ディノは弁当を食べる
ステラはものも言わずに扉を出た。扉が閉まり、彼女は一度部屋を振り返ったが、踵を返した。“生け贄”という言葉が彼女の背を押した。今ならまだ逃げられる。全財産を持って外国に高飛びするくらいの時間はある。よろめくように走って行く彼女を見送る暇もなく、カルロスが言った。
「〈アスタ〉。ギュンターとガストンの動きを報告しろ」
『こちらに向かっています』
従順に〈アスタ〉は答える。〈彼女〉はガストンとギュンターの居場所をすぐに見つけた。ああ、と、思わず声が漏れそうになった。
ふたりは、三階の廊下を歩いているところだった。ギュンターが手に持っている書類の正体もすぐにわかった。逮捕令状だ。昨日からずっと〈彼女〉が注意深く見守ってきた彼らの計画は、成就する寸前だった。ステラさえ来なければと、〈彼女〉は思った。ステラさえ、あともう少し遅く来てくれていれば……!
「ふたりとも?」
『はい』
「人数は? 内訳も」
『十四人です。ギュンター警備隊長、ガストン指導官、保護局員のベネット、ルタ、リュー、エスタル……』
カルロスの決断は素早かった。いつもどおり。
「今どこに」
『二手に分かれて、三階のエレベーターに乗り込んだところです』
カルロスの外見が変わった。ジェイドの面影をみるみるうちに取り戻していく。その間にも机の引き出しから薄く硬い書類鞄を取りだして小指大に縮め、ポケットに入れ、昨日から大事に何度も耳を当てていた通信機器も、同じように縮めて入れる。そしてカルロスは言った。
「ナイジェル副校長は、今レイキアに出張中だったね」
『はい』
「ナイジェル副校長の顔写真とプロフィールと声のデータと居場所と現在の状況を僕の端末に送っておいてくれ。あとそれから、レイキアへの鉄道の時刻表も。……しばらく留守にする。後は頼むよ」
『はい』
「ギュンターたちは?」
『七階に着きました、エルヴェントラ』
カルロスは、扉を開いた。ジェイドの姿で。
廊下を、ギュンターたちの一行が足早に歩いてくるのが〈アスタ〉のカメラに写っていた。カルロスが扉を閉めると、保護局員のひとりが声を上げた。
「待て! そこで何をしている!?」
「イーレンタールを捜しに来たんです」カルロスは平然と答えた。「ヴィレスタの治療をしてもらおうと思って……どこにもいないんですよね。この部屋によく呼ばれてるって、聞いたから、念のため、と思ったんですが。ここにもいませんでした」
「ジェイド=ラクエル・マヌエル、だったね」
ギュンターが訊ねて、カルロスは頭を下げた。
「はい。こないだの【国境】のときはほんとに……」
「校長は?」
質問に、カルロスは首を振った。
「いませんでした。医局の方に行ってるんじゃないんですか?」
ギュンターとガストンが目を見交わした。一行の一番後ろで、リン=アリエノールが緊張しているのが見えた。ギュンターとガストンは低い声で一言ずつ言葉を交わした。「どうする?」「待つか」
カルロスがまだ立っていると、保護局員のひとりが言った。
「愕かせて悪かったな。……行っていいですよ」
カルロスの外見に対する言葉遣いを、途中でマヌエルに対するものに改めて、保護局員はカルロスを放免した。カルロスの演技は完璧だった。ギュンターとガストンという有名人ふたりともう少し関わっていたいけれど、邪魔をしては悪いだろうかというように、渋々遠ざかっていく。
校長の執務室の前で、ギュンターが呟いた。
「勘づかれたかな?」
「かもしれない。捕らえられたら最高だったんだが……まあ亡命されても二度と戻らなきゃ成功といえるんじゃないか。無駄だと思うが【国境】に、校長を通さないように連絡しよう」
「中で少し待ちましょうか」とベネットが言って、
「いや……家宅捜索を始めてもいいだろう」
ギュンターが答えて扉を開ける。彼らに今の若者こそが校長だったのだと教えるには、どうすればいいのだろう。そしてマリアラの居場所を教えるには、どうすればいいのだろう。疑問と共に浮かぶのは、自らに科せられた様々な枷だ。なにもできない。どんなに望んでも、彼女に、カルロスの架した枷を振り切って叫ぶ力などない。
――あたしは今回も、なにもできないのだろうか。
――それならば、あたしが“残っている”意味は、いったいどこにあるんだろう。
(母様、母様。きっと希望はあるわ。ほら、お昼ご飯が配られ始めてる)
〈アスタ〉が何とか〈彼女〉を慰めようとしてくれている。人間だったことがあるからか、〈彼女〉は【魔女ビル】の人たちが食事を取る風景を眺めるのが好きだ。美味しそうに食べている様子を見ていると懐かしさと楽しさを思いだし、ほっこりした気分になれる。
今はとうていそんな気分にはなれないけれど、〈アスタ〉の不器用な心遣いを無碍にすることもできず、〈彼女〉は警備隊の詰所に視線を向けた。
警備隊の詰所の控え室に、山積みの弁当が続々と運び込まれている。中身は大食堂の定食を詰めたものだが、いちいち注文して届くのを待つタイムロスをなくすため、警備隊詰所ではたいていこうして弁当を頼むことになっている。グールドを首尾良く捕らえ、拘置所に放り込んだ直後とあって、警備隊員たちの顔は明るい。みんな忙しく立ち働いており、僅かな隙間時間を見つけては控え室に寄って自分の弁当を確保していく。二種類の弁当を見比べて吟味する者もいれば、見もせずに適当に掴んでいく者もいる。
と、ディノがきた。
打ちのめされている〈彼女〉の目がディノに引きつけられたのは、彼が弁当を迷いなく四つ確保して行ったからだ。お茶のボトルは二本しか袋に入れなかったから、どうやら二人前らしい。もともと嵩のある弁当箱なので、ディノが抱えた四つの弁当箱はかなりかさばるし目立つのに、ディノは小さく縮めもせずに運んでいく。手首にぶら下げたお茶の袋ががさがさ言っている。なんとなく目で追った。やはり見ていて楽しいのは美味しそうにぱくぱく食べるところだし、ディノは体格の割によく食べる子だ。まさか四つとも自分で食べるわけではないだろうが。
かさばる四つを持ったままエレベーターに乗り、どうやら下へ行くらしい。一階を素通りして、やって来たのは地下だ。
(留置所に行くみたいね)
〈アスタ〉も興味があったのだろう、そう伝えてくる。【魔女ビル】の留置所は、捕らえられた犯罪者が取り調べを待つ間や中央警備隊に引き渡される前に入れられるためのもので、こぢんまりしてとても小さい。独房も三つしかない。今入っているのはグールドだけで、催眠ガスの効果でまだ人事不省だ。留置所の中にいる警備隊員も見張りの三人だけ、外にいるのは扉を守っているふたり。それから、もうひとり。
――フェルドがいる。
〈彼女〉はなんだか胸を衝かれた。
彼の内心はどんなに複雑だろう。白々とした廊下に置かれたベンチに座り、床を睨んでいる。グールドが起きるのを待っているのだろうか。でも、いくら当事者でマヌエルだとは言え、警備隊員ではない彼には、グールドを直接尋問することはできないのだ。恐らく何度も部屋に戻っていろと言われただろう、でも、ここから動くことができないでいるのだろう。
黙りこくって床を見つめるフェルドのところに、ディノがずかずかと歩いて行く。半ば予期していたとおり、四つの弁当はディノとフェルドの分だった。ディノは廊下の静けさなど意にも介さずに堂々とやって来ると、どすんとばかりにベンチに座った。「おらよ」ぞんさいな手つきで弁当のふたつをフェルドの膝に乗せる。
「…………ありがとうございます」
「あー腹減った」
ディノは全く屈託のない様子でばりばりと弁当を開け、口で箸を割りもりもりと食べた。ひとつめの弁当は牛丼だった。ディノは無言のまま、たったの六口で牛丼弁当を空にした。思わず、良く噛みなさいと言いたくなる。
フェルドはまだ三口しか食べていない。
ディノは構わずに次の弁当を開けた。今度は照り焼きチキンと煮卵とシシトウが、ご飯の上にのっている。
もぐもぐと噛みながら、くぐもった声でディノが言った。
「俺さー」
「……はい」
「先週辞令が来てさ」
フェルドが顔をあげた。「辞令?」
「来月からイェルディアの【魔女ビル】に配属されるんだぜ。すげーだろ」
フェルドだけでなく、〈彼女〉も驚いた。〈アスタ〉が囁いた。
(正式な辞令よ。十日前の元老院事務官定例会で正式に決まった)
どうして教えてくれなかったの――そう言いかけて、思いとどまった。〈アスタ〉は高性能で人間的な感情を備えてはいるが、あくまで魔法道具だ。〈彼女〉のために気を利かせて様々な情報を聞かせてくれるが、ありとあらゆる情報を自動で〈彼女〉と共有できるわけではない。〈彼女〉が興味を持つだろうと判断しなければ情報共有はなされない。
「こないだ、【国境】爆破実験やったじゃん。あれで――」
ディノは言いかけ、最後のチキンを口に入れた。もぐもぐ噛んで、立ち上がり、廊下に備え付けのゴミ箱に弁当箱をふたつ重ねて放り込み、ゴミ箱がゴリゴリバリバリと音を立てて生分解性プラスチックの弁当箱を粉砕圧縮するのを見守った。静まり返った廊下にゴミ箱の稼働音が響き渡り、それが途絶える寸前に今度は割りばしを突っ込んだ。ゴリゴリゴリゴリ――安全カバーの下で鉄の鋭い歯が割りばしを飲み込んでいく。割りばしが消え、その後も少しの間稼働音が続き、ややして静かになる。そこまで見届けてからディノは振り返った。
「――あのな。お前がそれを聞いてどう思うかなに考えるのかわかんねえけど、もし万一お前が“自分を手伝ったせい”で“俺が外国に飛ばされるんだ”と考えて気に病んだりするんなら、はっきり言うけどお前はバカだ」
「……」
「なぜならこれは俺にとって千載一遇のチャンスだからだ」
ディノはそう言い、ベンチに戻り、フェルドの膝の上から未だ手つかずの照り焼きチキン弁当を取り上げた。「あ」声を上げるフェルドに構わずディノはばりばりと弁当を開ける。既に割りばしがないので人差し指でチキンをつまみ上げてぱくりと食べた。「あー」フェルドがもう一度声を上げる。
「うるせーな食わねーなら俺が全部食うぞ」
言いつつ次のチキンに指先を伸ばしている。フェルドは無言で牛丼弁当を持ち上げ直し食べ始めた。さっきより大きな口で、それでもいつもほどの勢いはなかったけれど。
「辞令もらった後、ギュンターさんにさ、言われたんだ。お前本当にマヌエルのくせに警備隊やりたいのかって。そりゃやりたいって言うだろ、何遍でも言うけど孵化したのは俺の責任じゃねーからな! ……したらさ、そんならやってみせろって言われたんだ。どんだけやれるか見せてみろって」
「……」
「俺は相棒なしで外国に行く、公的には初めての右巻きになる。だからな、飛ばされるんじゃないんだよ抜擢されたんだよ。ジェイドは気の毒だったな、あいつも同じことやったのに、さすがにラクエルを外国に行かすわけにはいかないんだろう。俺はイリエルだ、ラッキーだ。あの【国境】爆破がきっかけだったのは確かだけどな、あれで俺は行動力と判断力とを買ってもらえたんだ。アナカルシスはエスメラルダみたいなぬるま湯とは違う、狩人もいるし犯罪者もわんさかいるし、なのに左巻きの絶対数が少ねえから……俺はな、すっげー楽しみにしてるんだよ。あっち行って俺なにやると思う? どんな活躍すると思う? イェルディアだぜ、大都会だぜ! 羨ましいだろ! お前のお陰じゃねーよ俺様の実力なんだよバーカ」
フェルドは牛丼弁当を食べ終え、弁当を取り戻した。ところが一瞬遅く、ディノの指先は美味しそうな照りのついた煮卵の半分をかすめ取っていた。「あー」フェルドが言う。
「よりによってそれ取りますか」
「そりゃ取るだろ遅ーのが悪ーんだよ。あっちで実績作ったらさー、犯罪捜査に右巻きを関わらせることのメリットがもっと知られるようになったらさー、エスメラルダの法律も変わるかも知んねーし、やりがいありすぎ。早く行きてーなあー」
言いながら玉子を食べ終え、指を舐め、ハンカチで拭いて綺麗にし、お茶のボトルを開ける。中身をぐびぐびと飲んで、言った。
「だからお前よく考えた方がいいぜ。責任感じんのも責任取んのも簡単だけどさ、自分の考えだけであんま安易に責任取ろうとすると、却って良くない結果を招くかも知んないぞ」
「……は?」
「相棒解消したらそれで済む段階はもうとっくに過ぎてんじゃねーのかって話だよ」
フェルドが座り直した。
「どういう……」
「よく考えろって言っただろ。お前にできることは何なんだ。行動起こす前によく考えろ」
言い捨ててディノは立ち上がった。空になったお茶のボトルをゴミ箱に突っ込み、ゴリゴリという粉砕音を後にして歩いて行った。フェルドはディノの背中を見送っていたが、粉砕音が止んだのを機に弁当に視線を戻した。
半分ほど残っていた弁当をゆっくり食べ終え、お茶のボトルを飲み干して。
彼は立ち上がった。さっきディノがしたように、空の弁当箱とお茶のボトルをゴミ箱に入れる。ごりごりごりごり。ばりばりばりばり。稼働音が止むまで見守ってから、意を決したように踵を返した。グールドを問いただすのをやめ、警備隊詰所に戻ることにしたらしい。エレベーターの方へ向かうのを見て、〈彼女〉は、フェルドはなにを“よく考え”たのだろう――と、思っていた。




