〈アスタ〉は放送する
午前十一時三十分 ヴィレスタ
ラセミスタがつれて行かれてしまった。ヴィレスタは扉が閉まるのを待ち、すぐにシートをはねのけようとした。けれどナイフが突き立ったままなのと、体が思うように動かないのとで、うまくいかなかった。何度か試みて、ついにやり遂げた。シートごとナイフを引き抜くと、腹からどろりと何かがあふれた。
首元と胸元につなげられたコードを引き抜くと、とたんに動力の供給が止まってよろめいた。動けない――でも、動かないわけにはいかなかった。論理的でなくて良いのだとラセミスタは言ってくれた。
ヴィレスタは頭の中を整理した。記憶のバックアップをちゃんと最後まで取ってもらえたかどうかわからないが、しかたがない。ここから検査室までの道順を頭脳の中に呼び出した。ほんのわずかな距離だ。それから成すべきことをセットした。必要なのは腕と足の力。記憶も感情も、人間らしくふるまうことも、学習能力も、ヴィレスタらしさをつかさどるすべての機能も、今は必要なかった。
――本物だって、ことなんだよ。
ラセミスタの声が頭に響く。ヴィレスタは頷いた。
――本物だ。周りの人たちの手を借りながら、この感情を育てたのは、イーレンタールでもラセミスタでもない、他ならぬ私自身だ。
だから大丈夫。たとえ記憶をなくしても、ヴィレスタがいなくなるわけじゃない。
フェルドは気の毒だと、感情回路を遮断する寸前に思った。何がなんだか分からないけれど、どうしてそうまでして閉じ込めなければならないのだろう。
オナジカマノメシを食べてシンボクを深めた者として、ラセミスタに作ってもらった身として、マリアラに名前をもらった存在として、ミランダの相棒として――このまま手をこまねいているわけにはいかなかった。どうしても。
午前十一時三十分 マリアラ
【魔女ビル】の外には人が大勢集まり始めていた。
ミランダもマリアラも私服だったので、三人はすぐに箒を降りて【魔女ビル】の周囲を取り囲む保護局員ややじ馬たちの群れに紛れた。見上げると大勢の魔女たちが次々に箒に乗って飛び出してくる。多くの魔女たちはそのまま宙に浮かんで、自らの城である【魔女ビル】を見守っている。仰向いてララとダニエルの姿を捜していると、どこからか〈アスタ〉の声が聞こえて来た。
『――ターを下ろしました。狩人は三階の廊下を歩いています。左巻きの魔女で、毒抜きを行う有志を募ってください。東側の窓から処置室に入れば安全です。撃たれた魔女は七名に上ります』
聞いていた誰か、保護局員が答えた。
「左巻きの――危険じゃないのか」
『狩人は西側の廊下を歩いています。シャッターが降りているから医局へ戻ることはありません、そう説明してください。東の窓から入れば絶対に安全です』
「私が行きます。レイエルです」
制止する間もなくミランダが声を上げ、声のする方へ人垣をかき分けて行った。シグルドは険しい顔をしていたが、反対はしなかった。マリアラも後に続いた。
「わたしも行きます。左巻きのラクエルです」
『ミランダ――マリアラ。ありがとう。助かるわ』
〈アスタ〉の声が流れてくるのは、保護局員が設置したひとつの小さな折り畳みの機械だった。ラセミスタの愛用のものとよく似ている。正面に回り込むと鮮明なアスタの顔が見えた。普段どおりの落ち着いた面持ちだが、少し青ざめて見えるのは気のせいだろうか。
『箒で東側の窓から入って頂戴。狩人は今西側の廊下にいるから安全よ。有志を募っているから人数はすぐに増えるはず。保護局員も集結しつつありますから危険は絶対にな――』
〈アスタ〉の言葉が唐突に途切れた。
午前十一時三十二分 ラセミスタ
何をする気だ、この男。
縮み上がっていたラセミスタは顔を上げた。グールドは〈アスタ〉のスクリーンを見ている。ラセミスタは震える手を動かしてポケットに入れた。
グールドは馬鹿じゃない、とシグルドが言っていた。
全くだ。〈アスタ〉がいれば、マリアラとミランダの居場所など、ラセミスタから時間をかけて聞き出す必要もない。それどころか、グールドがそこへわざわざ赴く必要もないのだ。
左手の先に、イーレンタールの毛布が見える。
その端っこを引き寄せた。先ほど縮めてしまっておいたノート型の端末を取り出して毛布の下に入れ、元の大きさに戻した。ぽん、とくぐもった音が響いたが、〈アスタ〉がちょうど返事をしたので、グールドは気にしなかったようだった。
スクリーンに青ざめたアスタの優しい顔が映った。
『……聞こえるわ。あなたは誰?』
グールドは楽しそうに笑った。
「あれえ、時間稼ぎ? さっき警報で僕の名前言ってなかったっけか? 僕はね、グールド=ヘンリヴェント。役職名は【炎の闇】。二十八歳。若いけど役付きなんだ、すごいでしょう。ね、僕の姿が見える? 僕が捕まえてるこの子が見える?」
アスタはラセミスタが毛布の下で何かしているのを見たはずだが、グールドに頷いて見せた。
『……見えるわ』
「名前は?」
『――ラセミスタ』
「やっぱりね。さあ〈アスタ〉、僕とこの子の姿を、あんたの支配してる【魔女ビル】全部のスクリーンに映し出すことってできるんでしょ。やってよ、ほら。――お、映った映った。すげーな、ハイテクだよなあやっぱ」
ラセミスタは愛用の端末が〈アスタ〉のカメラに写らないのを確認して、その画面を見ないまま、いくつかの命令を打ち込んだ。正しく入力できているかどうかは祈るしかない。
グールドは楽しそうに、歌うように言った。
「ああ……なんかさっき、警報で、箒に乗って外に逃げろとか言ってたっけ? じゃあこれ、見てないかもしれないから、僕の声を放送で流して。……いい? あー、あー、あー、」
『あー』
急に頭上からグールドの声が聞こえて、グールドは嬉しそうに笑った。
「すっげー! よしよし〈アスタ〉、お利口さんだね。じゃあいくよ。マリアラ=ラクエル・マヌエルと、ミランダ=レイエル・マヌエル? 見えてる~? 聞こえてるかなあ~?」
グールドはぱたぱた手を振る。すぐ隣からも頭上からも聞こえるその残忍な声を聞きながら、ラセミスタは手探りで端末に収納されているコードを引っ張りだした。
「僕とラセミスタは今医局を出たちょっと先の……待合室? かな? 待合室にいるんだ。早くおいで。さっきこの子にも言ったんだけど、僕はね、このついでにリズエルひとり連れて帰れば大手柄なわけよ。でもそのリズエルは~、頭と目と利き手が無事なら後はどうなってても構わないんだ。足も」
言いながら、グールドは唐突にラセミスタの左腿にナイフを突き刺した。
今度こそ、目の前が真っ赤になった。いきなり燃え上がったかと思うような衝撃だった。あげちゃいけないとわかっていたのに、悲鳴が勝手に出てしまった。グールドがナイフを抜くと、一瞬置いて、血があふれ出てきた。
ラセミスタは考えた。信じられない。
こんなに、本当に、血が、自分の体の中を流れているなんて、信じられない。
「いーい、声。ね、聞こえたでしょ? こっちの足も、いらないんだよ」
今度は右腿だった。理不尽で唐突で、警告もためらいもない鮮烈な痛みが突き刺さった。骨にナイフが当たってがちっと言った。悲鳴を上げたかどうかも定かじゃなかった。頭ががんがんする。身体が震えて止まらない。グールドの楽しそうな笑い声が響いた。その笑い声に紛れさせ、なんとか呼吸を整えた。
チャンスは一度きりだ。もうこんなことをしても意味はないかも知れないが、でも、何もしないわけにはいかなかった。
マリアラと今一緒にいるのはミフじゃない。フィだ。ミランダのそばにはシグルドがいる。マリアラとミランダがここに来ようとしたって、フェルドとシグルドがどんなことをしても止めるだろう、だから――
「さあ、早くおいで。僕は短気だからね。三分後に右耳を落とす。次の三分後には左耳だよ。それでも来なかったら左足かな。でもそれまでには来るよね? ――あこらっ!」
「来ちゃ駄目だからね――!」
未だかつてこんなに機敏に動けたことはなかった。ラセミスタは指示を打ち終えた自分の端末から伸ばしたコードを左手で持ち、毛布をはねあげてグールドの手をすり抜けて前のめりに倒れ込みながら、〈アスタ〉のスクリーンの入力端子に差し込んだ。静寂が落ちた。スピーカーから流れ出た自分の声が途中で断ちきられたので、キーの配列を間違えずにちゃんと指示を入力できていたのだということがわかる。
身体を支えきれずに、冷たい床に倒れ込んだ。がしゃんと端末が続けて落ちた。グールドが毒づいた。
「何やってるんだよ。こんなの抜けばすぐ戻るんだろ……あれ?」
グールドがコードを抜いたが、当然、通信は始まらなかった。ラセミスタが打ったのはこの場所のカメラとマイクをオフにするための指示ではなかった。この階全てから〈アスタ〉を閉め出すための指示だった。
フェルドが来るはずだ、とラセミスタは考えた。いくら遅くなったって。あの兄が、例え誰がどんな手を使って閉じこめようとしたって、手遅れになってしまうまで、手をこまねいているわけがなかった。だから、もしかしたらグールドをこてんぱんにのすところを、〈アスタ〉に見られない方がいいかもしれないと、思ったのだ。
「おいこら、せっかくいいとこだったんだからさ。戻せよ」
グールドが毒づいている。言うことを聞かなかったら殺されるのだろう。絶対にダメだと考えた。
――ここに、こんな男のいる場所に、マリアラを呼ぶなんて絶対にダメだ。




