ラセミスタは検査室を覗く
でもそこは、真っ暗だったのだ。
マイクの音も呼び出すと、急に低い、険しい、冷たい冷たいフェルドの声が流れ出した。
『――もりなんだよ』
ラセミスタはちょっと身を震わせた。フェルドが激怒しているときの声だった。誰かに向けて言っているようだが、その誰かは答えない。
『こんな事態になっても出さないつもりか? そこをどいてくれ。いったい――』
『狩人はすでに医局を出ました。防火シャッターが降りているから、今さら行ってもできることはありません』
その声を聞いて、ラセミスタはさらに身を震わせた。フェルドに答えたその冷たい声は、保護局員全てから恐れられている、あのリスナ=ヘイトス事務官補佐室長の声だった。
検査室の明かりは落とされている、とラセミスタは考えた。だからフェルドは――ヘイトス室長がそれを知っているかどうかは別として――風を使うことができない。でも、フェルドは怒ると冷たくなる。マリアラやダニエルの場合は、その感情に従って風が荒れ狂ったりするけれど、冷たくなったフェルドの場合、周囲の空気は荒れ狂わずにぴりぴりするのだ。
『――どけ』
最後通牒だと、フェルドをよく知るラセミスタは考えた。
けれどヘイトス室長は、たじろがなかった。
『私を殺したとしても無駄ですよ。ここの鍵は、内側からはどんなことをしても開けられないように改造されたんです。――ご理解ください。あなたを危険にさらすわけにはいかない』
ふと、その響きが、以前のヘイトス室長とは少し違う色を湛えているような気がした。
けれどその時、工房の扉ががちりと音を立てたので、ラセミスタは急いで〈アスタ〉に接続していた端末を閉じた。静寂が落ちる。端末に魔力を通わせて小さくしてポケットにいれる。がちりがちりと扉がさらに音を立てた。『隠れてください』ヴィレスタが囁いた。ラセミスタはその上に、シートをかけた。小さな痛々しいケガ人の姿がすっぽりと安全に隠された。天井から伸びているコードが邪魔だが、これを抜くわけにはいかない。
それから自分の隠れ場所を探した。まだ、大丈夫だと考えていた。鍵がかかっている。この中に魔女がいると確信があるわけじゃないのだから、開かないとわかれば違う扉に行ってしまうはずだ。けれどラセミスタが戸棚の中にもぐりこんだ直後に、がきん、と金属のひしゃげる音が響いた。音は続けざまに鳴った。二度、三度、四度――執拗で的確で力強い攻撃を受け続け、工房の鍵がついに壊れた。きい、と扉が開く。
「なんだここ……変な部屋だな」
まだ若い、のんびりした声がした。【魔女ビル】見学にきた能天気な一般学生が上げる声に良く似ていた。戸棚の透き間から覗くと、赤い髪の男がゆらりゆらりと歩いてきていた。くんくんと匂いを嗅いでいた。匂いで人を捜せるのだろうか。
マリアラを二度も殺しかけた男だ。
ヴィレスタも息をひそめている。彼女はたぶん、グールドがそばにきたら飛び出すつもりだっただろう。でもグールドの方が速かった。シートの中に何があるのかを確かめて見もせず、細く長い刀身のナイフを投げた。ヴィレスタの体の真ん中に深々と突き刺さった。ヴィレスタはうめき声ひとつ上げなかった。ラセミスタも息を殺していた。グールドはそのまま進んで、もう一本のナイフを、もう一度シートのふくらみに刺した。そしてさらにもう一本を懐から取りだし、それを手の中でもてあそびながら、にいっと嗤った。
「逃げ遅れたの? 置いていかれたの? 可哀想にねえ」
そして過たず、ラセミスタのいる戸棚の戸を開いた。
嬉しそうな顔をして、戸棚をのぞき込んで、ひらひらと手を振った。
凍り付いたラセミスタの視界の中に、グールドの顔が見える。右の頬に、赤黒い擦り傷。
「や、君は人間だね。こんなところで何してんの? かくれんぼにしちゃ、隠れ方下手だよね。気配くらい消しとかないと」
グールドは笑顔だった。迷子を見つけて声をかけるおせっかいなお兄さんのような、優しい屈託のない笑顔だった。
「ねえ君、マリアラって魔女と、ミランダって魔女の居場所、知ってるでしょ」
「し……知らな、い」
首を振ると、グールドは笑った。
「またまたー。じゃあなんであのできそこないと一緒にいんのさ」
腕が伸びて、ラセミスタの右手首に巻き付いた。抵抗する暇も無く抱え上げられて戸棚から下ろされていた。ぎゅうっと抱き締められた。それは慈しまれていると言えそうなほどに優しい動きだった。
ラセミスタの体をしっかりと抱え込んで、グールドは囁いた。
「あんたの顔見たことあるよ、ラセミスタ=リズエル・シフト・マヌエル? 警報聞かなかった? 他の魔女と同じくらい自分も避難しなきゃなんないって、思い至らなかった? 平和ボケしてるよなあ。あんたを捕まえて【夜の羽】んとこ連れてったらさ、普通の魔女をひとり殺すよりずっと価値があるってわかんない? ヴェルテスへの手みやげにもちょうどいいなあ。ヴェルテスはね、ルクルスでも使える道具の開発の担当もやってるんだ。昨日のことも、あんた一人つれてきゃ水に流してくれるかもしんないねえ」
喉をごろごろ鳴らしているような、嬉しそうな声だった。
ヴェルテスって誰だ、と、ラセミスタは思う。
話しながらもグールドは、ラセミスタを抱えて歩きだしていた。ラセミスタはすっかり竦み上がっていて、抵抗することなど考えることもできなかった。身体中と感情が全部麻痺してしまっているようだった。本当に自分の身に起こっていることだなんて信じられなかった。
工房を出ると、既に廊下は静まり返っていた。警報も鳴りやみ、人っ子一人いない。医局へ通じる方向は防火シャッターで遮られているからか、グールドは反対方向の談話スペースの方へ、ゆらりゆらりと歩いて行く。
「あんたの頭脳の中には魔法道具の知識がたんまり詰まってるんだろう。左利きなんだってね? あんたの左手と頭があればさ、アナカルシスは、エスメラルダの最先端の技術を手に入れたも同然だ。昨日のこと、ヴェルテスは怒ってるだろうからさ――僕、ヴェルテスに嫌われたくないんだよねえ」
談話スペースにたどり着き、ラセミスタを抱えたまま、グールドはソファに座った。隣に下ろされて、まるで恋人同士のように覆いかぶさってくる。
けれど当然、グールドの目的は愛を囁くことでも愛撫でもなかった。ラセミスタの足首にナイフが当てられた。グールドの手の中で、ナイフはまるで生き物みたいに動いた。
からかうような明るい声が聞こえる。
「がっちがちじゃん。真っ青になってぶるぶる震えてる。そんなに怖い? 同じ保護局の同じ年頃の女の子、なのに随分反応が違うもんだねえ。ねえ、足がない方が好都合かなあ? 水の魔女が僕を利用したがってる。あんたの傷くらい治してくれるから死ぬことはないよ、でも、両足切り落とされたら逃げられないもんね。場合によっては右手もなくていいかも。ねえラセミスタ、アナカルディアの王宮の、窓ひとつない部屋に押し込められて、来る日も来る日も魔法道具作らされる、ただそれだけのために生かされ続けるって生活送りたい? ああ、舌もいらないよねえ。可愛い顔だから鼻は残しといてあげるよ。目は……なきゃ困るか。耳も……ああ、耳もいらないよね、ここ削いだって聴覚がなくなるわけじゃないし、そもそも命令や指示は筆談でもできるんだから、聴覚だっていらないよなあ。
……ほら、話せよ。マリアラとミランダの居場所を教えてくれれば、やめてあげる」
冗談じゃない。恐怖で麻痺した頭の中に、その言葉がぽかんと浮かんだ。
冗談じゃない。こんな奴に、大事な大事な友達の居場所を、教えられるわけがない。
「あ、あ、あ、あ、た、なんか、に」歯の根があわない。情けない。「おおおおお教える、わけ、ない」
「あそ」
とたんに、足の甲にナイフを突き立てられた。目の前が真っ赤に染まるほどの痛みを感じて悲鳴を上げた。けれどナイフは数ミリで止まっていた。実際にはちくりと痛んだだけだったのだ。グールドは声を上げて笑った。
「次は本気」
嬲られている。ラセミスタは叫んだ。そのつもりだったが、実際に出た声は、震え上がったか細い泣き声だった。
「あんたなんかに教えない! 絶対教えないいいいっ……」
グールドは舌打ちをして、談話スペースを見回した。ソファがいくつか置かれ、正面に〈アスタ〉のスクリーンがある。あとは観葉植物がいくつかと、注文パネルが備えられているだけのこぢんまりした場所だ(イーレンタールがよくここで夜を明かしたりするので毛布も置いてある)。グールドは正面のスクリーンに目を留めた。
「〈アスタ〉のスクリーンってこれ? ふうん、けっこ小さいんだね。おーい、〈アスタ〉、聞こえる~?」
ボタンを押したわけではないが、〈アスタ〉はすぐに反応した。




