ラルフは菓子を食べる
『普段はそれほど酒癖の悪い人じゃないのだけれどね。今日は大暴れよ。何か、たぶん本をね、投げたのだと思うの。端子が外れて中が見えたわ。でも良かったわ。私を締めだして泥酔されると、急性アルコール中毒に対処できないもの。様子を見るところ、それほど心配はないみたい。でもたぶん、明日はレイエルのお世話になるでしょうね』
「……何やってんだよこんな時に……。わかった。ありがとう、〈アスタ〉。じゃあ俺、工房からたぶんこれだろうっての持ってくる。ラス、お前使えるか?」
「任せて。あれから研究したから」
ラセミスタはしっかりと頷いた。それを受けて、フェルドが駆け出していく。
その場に沈黙が落ち、やることもなくなってしまって、ラルフは身じろぎをした。机の真ん中に大きな菓子鉢が置かれていて、そこに山ほど盛られた数々の菓子が、どうしても目にはいるのだ。今はそんな場合じゃない。マリアラが心配でたまらないのに、どうして目は勝手に菓子に吸い寄せられるのだろう。
しかしそれは仕方のないことだと、唾を飲み込みながらラルフは思った。目の前に、ラルフが今までに食べてきた全てよりもかなり多い量の菓子が、どうぞ取ってくださいといわんばかりに積み上げられているのだ。ラルフの属している世界では、こんなに無造作に置かれていたら、数分も経たない間に子どもたちの間で阿鼻叫喚の奪い合いが始まるだろう。
ここは本当に別世界だ。
ソファは今まで夢見たことがないほどふわふわだったし、誰がどこにいるかということは、人に聞き回らなくても〈アスタ〉がすぐに教えてくれる。その上、――こんなに山盛りのお菓子だ! それもこの無造作な扱いはどういうことだろう! クッキーに、チョコレート。キャラメルに飴もある。他にも、見たこともない色とりどりの甘いものたち。なんだか泣きそうになった。小さなチョコレートのひとかけらを壁の割れ目に隠して、次のさし入れまでちみちみ囓って保たせるということなど、【魔女ビル】の住民は想像したこともないだろう。
「これ」とシグルドが言った。「もらってもいいか」
「あ、うん。どうぞどうぞ」
ラセミスタが頷いて、シグルドは、お菓子の皿からクッキーを一枚取った。ラセミスタはそれで気づいたらしく、ラルフにほほえみかけてきた。
「えっと、ラルフ? 昨日はうちの兄とマリアラがお世話になりました。お腹空いてない? 良かったら食べて」
ラルフは喉がからからに乾いているのに気づいた。そして羞恥に真っ赤になった。物欲しげな目をしていただろうか?
「……あ、う、うん」
「そうそう、昨日話したよね。ラセミスタは甘いものが大好きで、あたしも、誰にも負けないくらい甘いものが好きなの。ラルフに勝負しよっかって言ったら、ラルフも受けて立つって言ってた。マリアラが戻って来たらさ」リンは優しい口調で言った。「みんなで勝負しようよ」
「マリアラは弱いから、たぶんすぐ負けちゃうよ。デラックスの時も半泣きだった」
「……デラックス!」リンが色めき立った。「【魔女ビル】喫茶室のお化けパフェのこと!? ウソ! あれ食べたことあるの!?」
「うん、ついこないだね。知ってるの、デラックス?」
「すっごい有名だよー! 雑誌によく載ってるもん! ダリアが彼氏に連れられて食べに行ったって言っててっ、羨ましかったんだ……!」
「そうなの?」ラセミスタはきょとんとしたようだ。「じゃあ一度、食べに行ったら?」
「かっ、簡単に言わないの! 【学校ビル】ならともかく【魔女ビル】は一般人には気軽に足を踏み入れていい場所じゃないの! いや医局とか食堂とかなら行けるけど、あの喫茶店上の方にあるじゃん! ああ、そうなんだ、いいなあ……! 大きさもさることながらその味が評判で、食べ続けても飽きないようにという店長の配慮がいたるところになされた珠玉の一品ってホント!?」
ラセミスタは目を細めた。「うん、美味しかったあ」
「その上マリアラが半泣きになるほどの量なのね!」
「うん、満足の行く量だったよ。……じゃあ今度、一緒に行く?」
「……!」リンが震えた。「い、いいの!?」
「い、いいよ。マリアラが、ね、今度また付き合ってくれるって、言って、たから。休みが合わなくても、夕ごはんの時、とか、に……」
ラセミスタは真っ赤になっていた。口調もしどろもどろだ。反対にリンは幸せそうに笑った。
「ホントに呼んでくれる? 約束だよ?」
「うん。約、束」
「やったー!」
何だか新たな友情が育まれつつある現場に遭遇しているようだ。考えていると、シグルドがラルフの前にチョコレートを一枚置いた。
「ここじゃ遠慮はいらないみたいだよな」
「シグ……」ラルフは囁いた。「こんなに一度に食べたら俺、変になるかも」
「なるわけないだろ」
「俺……施しを受けるのは嫌なんだ」
「言うと思った」シグルドは微笑った。「でも施しじゃない。友人からのお土産だ。あのさし入れと同じことだ。……もう一枚もらおう。ほら。大丈夫だ、こんなにたくさんあるんだから。な? ラルフ、お前は子どもだろ。たった九歳のな。その上おやつ時もとっくに過ぎて、もう夕食が近いような時間だろ。どんな子どもだって腹が減る。腹が減っていて、夕食にもありつけなさそうな子どもに菓子を渋る人間は、どこかがおかしいんだ。お前が遠慮する筋合いなんかどこにもない。子どもは余計なことを考えずに、目の前にある菓子を食べていいんだ」
「俺、子どもじゃねえもん……」
シグルドには全てがお見通しなのだとラルフは思う。当然だ。シグルドだってラルフと同じような子ども時代を過ごしてきたのだから。甘いものがどんなに欲しいか。欲しいと思っても、世話役たちにねだるわけにもいかない。ふた月か三月に一度だけ、ほんの少しだけ手に入れられる甘いものは、ルクルスの子どもにとっては金銀財宝より価値のあるものだった。ラルフは、大きくて狡い年長の奴らに取られないように、必死で隠し場所を探す。そして初めは眺めるだけで味を空想して我慢するのだ。我慢しきれなくなったら少しだけ舐めて、その味を糧にまた数日は空想して我慢をする。そうして少しずつ少しずつ幸せを伸ばそうとする。でもそれが出来ない子どもの方が多いのだ。ルッツのように、すばしっこくなくて、腕っ節も弱い子どもたちは、お菓子をもらったらすぐに世話役の前で全部食べなければならない。世話役の目が届かない場所に来たら即座に、年長の奴らに取り上げられてしまうからだ。
「そうだ、ラルフにも温かいものがいるよね」
リンと話していたラセミスタがふと顔を上げてにこりとした。
「ごめん、気がつかなくて。お茶……じゃなくて、やっぱココアかな。冷えてきたもんね」
「……ココア」
そうだ。マリアラも昨日、ココアを奢ってくれた。嵐に翻弄された後で、あの甘い甘いココアが身体中に染み渡っていったことを思い返すと、本当に泣きたくなった。あんなに美味しいものを飲んだのは、まさしく生まれて初めてだったのだ。
ラセミスタはさっさと注文してくれた。ややして届いたココアは甘い芳香を放っていて、湯気も全部吸い込みたいと思った。そして、シグルドがラルフの前に置いてくれたチョコレートとクッキーを睨んだ。
自由というのはこういうことか。
誰に遠慮したりせず、施しだなんて引け目を感じることもなく、こういう場所で、食べたいものを食べたい、と言って、食べられることか。
シグルドは外に出て、少ししか経たないけど、でも、そう振る舞っていいのだということを、既に知ったのだ。
―― 一枚もらっていいか。
――どうぞどうぞ。ラルフも良かったら食べて。
――誰のお陰で大きくなってると思ってんのよ!
ちくしょう、とラルフは思った。ほんとに、少なくともあんたのお陰じゃない!
「これも食っていい? すげー腹が減ったみたい」
チョコレートを掴んで言うと、ラセミスタはにこにこした。
「もちろんいいよ。あ、そうだね、もう夕方だもんね。お昼食べたのかな、ちゃんとしたご飯の方がいいかな」
「ううん!」ラルフはチョコレートを掴んで思い切りよく包み紙をはがした。「これがいい。ありがとう。いただきます!」
「どうぞどうぞ。クッキーもあるよ。これねえ、あたしのおすすめなの、ほら、木の実がたくさん乗ってるやつ。ずっしりしてざっくりして美味しいんだよ。あとほら、ラスクもあるよ。あたしラスク大好きなの。これが普通ので、これは練乳苺でしょ、キャラメル味のもあるし、それから……」
ラセミスタは紙皿を一枚取ってきて、その上に、数々の甘いものをたくさん積み上げた。ラルフは思い切りよくチョコレートに噛みついて、口いっぱいに頬張って、生まれて初めての感触に陶酔した。そして思った。ルクルスだろうと、【魔女ビル】に生まれ育った者だろうと、魔女だろうと保護局員だろうとアナカルシスの駅員だろうと、生まれに引け目を感じる必要なんかない、のだ。
「いい食べっぷり! 子どもがお菓子食べてる姿って、なんか、見とれちゃうねえ」
リンも笑顔だ。マリアラも、と考えた。ココアを奢ってくれたとき、本当に自然だった。たぶん、奢ってあげた、なんて意識もなかったに違いない。たぶんこの人たちにとっては、子どもにココアを渡すなんて当然のことなのだ。
――フェルドに言わないでね……?
泣き出しそうな声を思い出した。彼女は、いったい、どこに行ってしまったのだろう。今、どこでどうしているのだろう。彼女が姿を消した理由が、昨日イェイラが話したことと関係しているのだとしたら。
フェルドが何か複雑な機械を抱えて戻ってくるのが見える。その姿を見つめて、ラルフは心を決めた。




