ジェイドは後退る
午後四時 ラセミスタ
ノックの音がして、びくりとした。窓の外はもうはっきりと赤かった。緯度の高いエスメラルダでは、秋の日没時間は毎日どんどん早まっていく。この季節になると毎日驚く。今日も驚いた。日没が近い時間まで呆然とし続けていたということ、それから、まだマリアラが戻らないということについて。
「……どぞ」
かすれた声で言うと、ゆっくり扉が開いた。イーレンタールが、へへー冗談でしたー信じたのかよばーか、と言いにきてくれたのではないかと期待する。
でも当然ながら違った。やってきたのはフェルドだった。フェルドは少し沈んだ顔をしていたが、ラセミスタを見て頬を緩めた。
「よ」
「……お疲れ」
ラセミスタは呻いた。どうしよう、と思った。ディアナに引き続いてイーレンタールまでもが“校長”の関係者であった――それはラセミスタには本当に本当に衝撃だったが、フェルドにとってはもっとだろう。
そして、昨日からマリアラが抱いていたであろう葛藤の重さを、初めて理解した。
彼女もひと晩かかった。ひと晩抱えて、悩んで、悶々として、そうしてようやく、“それでもフェルドに話さなければならない”と結論づけた。それなら、自分も、ひと晩経ったら、話せるようになるのだろうか――
でも今は無理だ。どうしても無理だ。
「大丈夫か」
フェルドが言いにくそうに訊ねて、もしかしてお見舞いに来たのだろうかと思う。
「大丈夫だよー。どっこも痛くないし甘いものも……食べたし」
まだ自分の前に甘いものが山盛り残っていることに途中で気づいて、言葉が尻つぼみになった。フェルドは椅子をもって来て座った。そして出し抜けに頭を下げた。
「ごめんな、ラス」
「……なんで」
「俺がもっと早く行けてりゃ」
「言うと思った。バっカだなーフェルド」
わざとからかう口調で言ってやると、フェルドは眉を寄せた。
「……お前もかよ」
もう既に誰かに“バカだ”と言われた後らしい。誰に言われたのだろう。マリアラにだろうか。
頑固さならわたし負けない、と彼女は言った。そうだ、あの子は本当に頑固だ。頑固で意固地で融通が利かない、そう言われると欠点のようだけれど、裏を返せばとても頼もしい性質だ。
「フェルドはあの検査室の中で昼寝でもしてたのかね? 外で何が起こってるかも知らずに普段どおりに本読んでスリの研究しておやつ食べてヴィヴィとおしゃべりでもしてたのかね! 違うでしょ! ヘイトス室長に鍵かけられちゃって、中からじゃどんなに頑張っても開かなかったんでしょ! そんなの最初からわかってるよ!」
「……」
「マリアラが危ないところに出て行く前に、ちゃんと命綱を渡しておいてくれたんでしょ。ありがとう、フェルド」
「……」
「気にすんなって」ラセミスタはぽんぽんとフェルドの肩をたたいた。「それにさあ、あたしの今の待遇見て? 寝台の中でごろごろしながらお菓子食べてられるんだよ? いーでしょーうらやましーでしょー。代わってほしーでしょー」
フェルドがようやく目だけで微笑んだので、ラセミスタはホッとした。
「ヴィヴィはイーレンが……そのう、必要な処置は執ってくれたって。でも体液のストックが……あ、もう聞いた?」
「ああ。ここ来る前に行って来た」
「そうなの? じゃあ医局の方も寄って来た?」
「寄ったっつうか」フェルドはちらりと時計を見た。「戻ってから今までずっと医局にいたんだ。二階だけど。警備隊長とかがそこに本部作ってて、そこで話を聞かれたりなんだりしてて……ラス、マリアラは?」
ラセミスタはなんだかぞっとした。そう言えばイーレンタールも言っていたような気がする。
「マリアラ……医局にいないの?」
フェルドはまじまじとラセミスタを見た。と、ふわりと部屋の明かりがついた。ラセミスタはまぶしさに目をパチパチさせた。フェルドが暗さに気づいて明かりを点けたらしい。どこにも触らずに明かりを点けるなんてところを見るたびに、フェルドの魔力は本当に桁違いなのだといつも思う。
「……保護局員のルッカって人が言うには」声に悲しげな色が宿った。「ララたちが追いかけてたイェイラが引き返して、マリアラに何かしようとしたらしいんだよ」
「引き返したって。ララは?」
「ひょうたん湖に【水の世界】が来てたってニュースになってただろ。イェイラはひょうたん湖から【水の世界】に行って、多分人魚に頼んで、【魔女ビル】一階のあの泉に移動させてもらったらしいんだ。今、水をあの人の傍に近づけないように措置が執られてる」
「そ……なの?」
「それであの人は、そこの窓に来てマリアラを誘ったらしい。複数の目撃証言もあった。お前、何か知らないのか?」
「……知らない」
首を振ると、フェルドはそっか、と言った。
「まあそっか、あんなことがあった直後だしな。お前に悟られないように黙って出たんだろう。マリアラはイェイラと一緒に屋上へ行って、そこで話をしたらしい。ジェイドって、知ってるだろ。こないだ【国境】爆破を一緒にやってくれたあいつ」
「うん、……うん」
「ジェイドが一緒にいたからか、イェイラは結局マリアラに何もしないで、ミフが呼んで来たイリエルと保護局員に捕まったんだって。ルッカって人は、マリアラに警備隊長から呼ばれると思うって伝えるために、イェイラが連行されてった後も最後まで屋上にいた。マリアラとジェイドと三人で建物ん中に戻って……マリアラは、呼ばれるまで部屋に戻るって言って、階段降りてったって」
「……」
「……戻ってないのか」
「……うん」
ラセミスタは背筋を伸ばした。いくら没頭していたって、マリアラが戻ってきたら、さすがに覚えているはずだ。
その時、ぴっ、と軽い電子音が鳴った。
ラセミスタは反射的に手を伸ばして、〈アスタ〉の入力端子にさしていたコードを抜いた。数秒後、スクリーンが明るくなって、気遣わしげなアスタの優しい顔が浮かび上がった。
『ちょっといいかしら。……ラス、もう大丈夫?』
「あ、うん」
『フェルド、もう着いたのね。マリアラは? ギュンター警備隊長が、手が空いていたらこちらに来てくれないかとおっしゃっているわ。遅くなって申し訳なかったって。ラス、マリアラがいない間、フェルドがあなたと一緒に――あら』
「……」
ふたりの沈黙に、アスタは少し首を傾げた。
『どうしたの?』
「アスタ、ジェイドはどこにいるかわかる?」
フェルドが逆に訊ねて、アスタは頷いた。
『ええ、先ほど戻ったばかりよ。今は部屋に――』
「マリアラがいないんだ。イェイラと話した後、部屋に戻ってないらしい。そう警備隊長に伝えてくれ」
フェルドが言いながら立ち上がって、ラセミスタも、寝台の上で立ち上がった。布団に足を取られそうになりながら、山盛りのお菓子を避けて床に降りた。靴を突っかけて、フェルドを見上げた。
「あたしも行く!」
「その格好でか」
あっさり言われて、うっ、と呻いた。フェルドは早口で言った。
「歩けんのか?」
「歩けるよ!」
「じゃあ二階に行ってろよ。ジェイドは俺が、」
「やだ! あたしも行く! 着替えるからちょっと待って!」
「お前――」
ラセミスタは勢いよくパジャマを脱ぎ、フェルドが慌てて後ろを向いた。
「――おい、こらっ!」
「何よ! あたしの裸なんかどーでもいいでしょ! それにタンクトップ着てるもんねーへへー残念でしたー」
「何言ってんだお前バカだろ!?」
フェルドがわめく内にその辺の服を適当にひっつかんで着替えを終えた。フェルドの背を押してさあさあとせき立てながら、
「走るの遅いからフィに乗せて」
「……俺ひとりの方が早いんだけど!」
「あたしをひとりにする気なの!? マリアラがいないのに!? ひとりで夕方に取り残されたら泣くからね!?」
「あーもーめんどくせーなこのもやしっ子は!」
フェルドは文句を言いながら、自分の後ろに乗せてくれた。その暖かな背に腕を回して、ラセミスタはホッとした。ひとりになりたくないのも本当だったが、フェルドをひとりにしたくないのも本当だった。
ジェイドの部屋はフェルドの部屋のすぐ近くだ。マリアラとラセミスタの部屋から二階上がって角をひとつ曲がるとすぐに着く。〈アスタ〉から連絡を受けたのか、ジェイドは廊下に出て待っていた。制服姿だったことに、ラセミスタはちょっと違和感を抱いた。
ラクエルの仕事は日没に左右される。だから今日の一時頃にマリアラとイェイラの対決の場に遭遇したのなら、今日は非番か休みだったのだろうと漠然と思っていたからだ。
ジェイドは相変わらず人の善さそうな顔立ちをしている。【国境】爆破に荷担してくれたことで、ラセミスタは同士のような感情を抱いていた。少々気弱げで物腰も控えめだが、いざというときにはとても頼りになる人だ。
ジェイドはやって来たフェルドの形相を見て一歩足を引いた。
「……顔が怖いんだけど、フェルド」
と、目が合った。ラセミスタを見てジェイドは眉を下げる。
「ラセミスタ、もう大丈夫? さっき聞いたけど、なんだか大変だったみたいだね」
あれ、とラセミスタは思った。なんだかこの言葉は変だ。
でもフェルドは全く気にしなかった。
「マリアラを知らないか?」
「は?」ジェイドは目を丸くした。「〈アスタ〉が言ってたけど、聞きたいことってマリアラのことなの? なんで俺に聞くの?」
「……なんで?」
「今日屋上でイェイラとマリアラが話をしたとき、そばにいたんだろ?」
ラセミスタとフェルドが口々に言って、
「……」
ジェイドはしばらく考えた。
「……なんか誤解がない? 俺今日は【壁】沿いの諸島巡って荷運びして、さっき帰ったばっかだけど」
沈黙が落ちた。
フェルドの顔を見て、ジェイドは後ずさった。
「……だから形相が怖い、って」
「さっきあの談話コーナーの近くにいたよな?」
「あの談話コーナーって……いやだから、それが誤解なんじゃないか、な? 〈アスタ〉に聞いて。なんなら諸島の研究所に問い合わせてもいいよ。俺サボってないもん、はは」
雰囲気を和らげるための軽口のつもりだったようだが、全く効果がなかった。ふたりの顔を見比べて、ジェイドは更に後ずさった。
「……いや、ホントなんだよ? 俺……まだ制服だろ。今帰ったばっかなんだ、き、着替える暇もなかったよ。腹減ったけど夕飯には早いし、だから茶でも飲もうかと思って注文してたら〈アスタ〉がさ……」
「すみませんがちょっと一緒に来てください」
フェルドが丁寧な口調で言い、言葉とは裏腹な乱暴さでジェイドの右手を掴んで、ジェイドは泣き声を上げた。
「なんで敬語!? 怒鳴られるより怖いんだけどちょっと! わー!」
フェルドは無言でフィが飛び出して、ジェイドは引きずられて更に泣いた。
「た、頼むよ! 自分の箒で飛ぶから! 逃げも隠れもしないからー!」
気の毒だ、とは思ったが、ラセミスタは何も言わなかった。ぎゅっとフェルドの背にしがみついて、身体の震えを止めようとした。嫌な予感がざわざわと胸に押し寄せてくる。
ジェイドは嘘をついていないと、その時には既に悟っていた。




