ステラは扉を開ける
午前十一時四十五分 ステラ
エレベーターが使えないばかりでなく、ところどころシャッターが降りているため、移動は通常よりも大変だった。【魔女ビル】はひとつの街が入っていると言われるほど広大な建物だ。加えてスーザン=レイエル・マヌエルの自室は、医局のロビーがある南側とは真反対に当たる北側にあった。黙々と歩くステラには、グールドとイェイラの巻き起こしている惨禍の状況など全く分からなかった。
一睡もしていない。肉体の疲労は既に限界に近い。ディアナ=ラクエル・マヌエル――治療を依頼した、校長の息のかかった治療院の主――にも、休んでいくようにとだいぶ勧められた。しかし、とうてい休む気になどなれなかった。疲労にもかかわらず頭は冴え渡り、目を閉じてもちっとも眠れそうな気がしない。
それでも、ようやく。
ようやくのことで、ステラは、目指す部屋の扉の前に辿り着いた。
“スーザン=レイエル・マヌエル”。表札に、そう書いてある。
スーザンは【魔女ビル】にはいないと、〈アスタ〉が言っていた。つまりこの部屋は無人のはずだ。警備隊詰所が無人だったので、ちょっと【魔女ビル】居住階のマスターキーを拝借してきた。これで中に入れる。
中に入ってどうするのか、という、明確なプランがあったわけではない。
しかしスーザン=レイエル・マヌエルを“殺した”とザールははっきり言った。イェイラにそそのかされて、その手にかけた。――本当に? と疑念がわくのは、エスメラルダで生まれ育ったステラだからだろう。魔女は空間の歪みと雪害に絶えず苛まれ続けるこの国の命綱と呼べる存在だ。そう簡単に殺してしまうなんて、本当にそんなことがあり得るだろうか。
それがあり得るのだとすれば。
理由はひとつしかない。イェイラは、狩人を【魔女ビル】に呼び込むために、相棒のコインが必要だったのだ。
ただ借りるか、それが無理なら盗むだけで良かったのに、スーザンを手にかけたのはなぜか。そんな疑問が浮かんだが、ステラにはどうでも良いことだった。イェイラを彩る罪がよりいっそう深くなったことは喜ばしい。ステラは薄く微笑んだ。ザールに切られた頬、とっくに癒えたその傷が、ずきりと痛む。
イェイラの罪。【魔女ビル】に狩人を呼び込んだという前代未聞の悪事。それに加えてもうひとつ、“相棒殺し”という史上最悪の悪事をもまで重ねた稀代の悪女。ザールの心を操って最悪の犯罪に手を染めさせたのは、そんな女なのだと言うことを、白日の下にさらすことができる。暴いてやるのだ。引きずり回して。嘲笑と嫌悪の的に。女王のようなあの美貌を、衆人環視のもとに引きずり出すその時が、今から楽しみでたまらない。
ザールはもう“死んだ”。
だったらその仇を、取るべきだ。
微笑みを無傷の頬に刻んだまま、ステラは鍵穴に鍵を差し込んだ。そして心臓が止まるほど驚いた。中で――スーザンがいるはずがないのに、人の気配がわき起こったのだ。イェイラだろうか? そのまま鍵を回して扉を開ける。目の前の床に髪の長い少女が倒れていて、右手で、自分の二の腕を掴んでいる。その上にナイフを振りかざして襲いかかろうとしている、真っ赤な髪の男。
「――【炎の闇】!」
ステラが叫んだその瞬間。
きゅん、という音がして、少女の姿がかき消えた。
午前十一時四十六分 ラセミスタ
フェルドが駆け込んだのは先程まで自分がいた検査室だった。
床にヴィレスタが倒れており、なぜかディノ=イリエル・マヌエルがハウスの角材を手にロッカーをこじ開けようと奮闘していた。小指大に縮んだミフがぴゅんぴゅん飛び回っていた。『どうしようどうしようどうしよう』錯乱しきったミフの声は甲高かった。『どうしようどうしようどうしよう!』
「……ですからそこは開けられないのです。現在【魔女ビル】全体が警戒態勢に入っています。この警戒態勢が解除されるまで」
話しているのはリスナ=ヘイトス事務官補佐室長だ。彼女は壁際に凭れて立っていた。いつも一分の隙もなくひっつめられている髪がほつれて、いつもほど意地悪そうには見えなかった。フェルドは彼女には一瞥もくれずにディノの加勢に入った。ラセミスタは、一体この事態は何なのだろうと思いながら、その部屋によろめき入った。ヘイトス室長が驚いたようにラセミスタを見た。
「ラセミスタ=リズエル・シフト・マヌエル。大丈夫ですか。おケガはもう」
「ラセミスタ!?」ディノが振り返った。彼の目はつり上がっている。「大丈夫か!? ケガはもう治してもらった!? ちょっと手伝って!?」
「……そこ開けたいの?」
「一刻も早く!」
「じゃあ工房から端末持って来てくれませんか。あたしのはさっきの水で流されちゃった。入って右の棚の一番上に予備の端末があります。フェルド、ロッカー壊さないで。歪むと物理的に開かなくなる」
ディノが駆けだして行く。ミフが声を上げた。
『たぶんスーザン=レイエル・マヌエルの部屋だと思う。写真が飾ってある。あいつは、今はなんか喋ってる。意味わかんないこと言ってる』
「――これか!?」
あっという間にディノが戻って来た。手に、正に持って来て欲しかった予備端末を持っている。ラセミスタは端末を受け取り、収納コードを延ばすと、ロッカーの裏側に差し込んだ。単純な命令をいくつか打ち込む。【魔女ビル】の中には全体に魔力供給網が張り巡らされている。ロッカーを開けるだけならば、警戒態勢が解除されたのだとロッカーに錯覚させるだけでいい。
指示はすぐに終わった。ロッカーがフリーモードに復帰した。続いて扉を解錠させる指示を打ち込むと、ロッカーの全ての扉が立て続けに開いた。フェルドが目指す扉を開き、中にあった何かをつかみ出した。『早く!』ミフが叫んでいる。『もうあいつも一緒に移動させるっきゃないかも! なんかきっかけ、きっかけがあればっ』
フェルドが検査室の革張りのシートの上にキラキラ光る何かを置いた。――コインだ。
今さら腑に落ちていた。談話コーナーに来る前に、いざとなったらコインで逃げると打ち合わせていたのだろう。ポケットに入れていてはグールドに悟られる恐れがあるから、多分腕時計か何かで――
しかしマリアラは今グールドに囚われていて、その腕から離れない限り、ここにグールドも一緒に移動してきてしまう。
「ラセミスタ。出てた方がいい。ヘイトス室長、あなたも」
ディノが言った。でもラセミスタは動くことが出来なかった。真っ白な革張りのシート、その上に置かれたコイン。あれはマリアラの命綱だ。そこから目を離せない。どうしても。
と、冷たい細い指先が、ラセミスタの肩にそっと触れた。
「ラセミスタ。行きますよ。――右巻きの負担をこれ以上増やすことは避けるべきです」
リスナ=ヘイトス事務官補佐室長がこんなに穏やかな口調で話すところを、ラセミスタは初めて聞いた。
その時だった。
――きゅん、
かすかな音が響いた。
そしてそこに。
マリアラが出現した。
グールドの腕が一瞬離れた隙に移動したらしく、マリアラはひとりだった。フェルドが息を呑んだのが聞こえた。すぐにその理由は分かった。マリアラの頬から血が流れていた。まるで血の涙を流しているかのよう。
でもマリアラは生きていた。灰色の瞳が動いて、ラセミスタを、それからフェルドを見た。「――フェルド」震える声がそう言った。フェルドが左手を伸ばしかけ、その動きを引き戻すように、拳を握りしめたのが見える。マリアラは哀しそうな顔をしていた。頬から流れ落ちた血が、ぽたぽたと、白いシートに赤いしみを付けた。
どうしたんだろうと、ラセミスタは思った。
この空気は何だろう。フェルドはマリアラに脱出の方策を示し、マリアラはそれを使って計画どおりにグールドから逃げられたところだというのに、この空気は一体何だろう。ラセミスタも立ち尽くしていた。ヘイトス室長の細く冷たい指先が、まだラセミスタの肩の上に乗っていた。優しいと言えそうな、感触だった。
しかしそのやけに静謐でもの悲しい空気は、ほんの一瞬で破られた。
「――マリアラ!」
ディノから知らされたのだろう、ミランダが駆け込んできた。シグルドも後に続き、その後から保護局員たちがどやどやと駆け込んできた。ラセミスタは感心した。ミランダは今の空気をものともせず、即座にマリアラの上に刻まれた恐怖の痕跡に立ち向かった。ミランダの箒、メイが、ひらひらとマリアラの周りで飛び回る。写真を撮っているのだ。
「ごめんね、マリアラ、嫌だろうけど記録を残さなきゃいけないから。大丈夫よ、医療従事者の資格取ったから、私が全部記録もできるから――すみません、この場で記録と治療をするので、男性は皆さん出ていただけますか。ミフ、捜査協力できるわよね?」
ミランダはいかにもケガ人を見つけた左巻きらしく、てきぱきとその場の全員に指示を出した。保護局員たちもシグルドも、ディノもフェルドも出て行った。ラセミスタもなんとなく後を追った。マリアラの傍にいたいのは山々だったが、さっきのもの悲しい空気がどうしても気になっていた。ミフも一緒だった。扉が閉まるやいなや、すぐにミフは彼らにグールドの居場所を伝えた。まだ事件は解決したわけではないし、最悪の狩人を【魔女ビル】から取り逃したなんてことになったらエスメラルダの恥だ。警備隊員たちはミフの情報を得るやいなや走り出した。ディノも、それからフェルドも彼らの後に続く。
――そっちに行くの?
走って行くフェルドの後ろ姿を見ながら、ラセミスタはそう思った。引き留めようとして、何と言えばよいのかわからないことに気づく。
このままでは何か決定的な出来事が起こってしまう。そんな予感がするのに、それをどう食い止めれば良いのかがわからない。もうマリアラは安全なのだ。それならば、彼女を襲ったグールドを捕らえ、事態の解明に向かった方が、どれほど建設的か分からない。それに、イェイラの方がどうなったのかも不明だ。やることは山ほどあるのだ、だからフェルドを引き留めるわけにはいかない。
でも。
――でも。
あたしはこれから、どうすればいい?
フェルドを追いかけて一緒に行ったって、どうしたらいいのかわからない。声もかけられないし、足手まといにしかなれない。マリアラの治療もできない。なのに今回のこの事態は、マリアラが危険に晒されたこの事態は、紛れもなく自分のせいだ。そしてあの奇妙な空気も――
ラセミスタは無力だった。つくづくと、自分が情けなかった。