グムヌス議員は医局に居座る
午前八時三十分 マリアラ
マリアラはミランダの部屋の扉を叩いたが、返事がなかったのに首をかしげた。まさかもう出かけたのだろうか。
〈アスタ〉に聞くのははばかられ、困ったな、と呟いた。うーん、と唸って、きびすを返した。確か待ち合わせは十時だと聞いた気がするが、先日来のミランダの取り乱しぶりを考えると、もしかしたら遅刻するのではないかという心配のあまり、すでに駅に向かっているのかもしれない。
――〈アスタ〉は校長の道具なんだ。
ギュンターとガストンが口を揃えて言った言葉さえなければ、ミランダの居場所を〈アスタ〉に聞けるのに。
医局には行かないはずだ。まさかとは思うが、待ち合わせの場所に行ってみよう。
今日の午後からは待機時間だ。けれど午前中は何もないので、今は私服だった。ということは仕事のふりして箒に乗ることもできないわけだ。仕方なく足を速めた。
午前九時 〈彼女〉
カルロスが執務机についた。相変わらず勤勉な男だった。
〈彼女〉は昨日のおやつ時を過ぎたころからずっと、息をひそめて成り行きを見守っていた。
カルロスが例の通信機器を離さず、誰かからの連絡を待っていたということ。
南大島出張所から沖島のガストンへ連絡があり、それを受けたガストンが、指導中の研修生ひとりを伴って、荒れ始めた海へ飛び出したこと。
ガストンが昨夕『害虫駆除について相談がある』とギュンターに連絡し、ギュンターはそれに応えて外出先から直帰していること。
南大島出張所からの定期連絡が、昨夜に限って、いつものザールからではなくベネットからなされたということ。
ガストンと研修生は真夜中近くなってようやく沖島へ戻った。急な外出の理由は、南大島出張所に重大な忘れ物(研修生の指導に必要な書類一式だとガストンは説明した)をしたためだということだった。嵐のために帰還が遅れたそうだ。一応は筋が通っている。
そして今朝、本土にいる警備隊員のひとりが、南大島第一詰所の隊員に、同期会の出欠確認のために連絡をとろうとしたところ、出たのはやはりベネットで、その隊員は今手が離せないので伝えておく、と返事をしたということ――。
〈アスタ〉に入ってくるさまざまな些細な情報は、ひとつひとつを見れば取りこぼしてしまいそうな小さなものだ。でも南大島第一詰所に関する情報だけ抽出すると、何かうごめくものがある。〈彼女〉はそのすべてを注意深く集めた。息を殺して、細心の注意を払って。〈アスタ〉にはちゃんと釘を刺してある。カルロスへの報告はすべて〈彼女〉がするから、余計なことは何ひとつ伝えないようにと。
――聞かれたことには答えなければならない、けれど。
通常どおり執務を始めたカルロスを見つめながら〈彼女〉は考える。
――聞かれないことにまで、答える必要はない。
いよいよその日が来るのだろうか。この男を、エルヴェントラの座から追放する日が、ようやく来るのだろうか。今となっては憎い憎い仇だ。どんなに憎んでも憎みきれない。だってこの男は〈彼〉を殺した。あたしのだいじなだいじなあの人を、その思い出を踏みにじった。
ガストンと、ギュンター。そしてナイジェル副校長、グムヌス議員。カルロスの目をかいくぐりながら少しずつ集った仲間たち。彼らならばなんとかしてくれるのかもしれない。どうか頑張ってほしい。今度こそ。今度こそ。今度こそ――
――期待など空しいと、幾度も思い知っているけれど。でも。
午前九時三十分 ミランダ
グムヌス氏は、うわべは機嫌が良かった。七十近い年齢の、一見人のいいお爺さんだ。
医局を担当する元老院議員である。気に入った人間にはとても優しい。ひと月かふた月に一度医局に現れるのだが、気に入った魔女に治療してもらうのを何よりの楽しみにしているのだそうだ。最近はミランダの担当になっている。以前担当だった魔女は、グムヌスの『寵愛』がミランダに移ったとき、残念なような、でもホッとしたような様子だった。グムヌスは優しく、話題も豊富で退屈しないし、『愛すべきお爺さん』なのだと彼女は言った。けれど、聞き分けがないのだ。担当の魔女が休暇だろうとなんだろうと、それこそ【水の世界】に人を救出に行っているのでもない限り呼び出して欲しがるし、どうしても都合がつかないならその魔女の身体が空くまで待っている。待っている間に医局中を覗き回って、その時周囲にいる魔女が治療中でもお構いなしに質問責めにし、来局している患者の容態や治療の方法だの、薬の精製方法だの、現在医局に所属している魔女のプロフィールだのを根掘り葉掘り聞きまくるという悪癖がある。さらには待っている時間に応じて機嫌がどんどん悪くなる。まだ担当が来られないから一度帰ってくれと言っても聞かない。担当の魔女が戻ったら、治療に伺わせますからとまで言っても駄目なのだ。魔女を呼びつけるなんてエスメラルダ国民のすることではない、と真面目くさって言うのだそうだ。
つまりグムヌス氏の希望は、担当の魔女がグムヌス氏の都合のいい時間にはいつも待機していて、いつも快く笑顔で迎えてくれることなのだ。そうでないと機嫌が悪くなる。悪くなるばかりではなく様々なところに実害が出る。
ミランダは今まで、運良く、グムヌスの要望に応えられないことが一度もなかった。ミランダが医局に詰めていないときにグムヌスが来局したのは今日が初めてだ。
――何も、よりによって今日じゃなくても!
にこやかな仮面の裏で嘆き悲しんでいるミランダの様子に、グムヌスはたぶん気づいていた。
グムヌスは年齢の割に――というより、この年齢だから、なのだろうか――とても子どもっぽい。確かに『愛すべきお爺さん』だった。愛嬌がある。我が儘を言っても、しょうがないなと許してしまう何かがある。気に入った孫のような魔女が、誰かとの待ち合わせのために、普段にないおめかしをしている。ということにどうやらへそを曲げたらしい。全身の凝りをほぐし血行を改善し終え、もうどこも痛くも重くもないはずだというのに、いっこうにミランダを放そうとしなかった。
時計を見ると、九時半だ。かれこれ一時間以上もグムヌス氏はミランダを独占している。
その髪型はとてもよく似合うと彼は言った。だが、今日は休暇だそうだがこれからどこへ行くのかねとか、誰と会うのか、何をするのか、そういうことについては一切聞かない。わかっているのだろう。憎からず思っている異性と会うのだと、百戦錬磨の元老院議員なのだから、それくらいのことはわかっているはずだ。だから居座っている。何食わぬ顔をして、のらりくらりとしているわけだ。
「おおそうだ。今朝のニュースを見たかね。ひょうたん湖に【水の世界】が来ているらしいよ。人里のこんな傍に【水の世界】が来るのは珍しい。ひょうたん湖にはひと目【水の世界】を見たい人たちが詰めかけているとニュースで言っていた。君はレイエルだから、【水の世界】の美しさはよく知っているだろう? ひょうたん湖を覗くと素晴らしい光景が見られるらしいよ、そうそう、【水の世界】と言えば――」
ミランダはほとほと困り果て、何十度目かに時計を見て、諦めた。
声に出さずに、メイに頼む。少し離れたロッカーの陰でグムヌス氏を睨み殺しそうな顔をしているヴィレスタに、伝言を伝えてもらうように。
――先に駅に行って、シグルドに、どうしても抜けられない用事で少しだけ遅れるって、伝えてくれない?
グムヌス氏の機嫌を損ねてでも、治療を切り上げて駅に向かうのは簡単だ。だが医局の一員として、もはやそうすることはできなかった。ミランダは今制服を着ている。医局の看板を背負っているわけだ。ここに来て、満足していない患者を追い返すようなまねをするくらいなら、初めから承諾すべきではなかったのだ。
ヴィレスタが了解して走り出ていく。メイの感覚器官を通してそれを確認し、ミランダはホッとした。シグルドには本当に申し訳ないことだ。四時間もかけて来てくれているのに、駅で迎えないなんて失礼な話だ。誤解されないといいのだけれど。
ミランダの心境をよく知りながら知らないふりをして、グムヌス氏は最近出張で行った、レイキアの風景や食べ物についてよどみなく話し続けている。




