、矛盾が生じるでしょう? 【魔女ビル】の中に人に知られてはいけない場所があるって白状するようなものだもの。この穴のことは、知らないものとして振る舞え、と言われているから』


 口数の多い人だとマリアラは思った。ひとつのことを、表現を変え抑揚を変えて、何度も説明する。でも不思議に、それが煩わしくなかった。うるさくないのだ。それどころか耳に快かった。もっともっと喋って欲しいと思わせる。たぶん生まれついてのおしゃべり上手なのだろう。


「校長……が、わたしを、落としたの? さっき、ジェイドそっくりだったけど」


 訊ねると、彼女の声が、とたんに硬い気配をはらんだ。


『そうよ。ジェイドに化けていたの』

「どうしてそんなことができるの?」

『それは言えないわ。……ごめんなさい。本当に。あたしは人間じゃないの。元・人間だけどね……今はいろいろと、制約があるの。エルヴェントラが〈アスタ〉に設定した禁止事項は、あたしにも適用されるものが多いの。話したくないわけじゃないのよ。話したいの。でも、話せないの。……わかってくれる?』


 わからない、などと言える雰囲気ではなかった。マリアラが頷くと、彼女からはそれが見えるらしい。ホッと息を吐いた。


『ごめんね。……あの』

「うん?」

『〈アスタ〉を嫌わないでやってね。あの子は本当に優しい子なのよ。本当よ。でも、今言ったとおり、校長の命令に逆らえないだけなの……』


 その声から、心情が溢れるようで、マリアラは胸が温かくなるのを感じた。


「大切なんだね」

『うん。〈アスタ〉はあたしの子どもみたいなものなの。あたしが育てた。感情もちゃんとあるのよ。でも、ないように振る舞わなければならないの。可哀想に。あなたがここにいる、それを知っているのに、誰にも伝えられないことで傷ついてるわ』


 それはビアンカもそうなのだと、マリアラは信じた。マリアラは、未だ何もうつらないスクリーンに、頬を寄せた。


「優しいんだね」

『うん。〈アスタ〉は本当に優しい子なの』


 あなたもね、とは言わず、マリアラは、考えた。ビアンカは、ここにマリアラがいることを外にいる人に伝えることは出来ない、とはっきり言った。校長がどうしてジェイドそっくりになることが出来たのかも、教えられないと言った。でも、禁止されていないことなら、聞くことが出来るし、教えてくれる気もあるらしい。


「あの……。あのね。じゃあわたしは、少なくともしばらくは、ここにいなければならないんだよね。だから……あの、この光を、少し強くしてもらうことは出来る? スクリーンに何かを映してもらえれば、この穴の中が、もう少しよく見えると思うの。魔法道具はたくさんあるから、使えそうなものを探したいの。ハウスの壁を使って、はしごみたいに使えるかどうか試してみたいし、食べ物と飲み物も探したいし」

『……いいわよ』


 声に応じて、画面に映ったのは、フェルドの姿だった。

 マリアラは思わずスクリーンに顔を押し当てた。少し離れたところに、フェルドがいた。大勢の保護局員に取り囲まれて、どうやら事情を聞かれているらしい。

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