グールドは忠告する
「――マリアラ……!」
悲鳴が上がる。ミランダの声だろうか、それとも自分の声だろうか、ラセミスタには判断がつかなかった。マリアラを巻き込む形で矢を放った猛獣のようなその男は、次の矢をつがえたところだった。フェルドは廊下でグールドを睨んでいた。グールドはフェルドへの盾にするようにマリアラをしっかり抱え込んだ。とても嬉しそうな笑顔。
さっきラセミスタに突き立てられたそのナイフが、今はマリアラの喉を狙っている。
「来たかあ。お前ホント、色んなしがらみに縛られたりして気の毒だねえ」
「ベルトラン、やめろ! 何考えてる!」
猛獣の方で怒声が上がる。猛獣の名はベルトランというらしい。制止は今度は間に合った、片手弓を撃つ寸前で警備隊員たちが四方八方から飛びついた。発射を阻まれてベルトランは苛立たしげに怒鳴る。
「邪魔っすんじゃ、ねえ!」
「何考えてる、人質まで撃つ気か!」
「当たり前だろうが! そこいら中に左巻きがいんだろうが、人質だけ後で治しゃ済むことだ! 放しやがれ!」
「わーお。エスメラルダにもああ言うのいるんだ、平和ボケしてるのだけじゃないんだねえ。すぐ治せるってそう言うとこエグいなぁ」
グールドは楽しそうだ。その腕の中でマリアラはまるで人形みたいに華奢で、壊れてしまいそうに見える。さっき矢を叩き落としたミフは、その姿勢のまま茫然としているようだった。ややして、悲鳴じみた声が響く。
『さ――最低! あんた最低、最低よ! どうしてそんなことができるの!? その中身で人間のカッコしてんじゃないわよ! マリアラを放してよ――!』
「あーうるさいうるさい、人工物と話す趣味はないんだよ。それ以上ひと言でも何か言ったらこの子の耳がなくなるよ?」
ミフが黙った。断ち切られたような沈黙が落ちた。ベルトランはまだ喚いているのに、やけに、ひどく、静かに思える。そのいびつな静寂の中、グールドの声が響いた。
「……どうして僕がこんなことをすると思う。それって、」
にいっと唇を歪めるその音が、聞こえるようだった。
「何のためなんだと、思う?」
――何のため?
その時だ。
だしぬけに轟音が響き渡った。
先程フィがぶちやぶって乱入した窓から、大量の水が津波のように押し寄せたのだ。
あまりに非現実的な光景だった。水はまるで津波のように押し寄せた。談話スペースにあったありとあらゆるものを飲み込みながら殺到し、フェルドの目前で、相手が誰かに気づいたかのようにぴたりと動きを止めた。天井まで到達するほどのそびえ立つ水の壁が、フェルドを恐れて立ちすくんだように見えた。
そして――
水の壁はあっけなく崩壊した。逆巻き、渦巻きながら、今の光景を巻き戻すかのように、窓から飛び出していく。あっと言う間に水が引き、後には変わり果てた談話スペースだけが残された。
耳が痛いほどの静寂。
一番初めに動いたのは、フェルドだった。
フェルドが足を踏み出した。びしゃ、と足下で水が音を立てた。談話スペースにあった、固定されていなかった全てのもの――ラセミスタの落としてきた愛用の端末、イーレンタールの毛布、観葉植物の鉢がいくつか――が水にさらわれていた。
グールドと、マリアラも。
――何のためなんだと、思う?
つい先程聞いたばかりのグールドの、からかうような声が聞こえる。何のため。何のため? ラセミスタは身体を起こし、自分の傷が既にきれいさっぱり消えているのに気づいた。近くにいるのはミランダ、それからダニエル。周囲を取り囲む保護局員の人垣。それをかき分けるようにやって来るのは、ディアナだ。
残された談話スペースは惨憺たる有様だった。窓ガラスが全て割れているし、固定されていたソファのいくつかは水圧で歪んでいるし、どこもかしこもびしょ濡れだ。
ラセミスタが状況を把握する数瞬の間にフェルドは窓に辿り着いていた。その後をララが追いかけていく。
――何のためなんだと思う。
その答えを、ラセミスタは唐突に悟った。
グールドは――つまりグールドの雇い主、イェイラは。初めからこれが目的だったのだ。
「……マリアラ……!」
「フェルド、ダメよ!」
人垣のこちら側にディアナがまろび出てきた。「ちょっと!」保護局員が制止しようとしたがディアナはその手を振り払った。「待って!」ディアナは取り乱している。とても珍しいことだ。
ディアナはヒルデの【親】であり、ダニエルをとても可愛がっている。イーレンタールとフェルドはケガをするとディアナの治療院に行くのが常だった。ラセミスタ自身はディアナとそれほど親しくしていたわけではないけれど、優しくて穏やかで、面倒見が良い人だという知識はある。マリアラはコオミ屋で一度詐欺に遭いかけ、ディアナに救ってもらったことがあると聞いた。
ラセミスタは立ち上がった。フェルドは今窓から身を乗り出すようにして下を確認している。ディアナは後ろからフェルドに縋り付いた。
「だめ、だめ! 追いかけてはだめ……!」
十一時四十五分 マリアラ
何が起こったのかわからなかった。突然大波に飲み込まれたと思ったら身体が上下左右にめちゃくちゃに振り回されて、気がついたら固い地面に座り込んでいた。
そこは既に外だった。【魔女ビル】前に広がる広場だ。さっきまでここは、【魔女ビル】から逃げ出してきた人や野次馬たちでごった返していた。保護局員が基地を作り始めており、〈アスタ〉の端末も設置されていた。
それが今や、びしょ濡れの平地になっている。今なだれ落ちた大量の水が、ここにあった物やいた人たちを全て押し流してしまったらしい。
「ね、約束どおり捕まえてきたでしょ」
耳元で、明るい声が言う。
マリアラはゾッとした。未だにグールドにしっかり抱え込まれており、
「そうね。ご苦労様」
右後方で、涼やかな声が囁いた。声の持ち主はゆっくり歩きだした。こつ、こつ、踵が鳴った。こつん。足音が止まり、マリアラは、首をねじってそちらを見た。
今日もその人は綺麗だった。本当に、水の女神のようだった。長い、まるで夜の水面のように輝く髪。さざ波が立たないのが不思議なほどに透き通った肌。長い睫に縁取られた大きな瞳と、蕾のような唇。
「僕は約束を果たしたよ。ね、今度はあんたの番だ」
「――そんな暇はないわ」
イェイラはこちらを見ていなかった。鋭い眼差しで、頭上を見上げていた。マリアラもその視線を辿って上を見た。三階の窓からフェルドとララと、保護局員たちの顔が覗いている。
「早くして。時間がないわ。意識を奪わせてきてって言ったでしょ」
「んー? その前にやることあるでしょー」
イェイラはグールドを睨んだ。「時間がないのよ、いい加減にして。その子に暴れられたら厄介――」
「ああ……そうだろうと思ったよ」
グールドが呟いた。
マリアラは驚いた。そのやけに淋しそうな、切なそうな声は、思いがけない場所で聞こえた。今マリアラを抱え込んでいたはずなのに、呟いたときには既にグールドはイェイラのすぐそばにいたのだ。「!」イェイラが息を呑んだ瞬間、グールドはイェイラの首元から金色の鎖を引きずり出した。まるで魔法のような鮮やかな手並み。鎖についたコインがキラキラと輝いた。
「――ちょっと!」
「僕は勤勉なたちだけど」ぷつん、と鎖がちぎれた。「――無報酬で働くほどお人好しじゃないんだ」
「イェイラ……!」
叫び声がした。ララの声だった。
マリアラが動こうとしたその瞬間、グールドの細くて長い腕は再びマリアラを絡め取っていた。「何を!」イェイラが声を上げた時には、グールドは軽々とマリアラを抱え上げた。「仕事は終わりだ」グールドは穏やかな声で言った。「助けてくれたことには感謝してるよ。だから忠告だ。逃げた方がいいんじゃない?」
そしてグールドはマリアラの右手に、今イェイラから奪ったばかりのコインを押しつけた。同時に右手の甲に鋭い痛みが走る。「っ!」思わず悲鳴を上げた瞬間、視界が真っ暗になり、次いで若草色に染まって――
「マリアラ!」
ララの声が叫んだ瞬間。
きゅん、という音が聞こえた。




