ラルフはよじ登る
それから少しして、ラセミスタはリンと自分の分のお茶とお菓子を注文した。届いたお菓子はかなり山盛りで、リンはますます嬉しくなった。その上甘いもの中毒だ、とリンは考えた。見知らぬ異国の菓子についての記事を読み、その味に思いを馳せる癖まで一緒だ。この子と仲良くなれない要素なんか、本当にどこにもないじゃないか。
お茶が配られて、シグルドにも新しい熱いお茶を勧めて辞退されて、という一連のやりとりがあったあと、シグルドが言った。
「あの……ラセミスタ。頼みがあるんだけど」
「え、はい。なんですか?」
クッキーに伸ばされかけていた手が止まった。シグルドは言いにくそうに頼んだ。
「リファスの駅に、連絡を取りたいんだ。休みは今日だけなんだけど、今日はちょっと帰れそうな気がしないんで、明日も休みをくれるように頼みたい」
「ああそっか、そうですよね。〈アスタ〉経由になってもいいですか?」
「もちろん」
「わかりました。ちょっと待って」
ラセミスタが壁際の〈アスタ〉のスクリーンに歩み寄る。その間にリンは訊ねた。
「駅って、リファス、なんですね」
そして驚いてもいた。随分遠い。アナカルディアの向こうじゃなかっただろうか。ミランダとはどうやって出会ったのだろう。
「確か、観光地……だよね」
敬語を使うのをやめても、シグルドは全く気にしないようだった。イクス=ストールンはだいぶ長い間嫌そうな顔をしていたものだが、この人はそういうことにはこだわらない性格らしい。
「そうだよ。まだ配属されたばっかなんで、俺は観光してないけど」
「ふうん。配属、されたばっかりなの?」
「そう。本当に新人なんだ。なのに突発的に休みを頼んで、どう言われるかな」
確かにそれは心配だ。でも、まさかすぐにクビになることはないだろう。
ラセミスタは〈アスタ〉といくつか言葉を交わして、シグルドを振り返った。
「……どうぞ。終わったらここ押してね」
「ありがとう」
シグルドがスクリーンの前に移動する。戻ってきたラセミスタは、先ほどまでとは違う、何か張りつめたような表情をしていて、リンは囁いた。
「……どしたの?」
「思いついたの」
ラセミスタはリンの目をまともに見て、囁いた。
「〈アスタ〉に連絡とってやっと思いついた。あたしやっぱり動顛してるんだな。あの……マリアラの居場所、もしかしたら……イーレンタールに聞いたら何かわかるかもしれない」
「え! そうなの?」
「うん。でもあたし、……さっきイーレンとちょっと……あって」ラセミスタは呼吸を整えた。「ひとりじゃ嫌だ……な。あの……もし……」
言いかけて、ラセミスタは、リンへの壁を自分が作っていたことを、思い出してしまったらしい。先ほどまでのかたくなさが戻ってきそうになって、リンは慌てて口を出した。
「あたし、リン。リンだよ」
「……う、ん」
「あたしはギュンター警備隊長とガストン指導官からあなたのそばにいるようにって言われてるの。イーレンタールという人のところにだって、もちろん一緒に行くよ。てか、置いてかれたら困るんだよ、ラセミスタ」
「………………ラス」
蚊の鳴くような声で、ラセミスタが言った。その向こうで、シグルドがスクリーンの向こうの人に、低い声で何か話している。その抑えた声にもかき消されてしまいそうな小さな声だ。
「え?」
聞き返すと、ラセミスタは頬を真っ赤にして、泣きそうな声で言った。
「ラスって、呼んで。言いにくい、から」
――おお……!
リンは静かに感動した。あんまり大きな反応をすると、この空気が壊れてしまいそうで。
そして微笑んだ。
「うん、ラス。あたしはリンだよ」
「……リン」
「うん」
ラセミスタはリンの微笑みに励まされたように、おずおずと微笑もうとした。が。
『ぎゃはははははは!』
唐突にシグルドの向こうから豪快な笑い声が響き渡って、ふたりはギョッとした。スクリーンの向こうにはシグルドの上司がいるはずなのだが――やけに若い、屈託のない、心底遠慮のない笑い声だった。
『おいおいおいおいシグ、初デートで朝帰りかよ! やるなあこの色男! シェロムさんちょっと聞いてくださいよー!』
シグルドの額に青筋が立った音がここからでも聞こえた気がした。
「帰ったら覚えてろよ……」
新人にしては言葉遣いが乱暴だったが、どのみち相手は聞いていない。そこへ新たな声がした。かなり年上らしい、父親のような声が割り込んだ。
『なんだあ? どうした、シグ』
「シェロムさん――」
『今日帰れないから明日も休みをくれって言うんですよこいつ! 初デートで朝帰り! すげーなやっぱ顔のいい男は――』
『おいおいほんとかよ! やるなあ! ぎゃははははは!』
大騒ぎだ。随分可愛がられているらしい。シグルドは低い低い声で言った。
「ニュースくらい見ろよこの能天気野郎ども……」
これも低すぎて聞こえなかったらしい。あちらでは新たな駅員たちの盛大な笑い声がどんどん増えて行く。シグルドは誤解を解くのを諦めたようだ。笑い声がこちらの廊下中にまで響き渡っているからだろう。それより早く切り上げる方を選んだ。
「……とにかく明日は」
『あ? あーいーよもちろんだよシグ、馬に蹴られたくはねえからさ!』
『けどお前相手が魔女って気をつけろよお、レイエルだよな? 無理強いしたら溺れ』
「それじゃ」
ぶつっ、と通信が切れた。静寂が降って来た。シグルドはしばらく動かず、ラセミスタとリンは顔を見合わせて、
ふたりで必死で笑いをこらえた。だめだ。笑ったら大変だ。この上笑ったら、あまりにシグルドが気の毒だ。
その時、ラルフの声がした。
「シグ……!」
午後四時四十分 ラルフ
盛大な笑い声とダミ声が聞こえてそちらへ足を速めると、そこにリンとラセミスタと、なんとシグルドがいた。「シグ……!」ラルフは思わず叫んだ。見間違いじゃない。本物だ。シグルドだー!
「……ラルフ!?」
シグルドが振り返った時には、ラルフはもうその首に飛びついていた。漁で鍛えた頑健な体は、ラルフ程度の衝撃ではびくともしない。でも驚いているようだ。それはそうだろう。ラルフも驚いた。どうして夜逃げ同然にアナカルシスに出て行ったシグルドが、こんなところにいるのだろう?
「ひっさしぶりじゃんシグ! わあいシグだシグだー! さっき話してたのがシェロムさんて人? そっかあ駅員になれたんだね! みんなに話すよ! みんなすげー心配してたんだぜ! どこの駅? 給料いくら? 俺さーシグみたいに駅員目指すことにしたんだよーあと十年経ったらその駅行くからシグ、それまでやめないでね!?」
言いながらよじよじよじとシグルドの身体によじ登って腕を回って背中に覆い被さる体勢になった。シグルドは腕を伸ばしてラルフの首根っこを掴むと、べりっと自分の背中からはがして自分の前にぶら下げた。ラルフは宙にぶら下げられたまま、嬉しくなって身をよじった。このぞんざいな扱われぶりも久しぶりだ。
「……ラルフ。お前がなんでここにいるんだ?」
シグルドはまじまじとラルフを見ている。床に下ろされて、頭をわしわしと撫でられて、ラルフは喉を鳴らして笑った。
「あんたの方は推理できてきたよ。あんたを人魚から救った魔女と、さらに仲良くなったんだろ。うん、俺さあ、あの時は、いくら助けてもらったからって、その魔女のために世話役の立場を放棄までするなんて……何て言うかな、ちょっとやだなって思ってたんだ、あんたに捨てられたような気持ちになっちまって。態度に出てたろ俺、ごめん。でも今は違うんだ。俺もね、マリアラとフェルドに助けてもらってさ、何て言うか、ああどうしようもなかったんだろうなって理解できた。ほらこれ見て。俺も腕章もらったんだぜ。すげえだろ」
「……」
シグルドはまだ考え続けている。ラルフはニッと笑って、シグルドの腕にまとわりついた。もうこの腕にまとわりつけることなど二度とないと思っていたから、本当に心底嬉しかった。
シグルドが人魚の宴に囚われて、それを助けた魔女のために、エスメラルダでこれ以上漁人をやることが出来なくなったのは少し前ことだ。あの時、ハイデンたち“爺ども”はきっとかなり落胆した。シグルドはハイデンたちと同じく、年を取ってもエスメラルダに留まって、ルクルスたちの世話役となることを承諾していた、数少ない若者のひとりだったからだ。世話役は激務である。働けない子どもや年寄りのために、漁人として稼がねばならないし、子どもを養育する必要もある。【風の骨】や雪山のルクルスたちと連絡を取って、エスメラルダの元老院たちに対抗する様々な仕事を担わねばならないから、危険なこともたくさんある。だからみんな世話役にはなりたがらない。ラルフは、(シグルドとは立場が違うから余計に)どんなことがあっても絶対にごめんだ。アナカルシスや他の国に出て行けば、もう少し裕福な暮らしが出来るのだ。何より自由になれる。それなら出て行って、故郷の家族に仕送りをするという立場になる方がよっぽどいい。
それでも世話役は絶対に必要だ、だから、世話役になるということは、かなりの貧乏くじを引くと言うことなのだ。シグルドはかなり子どもの頃から世話役になることを決めていたようだし、同年代の仲間たちがみんな出て行くから仕方がない、などと、文句を言うことも一度もなかった。シグルドが人魚の宴に囚われたと聞いたときの、世話役たちの消沈ぶりは見ていられないほどだった。ちゃんとした魔女に救われていたのなら、シグルドは元どおり、世話役としての人生を歩んでいたに違いない。昨日モーガン先生を守っていて殺されかけたかも知れないし、今頃は先生と一緒に別の島に移動して、そこで先生を守っていたかも知れなかった。
けれどシグルドはアナカルシスに出奔しなければならなかった。彼を救ったレイエルは、〈アスタ〉の、つまり元老院の指示に背いて、人魚の宴の邪魔をしたからだ。シグルドがそのまま留まっていたら、いつか、そのレイエルは困った立場に立たされかねなかった。シグルドはそのレイエルに、宴の邪魔などしなかった、助けに行かなかったと、みんなに伝えろと言ったのだ。そしてその証言どおり、エスメラルダのルクルスがひとり減る。そうすれば、人魚が元老院や校長に苦情を言ったとしても、校長はそのレイエルを咎めることは出来ない。証拠がないからだ。
あの時ラルフは複雑だった。シグルドが大好きだったからだ。自分が大きくなるまで、いや大きくなった以後も、世話役としてここに留まってくれると思っていた大好きな兄が、命の恩人のためとは言え自分たちを捨てていくのだと思うと。ハイデンもネイロンも、世話役たちはみんな、ラルフを始めとした子どもたちに言ったものだ。そのレイエルがいなかったなら、シグルドは死んでいた。どちらにせよ同じことだったのだと。
そして今、ラルフにはシグルドを責める気持ちはもう微塵もなかった。ラルフも、マリアラやフェルドが拙い立場に立たされそうになったなら、アナカルシスに出て行くくらいのことは絶対にする。そしてシグルドにはこうしてまた会えたのだ。全て丸く収まったということじゃないか。少なくとも、シグルドが人魚に食い殺されているよりはずっとずっといい。その上、別れたときの自分のつっけんどんな態度を、今こうして謝罪も出来たのだ。




