ラルフは石を投げる
午後三時五十分 リン
リン=アリエノールは昼過ぎからずっと駆け回っていた。ガストンのそばにくっついていると、本当にたくさんの保護局員の仕事を目の当たりにするが、同時に、自分がまだなんの役にも立たないたまご以前の存在だということも、否応なしに思い知らされる。何しろ、【魔女ビル】の中のどこに何があるかということさえ覚え切れていなかった。新人魔女や保護局員のための館内マップを手に入れてから、ようやく道に迷わずに済むようになったという体たらくだ。
ただ、警備隊長もガストンも、〈アスタ〉を出来る限り使いたくないと考えているから、リンの仕事は山ほどあった。校長の部屋を家宅捜索している人たちから報告を受けて二階へ走り、指示を受け取ってまた戻り、グールドの尋問をしている人たちの状況を聞きに警備隊本部へ走り、報告を受けて戻り、イェイラの……とめまぐるしく駆け回っている内に、ふと気づくとおやつ時をとっくに過ぎていた。ガストンたちの机にいい匂いの茶と菓子が運ばれている。
つい、廊下の窓際の長椅子にへたり込んだ。疲れた。甘いものが食べたい。
ガストンとギュンターは茶にも菓子にも手をつけず、顔をつきあわせて打ち合わせを続けている。たぶん存在に気づいてもいないのだろう。あそこへ行ってこっそり焼き菓子を一枚くすねても気づかないだろうか、と考えていると、ベネットの声が思いがけずすぐそばで聞こえた。
「ほらよ」
リンの横の長椅子に盆が置かれた。湯気を立てるマグカップがふたつと、焼き菓子の皿が載っている。焼き菓子は七枚、と無意識のうちに数を数えて割り当てを考えながら、リンはベネットを見上げた。
「ありがとうございます」
うわあいい人だなあベネットさん。
その内心が瞳からほとばしったような気がしたが、ベネットは見ていなかった。彼は盆を挟んで座り、茶をひと口飲んで、焼き菓子を一枚口に入れた。
「疲れたろ」
思いがけずねぎらいの言葉をもらって、リンは茶にむせそうになった。
「は……いやあの、全然、です」
ベネットはニヤリとして、焼き菓子をもうひとつ口に入れた。
「根性あるよな。指示受けたらとりあえず走るもんなお前」
「い……いえあの」
ベネットはもうひとつ食べた。リンは慌てて自分もひとつ食べた。ベネットは皿にのっている食べ物は全部自分のものだと無意識に思うタイプの男かも知れない。このタイプだったせいで、過去何人の男と破局を迎えたことだろう。
「……フェルディナント=ラクエル・マヌエルはさっきからずっとあっちで事情聞かれてた。見たか?」
声をひそめてベネットは言い、もうひとつ焼き菓子を食べた。四つ目だ。さらにその手が皿に戻ってきそうになったので、リンはとっさに皿を持ち上げて膝の上に乗せ、ベネットが眉を跳ね上げた。
「……なんで独り占めだよ!」
何言ってんですかあなたは、と言いたいのを堪えてリンは、ぱくぱくと残ったふたつを食べた。いくらこちらは後輩で見習いだとはいえ、七つある内の三つくらいはもらってもいいはずだ。もごもごと口を動かすリンを見て、ベネットはこちらに向き直った。
「……食いもんの恨みは怖えんだぞ」
「あふぁふぃはふぉえふぇふぃっふふぃふぁ!」
「……何言ってんだお前」
「…………っ、とにかく」リンはにっこり笑ってやった。「続きをどうぞ、先輩」
「いい度胸だよなほんと……いーよ俺はもうひと皿もらってくるから」
この人と恋人同士になることは絶対にないだろうとリンは思った。万一なったとしても、初めの食事で破局を迎えるに違いない。
ベネットはこれ見よがしにため息をついて見せた。
「まーとにかくさ。お前、相棒の方が気になるだろ。ちょっと見て来てもいーぜ」
「ほんとですか!? で、でもっ」
「あの子も事情聴取に呼ばれるはずだから、それを待てばいっかな、と思ってたんだけど、隊長たち忙しそうでなかなか呼べねえみてえだからさ。ラセミスタってリズエルもそろそろ落ち着いただろうし、お前ちょっと……ああ、そっちとは面識ねえのか」
「ないです」
「まあでも、人数が増えた方が気も紛れるかも知れねえしさ」
――ホントにいい人だなこの人は。
リンはなんだか感動した。これで食い意地さえ張っていなければ、もしかしたら付き合っても良かったかも知れないのに。
「ありがとうございます。じゃあちょっと……」
見てきます、と言おうとした時だ。後ろで窓ガラスが、こつん、と鳴った。
驚いて振り返る。窓から見下ろすと、【魔女ビル】の裏庭が見えた。こちらは北側で、日当たりが悪い。敷地のすぐ外側は、もうエスメラルダの街中だ。閑静な住宅街が続いている。住宅街と裏庭を隔てる植え込みの陰に、小さな顔が見えた。ラルフだ。
ラルフはじっとこちらを見上げている。その瞳に見つめられて、ラルフが何を言いたいのか、ものすごくよくわかった。リンはベネットを見た。
「……あっちが先かな?」とベネットが言った。「グールドの放送をもし聞いてりゃ、さぞやきもきしてんだろうな」
「いいですか?」
「行ってやれよ」
「……話して、いいですか?」
リンは念を押した。ラルフに話せば、【風の骨】に話すということになるわけだけれど、保護局員として、それはどうなのだろうか。
ベネットはあっさりしたものだった。
「あの坊主も、それを育ててるルクルスも敵じゃねえもん。エスメラルダの住民だし、マリアラって子を心配してんのは正当な理由でだし、そもそも機密ってわけじゃねえし。まあ校長の件だけは伏せとけよ、狩人に知られちゃまだまずいかもしんねえからさ。……お前さ」ベネットはラルフにひらひらと手を振った。「言葉が通じて、一緒に飯を食えるかどうかで判断すべきだって、なんのことかわかるか」
「……え、いえ」
「ガストンさんたちが……俺たちが目指してるのはまさにそれだ」
ベネットはそして、リンの背を軽く叩いた。やけに暖かな手で、リンは、食い意地のことはこの人の評価に入れるべきではないだろう、と考えた。
「ルクルスとだって言葉が通じるし、一緒に飯も食える。あの子がここに、マリアラはどうなったんだーって駆け込んで来られねえ現状の方がおかしいんだよ、アリエノール」
*
リンが走っていくと、ラルフは植え込みの陰から飛び出してリンの腕を掴んだ。
そして一言も言わないままするりと道に滑り出て、リンを引っ張って走っていった。くねくねとした路地をいくつか回って、【魔女ビル】のベネットから絶対に行き先を悟られないくらいの用心をしてから、ようやくウィナロフのいる場所へ、リンを連れて行った。やっぱり来ていたのかと、フード付きの上着にしっかりくるまったウィナロフを見てリンは思った。
そして首を傾げた。もう夕刻が近いとは言え、今日はいい天気で暖かいのに。寒がりなのだろうか。
「来てくれてありがとう、姉ちゃん。忙しいのに悪いね」
明るい光の中で見るラルフは、昨日より少し幼く見えた。そしてその瞳が今は灰色に見えることに気づいた。昨日は確か、藍色だったのに。綺麗な色だと思ったので、記憶違いではないと思うのだが。考えながら、リンは首を振った。
「んーん、いいのよ。ちょうど休憩中だったんだ。……あの、ウィナロフ」
「ん」
「……昨日の話だけどさ」
ウィナロフは目を細めた。警戒の視線。「……なんだよ」
「ガストン指導官に協力、」
「するわけないだろ!」
「だろうと思った! いいの! 保護局員として一度は言わなきゃと思っただけ!」
言葉を封じるように言ってやると、ウィナロフは口を開けたり閉めたり開けたり閉めたりして、最後に、苦々しげに言った。
「……あっそ」
「それで、あの、今日何があったの?」
ラルフがおずおずと訊ねた。リンはラルフを見下ろした。
「俺ウィンを送って南の海岸まで来たんだけどさ、あそこからでも聞こえるくらいの警報が鳴ってたよ。その後町の人とかにも聞いてみたんだけどなんか、グールドが……」
「【魔女ビル】に侵入したのよ」
リンはかいつまんで事情を話した。ラルフもウィナロフも、黙って聞いていた。グールドが【魔女ビル】に侵入してラセミスタを捕まえて、マリアラとミランダをおびき寄せようとしたこと。イェイラという魔女がその手引きをしていたこと。マリアラはグールドに捕まったが首尾良く逃げ出せたこと。フェルドはグールドを捕らえに行きイェイラは他の魔女たちに追いかけられたが、捕まる寸前にイェイラはどうやったのか分からないが【魔女ビル】に戻って、マリアラと屋上で『話をした』こと。マリアラが保護局員を呼んで、イェイラは今度は抵抗せずに捕まったことを。
話し終えて、リンは気づいた。
ラルフの灰色の瞳に、藍色が混じっているように見える。
ウィナロフも沈んだ顔をしていた。最後まで無言で聞き終えて、ふう、とため息をついて、もたれていた壁から身体を離してまっすぐに立った。ポケットに手を突っ込んで、リンを見た。
「……とにかく……イェイラとグールドはもう捕まったんだな」
「そうよ。……仲間なのに悪いけど、グールドはもう絶対に逃げられないわよ。武器は全部取り上げたし、すごく頑丈に拘束しているし、尋問が終わったら……そのう」
言いあぐねて、リンは身震いをした。グールドは恐ろしい相手だし、ラセミスタとマリアラにしたことを思い返すまでもなく、野放しにしては絶対に駄目な男だ。半年前にも雪山を焼いているしその時リンは人質にされ散々な目に遭った。リンはグールドに対してひとかけらの好意も持っていない。でもそれでも、死刑、という言葉を口にするのははばかられた。
「……そのう、エスメラルダは、捕らえた狩人をアナカルシスに引き渡す必要はないんですって。エスメラルダの法律で裁かれるし、魔女を大勢殺してきた狩人は例外なく……」
「それはわかってるよ。気にしないでいい」
ウィナロフの言い方は思いがけず優しくて、リンを気遣うものだった。リンは少しホッとした。
「イェイラって魔女はどうなるの?」
ラルフの問いに、リンは首を傾げた。
「どうなのかしらね。でも狩人を、よりによって【魔女ビル】の、それも左巻きのレイエルが一番たくさんいる場所に引き入れたの。七人も撃たれたのよ。幸い、誰も死んではいないそうだけど、左巻きの魔女たちが大勢かかり切りで毒抜きをしてる。たぶん明日の朝までかかるだろうって。毒抜きって本当に長丁場なのね。そんなことを自分の友だちに……仲間、なのに、ね。一体どうしてそんなことをしたのか、まだ調査中だそうだけど」
「良くても国外追放だろうな」
と、ウィナロフが言った。リンも頷いた。
「ガストン指導官も……そう言ってた」
そしてさらに、暗澹たる気持ちになった。左巻きのレイエルが、箒とコインを取り上げられて、相棒もなしに国外追放になったら、狩人の格好の餌食じゃないか。リンはため息混じりに呟いた。
「……どうして、そんなにまでして、マリアラを殺さなきゃならないんだろう。マリアラは人に恨みを買うような子じゃない。逆恨みにしても……ひどすぎるよ」
「アリエノール」
ウィナロフが、初めてリンを呼んだ。リンはその言い方に、思わずぴしっと背を伸ばした。
「な、なに?」
「マリアラは、イェイラと、屋上で話をしたんだよな」
「そ、そうよ」
「そこへ、イリエルと保護局員が駆けつけてイェイラを捕まえた」
「うん、そう」
「……あの子は、イェイラとどの程度話をしたんだろう」
リンはきょとんとした。「は?」
「というか……イェイラとの会話をどの程度保護局員に聞かれたんだろう」
リンはラルフと顔を見合わせた。ラルフも首を傾げてきて、リンは、ウィナロフに視線を戻した。
「わ、わかんない。あたし今休憩中で、ベネットさんが、ラルフが石を投げた時にね、マリアラの様子を見てきていいよって言ってくれていたの。だから今から会いに行こうかなと思ってたんだけど……それも聞いておこうか、な?」
「ラルフ」
ウィナロフはちらりと空を見た。たぶん太陽の高さを確かめたのだろう。
ラルフがウィナロフを見上げて、頷いた。
「わかった」
「……な、何が?」
ラルフはリンをまっすぐに見上げた。
「姉ちゃん、俺のこと、【魔女ビル】ん中つれて入ってくれる? 姉ちゃんと一緒ならたぶん、見とがめられないと思うんだよね。【学校ビル】入ったときもね、マリアラと一緒だったから、モーガン先生の部屋に入るまではだけど、すんなり入れたもん。……無事な顔、見たいだけなんだよ。何も悪さなんかしない。ただマリアラとフェルドが、今どんな感じなのか見たいんだ」
「頼む」
ウィナロフが言って、リンは不思議に思った。
狩人が、そりゃあウィナロフは特殊な立場にあるそうだけれど、でも、どうして。マリアラのことを、こんなに心配しているのだろう。
――昨日だって、ラルフにマリアラの安全を確かめさせに行かせるとき、とらの子の銃まで念のためにって貸してた……
「……いいわ」
「いいの? 大丈夫?」
ラルフが念を押して、リンは微笑んだ。
「だってあなたとは、言葉も通じるし、一緒にご飯も食べられるんだもんね。悪い子じゃないって知ってるし。いいよ、おいで、ラルフ」リンはにっこり笑った。「あなたが昨日協力してくれたから、狩人が入れなかったんだもの。それを知ってる人は、あなたが【魔女ビル】に入ったって文句なんか言うわけないし、知らない人に対しては、気兼ねなんかする必要はない。そうよね?」
「……ありがと」
ラルフが微笑った。それからラルフはウィナロフを振り返った。
「んじゃウィン、ちょっと行ってくる」
「ああ。この辺りにいるよ」
ウィナロフも頷いて、リンに目礼した。リンは頷きを返して、ラルフと一緒に走り出した。




