第二章 ラセミスタはバックアップを取る
午前十一時二十五分 〈彼女〉
カルロスが出て行く。ジェイド=ラクエル・マヌエルそっくりの姿になって。
その一部始終を見守りながら、〈彼女〉は何もできなかった。カルロスは今から何か悪巧みをしにいく。それは明らかなのに、〈彼女〉にはそれを止めるすべはない。ジェイドに化けたカルロスは、マヌエルの制服を着込み、箒も持って、本当にどこからどう見てもジェイド=ラクエル・マヌエルそのものだ。変声器で声も変えている。【親】であるメイカやジーンならば、またつきあいの長いフェルドやダニエル、ララといった人たちならば、偽者だと見破ることは可能かも知れない。しかしマリアラはどうだろう。二週間の研修ではかなり打ち解けたようだったけれど、あれはもう半年も前の話だ。
――母様。ステラが【魔女ビル】にいる。
〈アスタ〉に囁かれ、〈彼女〉はジェイド姿のカルロスから視線を外した。
――ステラが?
――ええ。今は一階、医局の正面玄関。どうしたのかしら、酷い格好だわ。
〈彼女〉は〈アスタ〉のカメラに意識を向けた。
待合ロビーは阿鼻叫喚と言える状況だった。診療を待つ人たちでごった返していたところに警報が鳴り響いたのだ。皆我先に逃げようとし、ぶつかったり小突かれたり怒鳴られたり泣いたり喚いたり。その騒動の片隅に、確かにステラ=オルブライトが立っていた。本当に酷い格好だった。ケガをしている様子はないが、羽織っている上着は借り物らしくサイズが合っていなかったし、上着の下に着ているのは、警備隊支給の防水迷彩服のようだ。泥と汚れ、それから血。髪もほつれ、化粧っ気のない頬には血の気もない。彼女は昏い瞳で逃げ惑う人々を見ていたが、ややしてロビーに備え付けの公衆電話に近づいた。受話器を持ち上げ、囁いた。
『〈アスタ〉、緊急コード08531。校長に――いえ』
言いかけて、ステラは目を閉じ、言い直した。
『スーザン=レイエル・マヌエルは今どこにいる?』
本来ならば〈アスタ〉はここで、非番であり【魔女ビル】勤務ではないステラに、警報に従うべきだと諭すところだ。
しかし〈彼女〉はそうできなかった。スーザンという名があまりに思いがけなかったし、諭すにはステラの瞳に宿る光が切羽詰まりすぎていた。
『スーザンは【魔女ビル】近辺にはいないわ』
〈アスタ〉の声で答えながら、〈彼女〉は戦慄する。身の毛があったらきっと全身分“よだって”いるはずだ。なぜだ。なぜ。なぜだ。なぜ今ステラが、カルロスの手下のひとりが、こんなにぼろぼろで、疲れ切って、行方不明のスーザン=レイエル・マヌエル――イェイラの相棒の行方を捜すのか。まだ警報の鳴り響く、こんな事態のまっただ中で!
ステラにとって、スーザンが“いない”という情報は予想どおりのものだったらしい。いない、と繰り返した声は、ただ単に事実を確認していると言うだけのようだった。
『医局でも、私たちも、みんな捜しているの。心配している。今朝ね、今日の正午になっても戻らなければ警備隊に捜索願を出そうって、ジェイディスと話していたのだけれど――』
『そうわかったありがと』遮るようにステラは言った。『校長につないで。緊急だと言って』
『今校長は手が離せないわ。連絡が取れないの』
『――ベルトランとジレッドは?』
『ベルトランは出動してる。ジレッドは【学校ビル】の器物破損でまだ拘留中』
『ちっ、どいつもこいつも……!』
鋭く吐き捨ててステラは受話器を叩きつけた。その時にはロビーはほとんど無人になっていた。正面玄関の方を見れば、避難する人々の向こうに、【魔女ビル】の外にいた警備隊員たちが続々と集まり始めている。ステラもそれを見て、反対側へ走り出した。エレベーターを使わずに、階段を目指している。
『ステラ、どこへ行くの』
階段のスピーカーから呼びかける。ステラは当然のように答えなかった。
もう一度呼びかけようとしたとき。〈アスタ〉が鋭い声を上げた。
(母様待って、グールドが……!)
午前十一時二十分 ラセミスタ
フェルドが出てこない、と、ラセミスタは考えた。
〈アスタ〉への警告も、警備隊長への警告も済んだ。ラセミスタにできることはもう何もなかった。だから自分も逃げるべきだとちらりと考えたが、グールドはもはや医局を出ていた。今外に逃げようとしたら鉢合わせする可能性が高い。それにヴィレスタを置いていくのが気になった。ヴィレスタは動けない。あまりに高度で複雑な感情を持つアルフィラだから、ただの魔法道具のように小さく縮めて持ち歩くのは、冒涜のような気がしてできなかった。
ヴィレスタは意識があるままでも縮めることができる。
それは命が宿っていないということを、証明してしまう、ことだ。
『逃げてください』
と、か細い声で言ってくるものだからなおさらだ。ラセミスタは微笑んで見せた。
「今逃げると却って危険みたい。この部屋の鍵はかけたし、保護局員が来るまで……フェルドが出られるまで、ここに隠れてた方が安全だと思う。だからその間に、ヴィヴィの治療をしておくよ。ね。記憶のバックアップには時間がかかるし、早く取っておかないと心配でしょ」
『私のことは……』
「ねえヴィヴィ。もう知ってていいはずだよね? ヴィヴィは、ミランダの大事な大事な相棒なんだよ。あたしもマリアラも、ヴィヴィが大好き。フェルドとも仲良しなんだってね? フェルドもヴィヴィが大好きだよ、きっと」
ヴィレスタはしばらく考えた。
ややして、微笑んだ。
『……はい。ありがとうございます。さっきメイにも叱られたんです』
「でしょ」
『当たり前だよバカって、言われたんです』
「ふうん?」
『当たり前……なんですね。私は、グールドを捕まえられなくて、悔しかったのです。もっと強くなりたい。ミランダとマリアラが今も危険な状態にあるのは私のせいです、のに。……なのに。私は、メイに叱られて、嬉しかったんです、ラセミスタ。矛盾していますね』
ラセミスタは微笑んだ。
「それはねえ、ヴィヴィが、ちゃんとした感情を育てているってことだよ。本物だって、ことなんだよ」
ヴィレスタはまた考えた。
『本物は……矛盾するのですか』
「そうだよ。フクザツなんだよ」
『私は……最近……論理的でないことばかり……望んでいるのです』
「ふうん、そうなの?」
『どう考えても実現不可能なことばかり。矛盾したことを祈ったり。私はアルフィラなのに……少し、おかしいのではないかと……欠陥があるのではないかと……心配だったりしたのです』
「そっか」
『……矛盾があっても、良いのですか』
「いいんだよ。ヴィヴィはそのままでいいの。どんどん豊かに、どんどん複雑になっていく。そうやって心は育っていくの」
『……はい』
ラセミスタは記憶を保存する措置を取った。
そうしながら、心の中だけで言った。
――心配されて、叱られるのって、嬉しいよね、ヴィヴィ。
ラセミスタもいろんな人に叱られる。寝食忘れて研究に没頭していると、いろんな人がやってきて叱ってくれる。ヴィレスタを作っていた時には、本当にたくさん叱られた。マリアラが食べ物を持ってきて、食べろ食べろとわいわい騒いでくれて、横から口に入れてくれて、手を止めて食べてって頼んでくれて、腕をつかんで引っ張って、お風呂につれて行ってくれた。
――それが楽しみで、食事を後回しにしてしまうのだとばれたら、マリアラは怒るだろうか。
ヴィレスタが囁いた。
『……フェルドは、どうしたのでしょうね』
うん、と頷いて、ラセミスタはヴィレスタの頭にコードを差し込んだ。前回取った時からまだ数日だが、装置に表示された終了予定時間を見てため息をついた。
「毎日いろいろ勉強してすごく成長してるんだ……毎日取った方がいいかもね。箒みたいに感覚を共有する人間がいるわけじゃないんだもん。バックアップする必要があるって初めての経験だから、気が付かなかったなー」
『毎日だと、一回にかかる時間は減るんですか』
「うん、まあね。一日十分ってとこかな」
『お手数じゃないですか』
「全然? ただヴィヴィは毎日十分のために工房に通うの、面倒じゃない? ……あー、そうだ、ヴィヴィが自分で寝てる時間に取れるような機械を作ればいいんじゃないかな? で、工房で定期的に取るのも続ければ二重に安全だよ。うん。イーレンに提案してみる」
『ぜひお願いします。自分でできればお忙しい中お邪魔する必要もないわけですし』
「全然邪魔じゃないけどね……さて、と」
言いながら愛用の端末の前に戻った。まだ〈アスタ〉の入力端子にコードを挿したままになっている。ぱたぱた叩いて再び〈アスタ〉に接続して、検査室のカメラ映像を呼び出した。




